大引け/退屈な午後
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16035で返済したのだから逃した魚が大きい(とは言わない)。シッポはくれてやる。
でも、返済売り注文オペをしているその時に急騰していたのはちょっぴり口惜しい。
だから、今後、返済注文出すときには深呼吸を一回だけすることにしよう。
ついでに現物。キヤノンが目標価格に到達したので5790で利食い。
さて、調整よドーンと来い。もっとも来週SQ怖いから12月物に切り替えるかな。
後場は売り方の仕掛けを注視の所存。
※前場の祇園精舎→ドレッシング買い?踏み上げ?・・・今日の前場
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朝Walkの途中、近くのコンビニで立ち読み。
目次を見たけど見つからない。あれえー、と思い目を凝らすとトップではなかった。しかも見開き2ページ。なんだこれだけかと思いつつ(老眼鏡なしで)読む。
で、結論は「Xデーは新政権発足後落ち着きをみてからの10月」とのこと。ようく考えるとこれはオカシイ。なんで新政権発足後やねん。逮捕するか否かは政治と関係ないやろ。政権の意向を伺わなければ逮捕が出来ぬというのなら、司法の独立に反するし、政治の職権濫用である。どうせ書くのなら政治にまで踏み込め、週刊新潮の風説の流布野郎。
ということで楽天を株価監視ボードに入れて底値を拾う候補にする。実は1株だけTBSに勝った場合の保険のつもりで持っているのだが、買うのならどーんとナンピンしよう。
東京都民銀行とのネット銀行提携がちょっと気になったのでググると、三木谷氏は、東京都民銀行と提携し、来春に開設する予定の都民銀行のネット支店「楽天銀行」が、「今後のキーになる」と話した。とあった。とりあえずは安心(としよう)。
※画像は新潮社からパクリ/感謝です。
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ああ、下げちゃった。
しかしまあ、アメリカはともあれ日本は自主独立(でありたいな)。
8:50発表の鉱工業生産統計がまずはの材料か。
綱渡り真剣白刃受け止めてへらへら笑ひ寄付きを待つ
※写真は市川雷蔵ブームとは何かから勝手拝借/感謝です。
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みの虫さんから「チョーマイナーな短歌、書」とコメントを寄せて頂いて、そうか俺は少数派に属するのだとあらためて安心感(少数派でないと納得できないこのへそ曲がり)。そんなところに「グーグル―Google 既存のビジネスを破壊する」をさーっと流し読み。流し読みしても未だグーグルの凄さがよくわからぬ、日本では何故ヤフーがグーグルに勝っているかも不明。ああやっぱり俺の目は曇っている(俺はヤフー4株を塩漬け所有)。
それはそれとしてロングテール現象は少数派にとって福音。リアル書店で手に入らぬ希少本を古本屋巡りせずとも入手できるのはラクチンであろう。
だがしかし安心するのはまだ早い。一方でネットは無知大衆が一方的に煽られる危険性を秘めている(想起せよ昨日の相場楽天騒ぎ。あ、朝ウォークで週刊新潮立ち読みしなくちゃ)。
結局ネットは矢張り手段にすぎぬ。人民が無知ならばネットはそれを増幅する。もっとも双方向性がある分、マスメディアよりは相当性にマシ。それが証拠に、こうして俺がヘタレ話を書いても読んでコメントしてくれる人がいる。ハイパーテキストとブログと検索エンジンに多様言論の希望をつなぐべし。
さて、今日は坪野哲久。山田あきの旦那であり、チョーマイナーな短歌人の中でも左翼という更なる少数派に属する。
曼珠沙華のするどき象夢にみしうちくだかれて秋ゆきぬべき
「曼珠沙華のするどき象(かたち)」はいったい何の愉(たとえ)であろうか。「曼珠沙華」に「するどき」という形容詞をかぶせるのは尋常ではない。更には「象(かたち)」である。この不可解な愉は不可解なままで読者の記憶に残る一方で、下句「うちくだかれて秋ゆきぬべき」は比較的平明に読める。作者が「うちくだかれて」も歌いたかったものは何かという疑問は残りつつ、その切迫感は伝わってくるのである。
そんな疑問をずっと抱いていたが今回ネット検索して作者自解に出会った。「これは三十四年前の夢の歌。いわゆる「支那事変」という侵略戦の只中、多くの若者たちが、大陸の山野に血を流しつつあった時期で、この身もいっぴきの餓狼にちがいなく、心身ともに病み憑れていた。そのときのやる方なき無残の想いが、この歌の最後に揺曳しているのであろうか」と作者は書いているそうだ。また、転向したか否かという議論にも出会い、「うちくだかれて」という措辞には(転向したか否かは別にして)転向を迫られるような暴力の状況が反映していると思う。
しかし、歌は言語として外化した以上は、作者及び作歌の時代状況とは独立した生命を持つ。不可解は不可解のままで愉として読者に迫る。夢にみた彼岸花は打ち砕かれても、季節は過ぎ、生者は死者をときに悼みつつ生きなければならぬ。
彼岸花死人のごとく血を垂らす
※写真はひゃあひゃあ 山へ行くから勝手拝借/感謝です。
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明日の週刊新潮にクサイ記事が載るのだろうけれどお騒がせだなあ。
三木谷さんが逮捕される訳がないじゃん。だって体制の虎の尾は踏んでないでしょう。
もっとも楽天安値を買う勇気は無いけれど。
ああ、明日の16000にラッキークリック!
