世界的微小カント入門
たとえば、ビッグバン以前の宇宙はどうなっていたのだろか、また、宇宙の果ては、宇宙の限りはあるだろうか。熊野純彦「カント 世界の限界を経験することは可能か」シリーズ・哲学のエッセンスNHK出版2002年は、このような世界の限界をめぐる問いに対するカントの答えについて教えてくれる入門書である(ちなみに俺は哲学入門書しか読まない読めない知ったかぶり)。
そして、カントはこの問いに対して相反する二つの命題(アンティノミー)を用意してくれている→世界は時間的・空間的に有限/世界は時間的・空間的に無限。その上で、どちらの命題も正しくない、つまり、世界は有限でも無限でもないことを証明している。
なぜなら(俺流「単純」にときほぐすと)有限だとすると「始め」があることになり「それ以前」がどうなっているかという虚妄の問いが成立してしまうし、逆に、無限だとすると「いまここ」に到るまでに無限の時間・空間が存在することになり、ものごとには全て原因が存在するはずという素朴な信念(原因から結果に到るまでは有限)に反するからである。
カントは、このことを「物自体」(認識経験する我々から独立存在している客観)と「現象」(我々が認識経験する客観の現われ)の区別に起因している、換言すると、世界は物自体であり、物自体は経験を超えているから認識し得ない、我々が認識できるのは現象のみということに理由があるとしているのである。(ああああ世界的微小を目指したはずなのに冗長になってしまってるぅぅぅ→知ったかぶり俺の歯がゆさよ)
要するにビッグバン以前(物自体)を問うことは虚妄であり、逆に、ビッグバンが無限の昔とすることもできない(現象と物自体との間に無限が生じてしまう)、ということである。また、空間・時間という形式は物自体に属するのではなく、現象を認識する際に我々がア・プリオリ(先験的)に用いざるを得ない論理形式だから、時間・空間の向こう(無限)を問うことはナンセンスということである。カントのアンテイノミーについては入門書を読んでもだいたいこの程度の理解で停滞→時間の経過とともに忘却ということを繰り返している。
ところがユーレカ!風呂に入っていて思いついた。こんなん簡単やんかあ。物自体というから難しくなる。物自体は実像、俺が認識しているのはその摸像。時間・空間は摸像を俺が形成する際に不可避となる形式、もっとわかりやすく言うと、俺は時間・空間という色眼鏡を通してのみしか実像を見ることができず、色眼鏡を外した状態の実像は想像もできない即ち物自体、ということなのだ。
我々は世界について語っているのではない。実は世界のモデル(摸像)について語っているにすぎない。俺はおまえを理解し愛しているつもりだけれど実はおまえについて俺の脳内に形成されたモデルを理解し愛しているのだ。だから事実は立体的。見る角度によって違うモデルが形成されるのである。円柱は上から見れば円だけれども横から見れば四角形なのである。
世間・社会など全ての実在(物自体)について誰もがみんな違った答え(経験→モデル)を持っていて、そのモデルは全て等価値である。だから人を手段と考えてはならない。手段視すればその分実在のモデルが欠けて認識が不足する。すなわち、人は手段ではなく目的。ここに個の尊重の根源的理由がある。これがカントだ。世界的微小入門になっているかな?
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コメント
コメントありがとうございます。
カントが分かりやすく説明してあって、面白かったです。
熊野さんのカントの入門書は僕も読みました。比較的分かりやすくて、面白かった印象があります。
また、遊びに来ます。
では~
投稿 ささやん | 2006年7月27日 (木) 午後 07時09分
読んで下さってありがとうございます。勉強していらっしゃる方に「面白かった」と言われると自信になります。今後ともよろしく、そして探究が進まれることをお祈り申し上げます。
投稿 土曜日の各駅停車 | 2006年7月27日 (木) 午後 10時12分