※今日の祇園精舎→楽天ショックで乱高下・・・買戻しは入るものの
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「中性脂肪」というコトバに反応した機械的システム的営業トラバだけれど、公序良俗に反するものではないと判断して許す。
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一瞬15900割れはあれど下値は堅い(と見る)。
さて後場、買いはやってくるだろうか。
ところで10月からストボが動画配信するとのこと。歌と祝賀メッセージを投稿した。
ナンピンの歌
追記:前場の祇園精舎→無風相場・・・今日の前場
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薄商いだけれども、鉄・証券等再編期待、円安、米金利上げ打ち止め期待など好材料揃いつつあり。今日は16000越えあるか。
寄付き前に16010で返済売り注文を出す手もあるけれど、賭場が開くまでまだまだ考慮中。
※写真は株式会社タナカ善から勝手拝借/感謝です。
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純粋経験 「色を見、音を聞く刹那」まだ私は存在しない。
主客未分の状態。
知覚 色を色として音を音として認識する。
私の中の座標軸(時間・空間)が世界を分節する。
帰納 色、音は私の脳内の摸像(モデル)と照合される。
世界はモデルと突き合わされて、意味を獲得する。
仮説 色、音は何処から来るのか。何に起因するのか。
因果律が働き私は原因を設定する。
演繹 とすれば、かくあるはずだ。
ここに、存在と非在の仮説がつくられる。
検証 仮説は実験によって検証される。
確からしさを確認して仮説は理論と呼ばれる。
経験は上のような構造をしているのではないか。そして、経験の限界が形而上学であり、言語ゲームは、分節→意味→原因→存在をめぐる実在からは自律した戯れである。
かかる事態を独我論者永井均は「開闢の奇跡」気分を率直に語るなら、「私」と「今」とは同じものの別の名前なのではないかとさえ感じていると表現しているのであろう、と俺はエラソーに決めつけたいのだ。
だから我と汝は、純粋経験において未分(想起せよ性愛)であり、抽象の極北=理論において共通理解しようとする。ふふ、俺は一人で生まれひとりで死ぬのであるが。
ちなみに、相場は帰納と仮説(強気/弱気)と検証を主戦場とするゲームである。多くの場合、検証で失敗するのだが。
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昨日のプール体重は86.0→85.2。いっときは84キロ台に突入したのに、このところ停滞気味である。朝ウォークも休まず継続しているのにどうしたことか。年内目標80キロを取り下げるつもりはさらさらないが。
実はこのリストラbyプール計画、発端は大山登りであった。町内有志でヤビツ峠から山頂目指し約3時間だったかなあ、30分歩いては5分休憩というペースでの「初心者コース」だった。ところが、頂上まであと一息というところでふいてしまった。顔面蒼白になってしまった。町内おばさんたちは悠々頂上に到着したのに俺はその手前で脱落。畜生、くやしーいがこのリストラにつながったのだ。
12月初旬から毎週3回ブールに通い、水中ウォークとちょっとだけ水泳そしてサウナ。少なくとも3キロは減らしているなあ。週3回プールに通う日々ありて根性無けれど根気はあるぞ。
さて今日は木俣修。白秋の「多磨」(白秋が鉄幹の死に際して「奥様、私は弔い合戦をいたします」と短歌に復帰して作った同人雑誌とのこと)で活躍し、近代短歌研究にも業績を残した人である。
老の身の華奢を見よとぞ胸にさすアカシヤの白き花のひと枝
4句から5句にかけて「白き花のひと枝」が句跨りになっているが、それが結句を際立たせる声調を作り出している。さりげない技巧である。2句切れ(57・577)なのか3句切れ(575・77)なのか判然としないのも技術であろう。
そして措辞はなんといっても「老の身の華奢」。「きゃしゃ」ってこんな華々しく豪奢な字だったのだと、「老の身の華奢」だけに余計にあらためて思う。スマートな老人の色気を感じさせ、アカシヤと共によく映えるのである。
こんなスマートで知性的でダンディな老境を迎えたい。いつまでも色気を失わずに、とダンディとか色気に無縁な俺は思うばかりである。
だから、プール通いは中性脂肪対策や健康のためばかりではなく、伊達や酔狂でもある。伊達や酔狂が人生の本質なのだから。
※写真はアカシヤの大連から勝手拝借/感謝です。
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引け間際、先物主導で急上昇。明日に希望をつなぐ引けだった(としよう)。
今夜はFOMC議事録発表。今後の利下げ見送りにつながる内容ではないように予感。
しかし、今日は下髯の十字足も希望だ。
しかしこんなかんなあんなでもたもた上昇して利食いできれば俺は HAPPY。
目標16010でいいのだけれど。SQ来週金曜日までに。
追記:今日の祇園精舎→薄商いの自律反発・・・鉄だけが熱い
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今回だけは損切りすべきだったと痛感しつつある。
あのイナバウアーの後場、ずるずると下げたあたりがタイミングだったかなあ。
そして何故損切りしなければいけないか。
確かに損を最小にするという目的もあるだろうけれど、損切りしなければ後の投機判断が歪められるということを俺としては挙げたい。
相場は相場に聞け。自然体で投機し回収し撤退する。そんな、客観(相場)と主観(投機)の対峙のあり方を理想としたいからである。自然な判断を維持するために膿は切るべきなのだ。
以上、悔し紛れの理屈であった。
ところがアメリカは想定外の上げ、CME15890。今日も撤退せず、ナンピンするのか。このビョーキ治らぬわ。
相場張る心は知らず百日紅盛り過ぎれば鈴虫の泣く
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こどもの頃、俺は一人遊びが好きだった。家が商売だったもので親は面倒をみてくれず、かといって近所の子たちはワルが多いからと遊びを止められるボンだったのだ。
だから、メンコもビー玉も(恥ずかしながら)できない。釣りもトンボ採りもしたことがない。
家の中でひとり漫画を読んだり空想してたりするこどもだった。大きいなあ、育ちは。孤独が好きで甘えん坊という性格を形成したのは、まさに育ちである。
さて、今日は生方たつゑ。三重県宇治山田に生まれ群馬県沼田の四百年続く旧家に嫁した人だそうだ。「自然というより、自然以上にし峻烈な人生を思っていた」という感慨を残している。
にんげんはつひに「ひとり」と書き終へて硝子のやうな氷片溶かす
どのような状況で何があってこの歌に到ったかはわからない。しかし、この感情は分かる(ような気がする)。生まれてくるときもひとり、死ぬときもひとりという点において「ひとり」は普遍的だから。
だけど「硝子のやうな氷片」(多分、作者の心の中のなにごとかの比喩だろう)は水に溶けていく。溶けるのが自然とまでは言わないが、とにかく溶けざるをえない。
群馬県沼田は三重県で生まれ育った人にとって寒さの厳しい土地であったろう。そこの旧家で嫁として暮らしつつ我がうちの「硝子のやうな氷片」を徐々に溶かして行かざるを得ない女の一生を思うのである。
今日は印象批評になってしまった。
歌は徹底的に私歌ではあるが、「私」は普遍に何処かでつながっている。誰もが心の中に
「硝子のやうな氷片」を持っているのだから。
そして、それが溶けるか否かはまた別の問題。生まれ育ちの違い、そして人生において自分がどんな決断をするかにかかっているのだから。
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今日、明日は日米共に大きな材料予定はなく16000を挟んでの揉み合い。
とすると、先週外泊分を勝つためにはもう少し単価を下げる必要あり。
アブナイあぶないナンピンである。
そして、今日の焦点はまず第一、寄付き前外国証券売買動向。
どこまで信用していいかどうか分からぬが、チェックは必要。ちなみに、金曜イナバウアー相場の朝は大幅売り越し。売りを誘っておいての買い方怒涛の買い策略だったかもしれぬ。
第二はソフトバンク。今日も下げるようだと日経も元気なくなるだろう。しかし今日は上げる予感がする。
従って、今日は下値を狙っての危険大好きナンピン。今日で清算できなければまたもや外泊覚悟。ああ、身の破滅に近づかむか。
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昔、大江健三郎が好きだった。名曲喫茶とパチンコの日々だった頃である。「死者の奢り」「飼育」「セブンティーン」(絶版か)等の初期作品から「性的人間」「個人的な体験」を経て「万延元年のフットボール」までかなあ。それ以降(就職した頃)はとんと読まなくなった。大江が変わったのか(エラソー)俺が変わったのか、司馬遼太郎を読むようになったのだから多分俺が変わったのだろう。いや、時代が変わったのかもしれない。時代を覆う閉塞 感の内容が変わったこともあるだろう。
さて、今日の歌人は柴生田稔。斎藤茂吉に師事したアララギの人である。
放課後の暗き階段を上りゐし一人の学生はいづこに行かむ
2句「暗き階段を」4句「一人の学生は」がいずれも字余りで、それがごつごつした触感を生んでいる。そしてまた「暗き階段」が何ものかを暗示し、結句「いづこに行かむ」と相まって音楽でいえば短調の響きをもたらす。
なんということもない情景を淡々と描写する中にある時代の翳りを読者は感じるのである。陸軍登戸研究所跡を訪れて脈絡もなしにこの歌を想起した方もいる。
歌は徹底的に私歌でなければならぬ。しかし同時に歌は作者から独立の存在であり、時代を映しとる言語ゲームでもある。だから、言語ゲームとして個人的な体験を掘り下げて行けばいつかは普遍的なものに到達する可能性を孕んでいる。昔、大江健三郎もそんな意味のことを書いていたように思う。
「暗き階段」の上には、いったい、何があるのだろうか。
※写真は浜脇小学校HPから勝手借用/感謝です。
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哲学入門書のみの読書で一知半解。それも瞬く間に忘却の彼方へ、という繰り返しの俺だけど、ようやく、ウィトゲンシュタインと言語論的転回がわかった(ような気がした)。
存在とは何か、時間とは何か等形而上学は言葉の使い方に関する問題に還元できる。感覚できない事柄(形而上学)については沈黙しなければならぬ。訊きたいのはやまやまだろうけれど。
要するに、物自体を問うことは形而上学であって、答えはない。それらは勝敗が決することのない言語ゲームである。
言語ゲームは経験(観察・検証)とは別に展開される行為であり、実在(客観的現象)とは切り離して考えるべきだ。これすなわち言語論的転回である。
以上、「ツチヤ教授の哲学講義」の俺流エッセンス。
そして以下、俺流更なる展開。
認識するとは、実在及び言説の摸像(モデル)を脳内に構築すること。
理解するとは、言説と摸像とを照合させて過不足を把握すること。
従って、言語ゲームは摸像をめぐる認識・理解の自律的過程となり、実在とは切り離して考えるべきとなるのである。
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今日はマクラに苦しんでいる。苦しんだときに容易な解決は一つ。苦しみを克服することではなく回避することである。そこでマクラなしで今日は始めよう。
さて、今日は前川佐美雄。「心の花」から出発しプロレタリア短歌運動にも親近感を持ち、昭和5年「植物祭」で一躍、モダニズム短歌の旗手となり、日本浪漫派(注参照)とも親交を結ぶという振幅の大きな遍歴を経た歌人である。「塚本邦雄・前登志夫・山中智恵子ら多くの異色の歌人を育てた」と現代の短歌にある。そんな歌人の「大和」昭和15年より一首。
春の夜にわが思ふなりわかき日のからくれなゐや悲しかりける
平明な語り口の歌である。1・2句「春の夜にわが思ふなり」で歌はすっと立ち上がり、ここで切れた後に(2句切れ。575で切れる3句切れより歌の厚みが出ると思う)、「わかき日のからくれなゐや」と詠嘆し、結句「悲しかりける」で決める。
「春」は生命が溢れ出る季節だけれどなぜか人は憂鬱になる(春愁)。だからここは一息で「春の夜にわが思ふなり」と唐突に歌っても読者は納得する。そして「わかき日のからくれなゐ」がこの歌の喩(暗喩、隠喩)である。革命運動でも皇国運動でも詩歌の交わりでも恋愛でもなんでもいい。「熱き血潮」である。それを「や」と嘆じて「ける」と受けるのは技巧技術である。
春の夜に溢れ出づ涙。花が咲き若葉が萌える新しき生命。しかし、もう私の熱き血潮は終わったのか。昭和15年、佐美雄36歳。パールハーバー2年前である。敗戦前の昭和二十年間は左から右まで振幅が激しい時代であった。そして奇襲成功でメディアは大衆を煽り大衆は歓喜し、その僅か四年後に一億総懺悔となるのである。
世間も社会も所詮、バブル。だったら、人は三つの顔と舌→世間向けと社会向けと魂を使い分ければいいのである。これを称して俺は人生三枚舌悦楽教としている。あ、苦しみを回避する容易な解決であったか。
注:リンクした松岡正剛千夜千冊から引用。
このとき、保田には二つの歌の流れが見えていた。
ひとつは「ますらおぶり」の歌である。これは保田の言い方ならヤマトタケルに始まって万葉をへて与謝野鉄幹に及んでいる。もうひとつは大津皇子に代表される「憂結の歌」だった。いわば敗北の歌であり、望憶の歌である。これは家持から西行をへて後鳥羽院にとどいて、「心ばえの歌」というものになった。
この表現を借りると佐美雄のこの歌は「憂結の歌」となる。
追記:この歌を素敵な色紙に書かれているサイトに出会った。鑑賞も簡潔にして要を得ていると思う。是非クリックを。
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モーツァルト・ガラに続いて放送してたシュワルツコップのドキュメントをBGMに流していた ら、「すみれ」が飛び込んできた。こないだ毎日モーツァルトでゲーテの詩にモーツァルトが曲をつけた歌だと知ったばかり。で、ブログを検索するとあった、あった。ちゃんと原語、訳詩を掲載してくれている。
そしてシュワルツコップの検索でディーヴァの肖像に出会う。名花を素敵に面白く描いていらっしゃるサイトだ。
ゲーテにも名花にも会ふネットかな広き世間の時を愉しむ
※写真はダイビングカフェ写真臭 高尾山のすみれから頂戴(フリー素材)/感謝です。
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ドン・ジョヴァンニ序曲の冒頭ドーンと鳴ったときから耳が惹きつけられてしまった。端正で パワフルな演奏。おまけにイケメン。こりゃあ人気があるはずだ。俺は初めてだったけれどブログ検索するとちらほら追っかけがいそうである。昨日のBS2ザルツブルク・モーツァルト・ガラで初見初聴の指揮者だった。公式ページもあり。ラトルとアバドの薫陶を受けたとのことだ。
※ええい、公式ページから写真を貼っちゃえ/ドーン。
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妥当な清算値かなあ。月曜日、日本は日本の勝負をせにゃならぬ。
そこで俺の戦術。
案1)損切り。切るべき縁は早めに清算→新しい勝負へ。
案2)じっと我慢。いつかは戻すからSQまでも待つ覚悟。
案3)ナンピン買いで向かって行く。15800あたりでどーんと買う。
根本は現状についての相場観(強気か弱気か)。そして性格キャラクター。
俺は、いまいち世間が損切りを薦める理由が納得できていないのだ。
※写真は万歩計から勝手拝借/感謝です。
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ブログを作ってカキコするのもオモロイけれど人様のブログに入って行ってコメントするのも快感である。
近頃、印象に残ったブログとコメントをトラックバックしておこう。
ひとつは「不自由な二択」。もうひとつは「愛国心の進化」。
人生一寸先は闇だけれども、世の中は進化している(のだろう、多分)。
確実に言えるのは、ブログには人の息づかいが聞こえるということだ。
※写真はIndex of /Research/vmd/images/collections/dof/dnaから勝手拝借/感謝です。
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トラ トラ トラ!を観た。日米両面から描いたフェアーな映画である。両国軍隊の組織文化も 的確に描かれていると思う。アメリカは「個人対組織」の相克。現場の情報が上に伝わっていかないもどかしさ。これに対して日本は、意見の対立はあれど大将(山本五十六)の下に結局は収斂する組織第一体質。そして死を覚悟して出撃する将兵には滅私奉公の精神が漲っている一方で、時の宰相近衛は優柔不断な人物として描かれる。
今はこんな時代だから「わーい、アメリカをやっつけたぞ。気持ちいーい」などとノーテンキ発言があるのではないかとカスタマーレビューもチェック。幸い、無かった。日本もそこまではまだ堕ちていないと安心(するのはまだ早いかもしれぬ)。
さて、今日は吉野秀雄。詩人、正津勉さん(今回、検索して初見)の恋歌・恋句に胸を打つ紹介がある。「生の深処を強く照らす」などと、まことに詩文である。
これやこの一期のいのち炎立ちせよと迫りし吾妹よ吾妹
発句「これやこの」と結句「吾妹よ吾妹(わぎも)」とがリフレインの対照基礎構造をなしていて、その上に、2・3句「一期のいのち炎(ほむら)立ち」とあまりにも直截な4句「せよと迫りし」が詩の中核として配置される。壮絶な歌である。これ以上の言葉を加える力は俺には無い。
ところでここのところ、「短歌は徹底的に私歌」を思考内で培養している。他方、メディアが毎日煽る集団主義ヒステリーにも些かの恐怖を覚えている。
「私」は集団主義ヒステリーと滅私奉公に対峙できるか。われらにはわれらのパールハーバーがある。Remember the Pearlharbor.生の深処より思考せねばならぬ。
※画像は「いろは 伊呂波 IROHA」から勝手拝借/感謝です。「支配被支配の間に通底する解消しやうのない矛盾を今に予言し得て居る画幅」は至言なり。
勉さん正津勉
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ストックボイスというインターネットラジオ局がある。略してストボ。
先代のパソコンが壊れて、さすがしぶちんの俺も買い換えてついでにようやくADSに。そしたら予想通り株ネット取引にはまってしまう。以来のお付き合いである。相場の雰囲気や背景等を実況中継してくれる。
で、昨日の相場。値動きが面白い。ある人が「まるでイナバウアーみたい」と表現していた。そして、その日の回顧、翌日の展望、注目株について話してくれるオンデマンド「今日の株式、明日の株式」である。
昨日の値動きについてどんな話をするかと興味深く聴いてみたら二点。
・ソニー、ソフトバンクの悪材料にも拘わらず相場は以外に強い。
・買い方に回ったヘッジファンドがどう動くか(先週の外人買いはヘッジファンドであることを前提に話していたけどホンマかいな)。
人は自分の都合よきことしか見ない、聞かない。ああ博打の快感、堪らぬ。
※写真はライブドア「みんなの写真」から勝手拝借/感謝です。
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15800台をつけたのでアク抜けと思ったに、午後の下げで十字足になってしまった。
これは来週どーんと下げても不思議ではない。ああ身の破滅の始まりかしら。
画像はダリの空から勝手拝借/感謝です。
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岩城宏之追悼演奏会からピックアップした3曲。
鳥の歌、アヴェ・ヴェルム・コルプス、夏の思い出を聴く。
夏の思い出の演奏が始まる。岩城さんのポートレートがズームアップされる。涙が出そうになる。
俺の中で、人の死を想うときにこの3曲は必携となった。
生といふ拷問ありて生きるてふ快楽もあり五月雨の降る
写真はクラシック・ニュースから勝手拝借/感謝です。
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朝高を期待して狙うしかないかなあ。15990で売り指値を寄り付き前に出しておくのが第一 感だけど。もうちょっと利が欲しいという小欲(これが躓きの素)もあるのだけれど。兄貴、どうしようか。
画像は、勝新の歌唱が“色気”なら、富さまはまさに“情”から勝手拝借/感謝です。
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三つ子の魂なんとかでこのへそ曲がりは困ったものである。
なにを言っているかというと「ハンカチ王子」である。別に甲子園の優勝投手に嫉妬しているわけでもなんでもない。ギョーカイの人たちがワイドショーの時間埋めのために適当なキャッチをでっち上げて「いま巷で人気」と大衆を煽るのが気に入らない。
ちょうど相場でギョーカイ人が人気株などと煽って買わせるのも同じ手口であり、更に言うならば、政治家三代目を貴公子とかソフトな強硬派とかなんとか持ち上げていつの間にやら次期総理本命にしたのも同様である。
要するに、無知な大衆を煽るのはええかげんにせえ、と俺は言いたいのだ。
さて、今日は山田あき。プロレタリヤ歌人同盟に参加した歌人であり、日本母親大会の設立呼びかけ人でもあった人である。今は全く流行らないサヨクの所為だろう、ネット検索しても適切な経歴紹介のページは無かった。かろうじて石川県志賀町観光協会があったので引いておく。
生き得たる胸の泉を溢れしめおんなはおんなのたたかいをする
戦後、平和運動華やかなりし頃の歌である。そして、おんながおとこの劣位にあった時代である(今でもハンディが無いとは言わせない)。だから、下の句「おんなはおんなのたたかいをする」という言い回し(措辞)が成立する。4句「おんなはおんなの」が字余りであるが、ここは「おんな」のリフレインが必須であるから必然的に字余りとなる。
そして、上の句「生き得たる胸の泉を溢れしめ」が戦争下を生き抜くことができた切実な感情と健康なエロスを感じさせる。この歌はこの「胸の泉」によって徹底した私歌となり、短歌として成立しているのである。歌人・山田富士郎の批判に登場する「ベトナムの友をはげます声の波ペキン放送は火をふく如し」と比較すればその違いは歴然としている。短歌が短歌として成立するためには「私」が存在していなければならないのである。
サヨクが左翼として再生するために、綺麗ごととか大衆を煽るためのキャッチ等と訣別して、まずは徹底して「私」に立つべきではないかと(まだ論証が不足で軽率だが)俺は思う。例えば、俺の安穏な老後を守れ→平和と民主主義を守れ、憲法改悪安倍政権を許すな、などと。
だからあんた出世はできぬと細君が俺の軽率たしなめて言ふ
画像はアートポスターズから勝手借用/感謝です。
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今日、15800台まで下げて窓埋めと過熱感冷却、その後反騰して16500挑戦。
と見たいのだが、いかがなものか。
とはいえ今日、先物売りする技量と勇気はない。
と言いつつ、相場は相場に聞け←マネックスに勝手リンク/写真も拝借感謝です。
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昨日、村治佳織・渡辺香津美のデュオをBS2が放送していた。実は(何を隠そう)テレビ のクラシック番組の殆どを録画していつかやって来る冥土の土産永久保存DVDライブラリーを着々形成している。認知症になっても、観て聴いて感じて滂沱して時を過ごすための用意周到策である。
番組で佳織ちゃんが「ある朝突然指が動かなくなった」病気を克服したと聞いてちょっと吃驚。ギタリスト職業病ではなくて一般人もかかる病気とのことだが、医師が「絶対に治る」と断言してくれたのでそれを励みに闘病したそうだ。よかった佳織ちゃん。
ところで渡辺香津美がエラソーだったなあ。佳織と俺とでは格が違うわいという感じの態度であり発言だった(俺の偏見?)。女を丁寧に扱わないと男は長生きできないぞ。
さて今日は初井しづ枝。白秋門下とのことだが、名前でブログを検索してもヒットせず。一般受けしないのだろうなあ。しかし我が郷里→播磨の人である。
伎芸天くちびるに保つ朱あればうつつの愛の思ほゆらくに
伎芸天→朱、そして歌のキモは「うつつの愛」である。「うつつ」とは「現」のことだが、「夢うつつ」のうつつもあり、おぼろげとも解し得る。また色即是空の色とも空ともとれる。つまりは多義的な「うつつの愛」なのである。
それから「朱あれば」の「あれば」は「あるならば」と解すのが原則だが「あるので」という意味の使い方もすると思う(間違っていたらご指摘嬉しく)。
以上、この歌はヒジョーにファジーである。
伎芸天(大自在天(ヒンスー教の最高神であるシヴァ神で摩醯首羅天(まけいしゅらてん)ともいう)が天上界で天女達と伎楽を行ったとき、髪際から生まれたとされ、容姿端正、技芸秀抜の天女)(仏像事典からコピペ)の唇の朱を見るにつけ我が愛(色即是空)を思う、と歌意を理解することにしよう。「封建的な婚家の家風に煩悶」した人のようであるから、この理解で遠くはないであろう。
ちなみに秋篠寺の伎芸天が有名だということを今回知った。将来の天皇(間違いなく男児出生と俺は確信)のご母堂が似ていらっしゃるとのことだ。
我が伎芸天=佳織ちゃんの更なるご健勝精進を。比叡山コンサートは冥土の土産にしてある。
写真はこたりとのサイトから勝手拝借/感謝です。(コメントしようとしたけれどメールアドレス入力必須と叱られて止めちゃいました)
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「サヨクのここがキライ」というタイトルで駄文をカキコしたいな、と考えている。いつになる かわからないけど。
我が歌の泉は涸れて凡作をころがしあそぶ夏の夕暮
でも、なんかもう秋だよね。写真はガーデニング日記から勝手拝借/感謝です。
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ブログにて激論吐けど我が暮らしなんにも変わらず空蝉の鳴く
「うつせみ」で検索したら素敵な写真に出会いました。「徒然冩眞館」です。クリックを是非どうぞ。
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昨日の犠牲バント(先物売り)失敗から一夜明けて、いったい昨日の後場怒涛の上げはなんやったんや、と思う。そこで「明日こそラッキークリック」のリンクを辿って「株式祇園精舎」を拝読する。
どこのどういう方が書かれているか知らねども、その緻密具体的分析に敬服する。そうやねん、いったいこの相場、誰が買うてるねん。さてはオイルマネーとつるんだ仕手筋が先物買い仕掛けをしてるんやなあ。
だから株式相場で、しがない個人は圧倒的に情報不足→不利である。カモがネギである。
それでも俺は先物で勝負する。ほんにおまえは、そんなにバクチが好きな子やったんかいな。
写真は「美しい波 ~kalos kuma~ エナキョンこと江波杏子さん」から勝手拝借/感謝です。
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図書館にリクエストしていた大鹿清明「ヒルズ黙示録」がようやく到着し、一読。こんな世界もあるのだなあ、という他人並みの感想を抱く。ただ、例の広報担当、乙部綾子さんの堀江評が面白いコトバなので記録しよう。
堀江さんは女性を本当に愛したことがないと思う。誰かと熱烈な恋愛をしたり、失恋して傷ついたりすることができない人なんです。あの人、自分が一番好きだから。
そうか、「自分が一番好き」か。だったら俺も一緒やん、なるほど、と思う。
しかしすこーし考えてみると、「自分が一番好き」だったら「女性を本当に愛」せないのだろうか、という疑問も湧く。だいたい「好き」とか「愛」の程度を相互に比較計量することができるのだろうか、とも思う。
たぶん、「好き」とか「愛」の程度を抽象的に比較計量することはできず、具体的なトレードオフが問われるような場面局面での当事者の行為により推量されるようなものだろう。「愛」している当人にしてもその時そのときの判断、行為をしているにすぎないのだから。
とはいえど、「自分が一番好き」だから他人を「本当に愛」せないということはあり得ることである。そうか、俺の「人間大好き、他人は嫌い」というのは俺のジコチューに自己愛に理由があったのかと納得した次第である。自己愛は少なくとも他人嫌悪の理由にはなるのである。
さて、今日は五島美代子。リンクしたブログの筆者は「日本の伝統的な価値観の中にいき続けながら社会問題・国際問題までも視野に入れようとした五島先生」と表現されている。
花に埋もるる子が死顔の冷たさを一生たもちて生きなむ吾か
1句「花に埋もるる」字余りでの開始を2・3句「子が死顔の冷たさを」で受け止めて、下句は一気に「一生たもちて生きなむ吾か」とぽつんと疑問形で投げ出して終わる。「花」と「死顔」の対比が棺にあるわが子を喪った母親の悲しみを映像化し、「冷たさ」を「一生(ひとよ)たもちて」生きるという困難に読者は思いを致すという歌である。
母親というものは逆縁で早世した我が子に対してこのような切実な感情を持つのであろう(俺は親になったこともなく早世した我が子もいないから想像するのみだけれど)。
この歌は我が子を亡くした母親という私の切実を結晶させている屈指の歌である。
思うに、短歌は徹底的に私歌である。たとえ写生歌であろうと、写生を通して私を歌いたいという作者の情念の流露が短歌に結実する。読者も、短歌に作者の私を味わいたくて、作者の私を感じ取り自分の私と比較したくて、短歌を読む。私(という不可思議→開闢の奇跡)を抜きにして短歌は成立しないのである。
だから、自己愛とまでは言わないが少なくとも自己に対する興味関心が無いと歌は出来ない。他人のことを他人事として歌う他人歌は短歌ではあり得ないのである。
ところで、「五島美代子」で検索して「朝日歌壇とサヨクを考える資料室」に遭遇した。その中の「昭和短歌の再検討『ベトナム戦争にみる新聞歌壇』」が五島美代子他朝日歌壇のいわゆる社会派傾向を批判している。右だ左だというヤヤコシイ議論は嫌いだけれど、新聞歌壇に現れたベトナム反戦歌の中に私歌ではなく他人歌がありそれは矢張り今から振り返るとつまらない歌だと思うのも否定できない。やっぱり俺はジコチューなのだ。
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なぜ敗戦後日本経済は復活・繁栄したのだろうか。
だいたい、敗戦国が経済的に繁栄し戦争に勝った国(中国)が長い間離陸しなかったのが不思議である。敗戦国に賠償が課されなかったこと(第一次大戦後の天文学的賠償がナチズムを生んだ教訓の成果:それにしても蒋介石・毛沢東に感謝)が第一に理由として挙がるだろう。
しかし、それに加えて戦後改革(財閥解体・労働民主化・農地解放)を挙げなければなるまい。これらはいずれも日本の防共対策(共産主義を食い止める)として占領軍主導で実施されたものだが、中でも農地解放が経済離陸・復活に果たした役割は大きい。
戦前日本は基本的に農業国であった。労働人口の多くが農村に固定化されており、貧しい小作農を長男のみならず次男以下の家族全員による労働集約で維持するという仕組みが、帝国主義日本軍隊の兵隊供給源という役割と共に日本の経済・軍事にビルトインされていたのだった。だから、いつまでも貧しい農村の人々が新天地満蒙に活路を求めるという悲劇(満蒙開拓義勇団)も発生したのだった。
この状況を農地解放は抜本的に変えた(自前の改革でない故の問題指摘があるけれど)。 農民は土地を所有するようになり、農村は活性化した(生活改善活動、農機具購入等農業技術発展)。そしてなによりも大きいのは、労働集約の必要性が低下し、余剰人口(次男以下)を工業労働力として活用できる途が開けたことである。次三男は都市へ移転し工場で働き所帯を形成し、住宅・家電の需要が増大した。農地解放は内需の大黒柱=都市中間層を形成する役割を果たしたのである。
日本経済は朝鮮戦争特需で離陸のきっかけを掴み、農地解放による経済構造の変化 (若くて安い大量の労働力供給と内需増大)により、繁栄することができたのである。更なる詳細と興味深い論点は増田悦佐「高度経済成長は復活できる」を参照。
さて、今日の歌人は結城哀草果。農民生活、特に戦前東北大凶作を歌った人である。
貧しさはきはまりつひに歳ごろの娘ことごとく売られし村あり
2句「きはまりつひに」の武骨な句割れのリズムが4句「娘ことごとく」字あまりと共に作者の強い怒りと悲しみを訴える作品である。アララギの歌人ではあるが悲惨な現実を前に最早アララギ調では歌えずアジテーション歌にならざるを得なかった。昭和10年の作品である。俺が生まれる高々十数年前→遠い昔ではない、いや、今の若い人にとっては想像もつかない昔話であろうか。しかし、フィリピン等において少女人身売買がなされ日本で強制的に働かされているという現実を忘れてはならないだろう。
平和と民主主義と繁栄の荷い手は、知的で享楽的で誠実な中間層である。このモデルを我々はアメリカから日本国憲法と共に頂戴した。いま、我々にはこの経験を中国にインドにアジア諸国に伝える義務がある。あ、各国指導層はこんなことはとっくに了解済みか。
スナックにフィリピーナあり英会話練習をして夜は更けにけり
ボクはフィリピン・パブで遊ぶことはしなかったし今後もしない。
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下げそうで下げないこの相場。今夜NY下げても明日の東京は下げぬだろう。
今日は高校野球決勝再試合でお休みの日と考えよう。ちょうどいいお湿りでした。
可愛いこどもたちよ、明日はしっかり帰っておいで。
今日のアフターミュージックはデュークエリントン。
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あ、同じ本をまた図書館から借りてもた。難解だったから論理展開に付いていけなかったから途中放棄したのに、性懲りも無くそれも忘れてタイトル/著者に惹かれて借りてしまった。「私・今・そして神」永井均。
しかし、今回はちょっとだけ進歩。じーんと来るGスポットに出会ったからだ。早速引用。
気分を率直に語るなら、「私」と「今」とは同じものの別の名前なのではないかとさえ感じている。そもそもの始めから存在する(=それがそもそもの初めである)ある名づけえぬものに、あとから他のものとの対比が持ち込まれて、<私>とか<今>とか、いろいろな名づけがなされていく、といった感じである。
以下、俺が→を使って簡略化した。
他人との対比→<私>
過去や未来との対比→<今>
外界との対比→<内界>
非現実との対比→<現実>
決定論のようなものとの対比→<自由意志>
もともと存在しているのは<>で囲んだほうだけなので、それがそれ以外のものと一緒にその中に位置づけられるような共通項は、じつは存在しない。人間たちの中に私はおらず、時間の中に今はない。むしろ<私>の中に人間たちが、<今>の中に時間がある。<>で囲んだほうが存在することこそが、世界の開闢そのものなのである。これを「開闢の奇跡」と呼んでおこう。
「色を見、音を聞く刹那」純粋経験とは、開闢の奇跡のことであった。世界は「ここ」から始まる。人間たちの中に俺はいない。だから、俺は他人嫌いなのだと納得した。
しかし、これは哲学ではなく、文学だと俺は思う。哲学は、カントのようにオトナの常識を理屈付けるもの<のはずなの>だから。
「浪花の恋の寅次郎」は最悪の作品である。(リンクはお時間あれば是非クリック願います。寅を愛されている方です)
マドンナ松坂慶子が俺のタイプではないのを置くとして、ストーリーが不自然である。第一、弟の死にショックを受け乱酔した芸者慶子が寅次郎が泊まっている新世界のホテル に行くのだが、びびった寅は雁之助(ホテルのダメ息子)の部屋に逃げてしまう。翌朝早く慶子は縁切り置手紙を残してホテルを去る。なんだなんだそんな気があったのかよぉ、と観客は疑問発生してしまうのである。
オンナはビミョーでフクザツだからこれは許すとしても次なる問題は第二、わざわざ慶子が上京してきて寅に「うち、こんど対馬に行くことになったんよ」と鮨屋の女房になることを告げるのである。許せぬ、松坂慶子は不倶戴天の敵である。同衾しなかったことをなじって縁切り状を書くような女がこんな残酷な仕打ちを寅にするなんて。だから俺はオンナがキライだ。
そして最大の問題は第三、寅がさくらに愚痴るのだ。「少しは相手の気持ちを考えろってんだよ」と。寅が愚痴るのは後にも先にもこの作品しかないのではないだろうか。失恋の局面で寅は黙って逃げるのみ、がお約束ではないか。愚痴にせよ、マドンナになにかを要求する寅はあってはならない。なんでこんな寅にしたんや山田洋次よ。
最後第四はこれでは救いが無いと思ったのだろう、寅を対馬に行かせて鮨屋夫婦に会わせるのである。これもフツーはあり得ない。芸者仲間のかしまし娘の団体旅行バスに旅の途中で出会った寅が「おにいさん、一緒に行こうな」とせがまれて「それじゃ、ご一緒するかいワルイなあ結構毛だらけ猫灰だらけ」などでエンディングがお約束やんかあ。
さて不平不満愚痴はこれぐらいにして今日は岡本かの子。太郎画伯の母親である。筆跡診断士 慧子さんによると「どこへ行っても満足することはできないタイプかもしれません」とのことである。
桜ばないのち一ぱいに咲くからに生命をかけてわが眺めたり
2句末尾「に」3句末尾も「に」と韻を踏ませてある。桜花を「桜ばな」としたのも工夫。そして全体の骨格は「いのち」と「生命(いのち)」のリフレインである。結句も「われ」ではなく「わが」→私が眺めたと、行為より主体を強調している。桜花満開の季節になると思い出す有名な歌である。
しかし名歌ではないなあ、といちゃもん(俺は今日は不機嫌なのだ)。いっぱいいっぱいの歌になってしまっているのだ。こんなに精一杯歌われると、ほんまにそうかあと疑念を抱いてしまう。おまえ偽善とちゃうかあとも思ってしまう。もっとも作者にもこの歌ができる際の切ない事情はあるのだろうが。
だから俺はかの子でもこちらの方が好きだ。
かなしみをふかく保ちてよく笑ふをんなとわれはなりにけるかも
実際に笑わなくてもいい。ハンドルに余裕を持ちたいという気持ちだけで十分だ。その切なさは俺によく伝わっているのだから。おねえさんよ、達者で暮らせよ。
追記:写真は「新世界 りありずむ」から勝手拝借しました。感謝です。
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また、北がきな臭い動きをしているようだ。核実験準備疑惑である。
地下核実験などという技術・資力必要なことをやるかどうかは知らないが、地上実験なんかやられるとこまりものである。もっともテポドン発射も頑張ってあの程度だったのだから、あからさまなゆすりたかりのためのポーズかもしれない。
そして、思うのは今週の値動きである。先週は見ようによってはヒジョーに不自然な動きだった。ひょっとしたらあれは今週下げを狙うための準備ではなかったか。ちょうどそんな高所恐怖症のところへ今回の核実験準備疑惑である。奴らはゆすりたかりに加えて、最大のインサイダーかもしれない。
だから今週の下値は15500~15800と見ておくべきと思う。ブレーキを踏みつつ慎重に買いたい。北の餌食になってたまるか。
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史的唯物論のテーゼに「下部構造が上部構造を決定する」というのがある(と記憶する)。 これは要するに、経済が政治・文化を規定するということだ。奴隷制→封建制→資本制と、それぞれの時代はそれぞれの経済構造に適う政治・文化を持つということである。
相場で言えば、ファンダメンタルが株価を決定するということだな、これは。
だから中長期的には、このテーゼは正しい。
しかし、短期的には株価は需給、市場心理に従う。企業業績とは無関係に乱高下する。
これを史的唯物論に引き直すと、文化が政治・経済を規定するということになる。
例を挙げよう。
毛沢東は自分の権力奪回闘争を文化大革命と称して無知な青少年(紅衛兵)を煽った。
日本軍国主義は八紘一宇・鬼畜米英なるスローガンで民衆を煽り無責任な戦争に突入させた。
では、なぜ、かかる上部下部構造の逆転が可能になるのか。
それは経済(損得)は妥協を見出せるけれど、文化の溝には妥協がし辛いからだ。
例えば、大陸棚油田の権益争いはどこかで妥協できる可能性があるが、靖国参拝の是非という文化的問題は妥協の余地が少ないということで実感できる。
だから政治家は大衆をデジタル・キャッチ(抵抗勢力、民でできることは民で等)で煽ってはならない。文化的無知な大衆ほど始末に困るものはないのだから。想起せよ、日比谷焼打ち事件。
小泉首相の最大の罪悪はこの点にある。司馬遼太郎を読んでも「国盗り物語」程度にしか理解しない人間無知と表現して差し支えないだろう。
さて、安倍ちゃんはどうだろうか。
写真は松岡正剛の千夜千冊から勝手拝借。感謝です。
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日本のカミは神棚に祀るカミ。祀り上げておけばいい、敬えばいいという神である。
これに対して一神教(ユダヤ・キリスト・ムハンマド)の神は造物主、すなわち世界の第一原因である。
とすれば、カミと神を同列に考えていいのだろうか。
小泉総理ほか殆どの日本人がこの点、同列に考えているような気がするナア。
これに対して、一神教を信じる人からすれば、A級戦犯合祀云々は笑止千万。三位一体論でのキリストを別格にして、神は人間ではあり得ないのだから合祀自体が理解不可能でしょう、多分。
では、この点、中国人韓国人朝鮮人はどう考えているのだろうか。
韓国ではカトリックが多数派みたいだから信仰問題として考えれば一神教信者と同じでしょうが、信仰問題ではなく歴史問題としてヒートしているだろうから、合祀分祀は無視してギロンしているでしょう。
北朝鮮は論外として現代中国で神をどう考えているかは興味あり。「信仰問題としての靖国参拝と中国」などというキーワードでネット検索したらオモロイかもしれぬ。
さてでは、なぜ、日本では神がカミなのか。
「つくる」「うむ」を基調とする砂漠の宗教と、「なる」を基調とする高温多湿緑滴る風土の宗教との対比という視点で考えるとオモロイと思う。カミなんて勝手にそのへんでうようよカミに「なる」のよね。丸山真男の古層論である。リンクフリーか否か自信はないけどエエイ張ってしまえ松岡正剛の千夜一夜。
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ライプニッツの十分な理由の法則というものがある(そうだ)。森羅万象にはすべてしかるべき理由がある、とする法則である。哲学業界用語では充足理由律とか充足根拠律とか呼ばれているそうである。石川文康「カントはこう考えた」は、ライプニッツとカントをこの法則を基に結んで理性、自由について論じている好著である。以下、これに触発された駄文である。
森羅万象には全て理由がある。俺がこうして生きているのは、直接的には俺の親が俺を生んだことが理由だが、更に遡ると、サルがヒトに進化したことが理由となる。そしてヒトの進化には生命の誕生という理由があり、生命には地球の誕生、更にはビッグバンという理由がある(ナンデナンデの因果の鎖)。
では、ビッグバンに理由はあるか。
これを考えると、カントの第4アンティノミーに至る。世界の因果の鎖の中には絶対的必然的存在者がいる/絶対的必然的存在者がいない。ああムツカシイなあ、要するに、ナンデナンデの因果を遡ると、第一原因がある/ない、ということである。
ちなみに、カントのアンティノミーは4つ。(1)量:世界は時間・空間的に有限/無限(2)質:分割不可能な単純要素がある/ない(3)関係:絶対的な始めとしての自由がある/ない(4)様相:第一原因あり/なし。
カントはこうしたアンティノミーは、理性の限界に由来すると考えた(これがカントの純粋理 性批判)。
確かに、十分な理性の法則は、経験と理性のコンビによる世界の法則・原理の発見に寄与する。観察(経験)→帰納(理性)→仮説(理性)→演繹(理性)→検証(経験)である。
しかし、先の4つのアンティノミー(世界の限界、分割、始原、第一原因)のいずれも、観察し検証できない事柄である→(例)ビックバン以前を推測できるような現象はこの宇宙(ビッグバンにより誕生し膨張継続中の宇宙)には論理的に存在しない。
従って、4つのアンティノミーは経験と理性のコンビによる解決は不可能となる<理性の限界>。
ここで、道は二つに分かれる。理性の限界に何を対置するか、である。
第一:プラトニズム又は信仰の道。理性の限界はイデア又は神とする。すなわち、始原・第一原因はある、となる。だから、イデアが世界の設計図であり第一原因とするプラトニズム、又は、造物主(神)が始原・第一原因とする信仰となる。ここでは絶対的な始めとしての自由はない。窮極はイデア又は神が規定する他なくなるのである。
第二:カントが採用した道。理性の限界は自由とする。すなわち、始原・第一原因は人間の理性に他ならないとなる。だから、絶対的な始めとしての自由が存在することになる。その一例が、時間・空間は主観の形式とするカントのカテゴリーである。ノベタンの世界を分節し関係づけるためには、人間の自由の発現としてのカテゴリー(座標軸・分類基準・論理)が必要。その上で経験(観察と検証)が可能となる。自然科学者は意識・無意識にカントの道を選んだのである。
以上を要約すると、ビックバン以前は経験不可能/因果律は働かない、経験(観察・検証)するためには座標軸が必要、座標軸を導入することにより因果律が働き、観察・検証が可能となる。そして、座標軸をいかに設定するかは人間の自由に任されているというのがカント的理解となる。理解してみればアタリマエ、なんのムツカシイこともない(と俺は思う)。
そして、最後に言いたいことは次の文学的事柄である。著者は理性の限界=自由を水平線に喩えてた上で、自由を以下のように特徴づけている。
1)存在するが到達不可能である
2)思考や行為を導く力
3)日常性を超えた領域から対象が浮上してくる境界線
目指すのは「自由の王国」である。疎外(ヒトが作ったものがヒトを支配すること)を克服せよ、カネ・権力・制度の支配と文化の抑圧を打破せよ、マルクスが夢見た「自由の王国」は水平線の彼方に存在するのである。今でもマルクスを信じる同志たちにトラックバックを捧げます。
追記:これでカント「純粋理性批判」をワカッタ気になるのがコワイ。だけど原典キライ。だってムツカシイんだもん。
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ビデオに溜まっていた山田洋次「息子」を観た。三国連太郎扮する岩手の父親と、東京の 二人の息子(兄は大企業、弟は小工場アルバイター)及びそのパートナー(妻、耳の不自 由な美しい恋人)との物語である。「下町の太陽」は青二才松竹ヌーベルバーグ臭紛々たる映画だったためか途中で眠り込んでしまったけれど、こちらは円熟山田洋次、こなれた名作となっている。
大企業に勤めている秀才兄の過労日常と、劣等性弟の彷徨人生と、出稼ぎでこども三人を育て上げ妻を去年亡くした父親の老残とのトライアングル対比を通して幸せとは何かを考えさせようとの山田物語である。
おのずから涼しさ溢るる秋あした満ち足りというは日常にあり
さて、今日は土屋文明。茂吉と並び立つアララギの総帥である。
小工場に酸素溶接のひらめき立ち砂町四十町夜ならむとす
これはもうなんといっても下句「砂町四十町夜ならむとす」で詩になっている。これに加えて「酸素溶接」の配合の妙があって視覚イメージが形成される。歌意なんかどうでもいい。一幅の絵画として鑑賞すべき作品である。「砂町」で検索すると江東区砂町が出てくるから、多分このあたりなんだろう。詩人にとって実際の土地ではなく地名が喚起する映像が大事だけれども。
歌は言語芸術だけれども名歌は映像を喚起させる(例:「ゆく秋の大和の国の」)。我らの共通理解のためには、言語で世界を分節することが必要だけれども、純粋経験の記憶は言語以前の世界を映像で取り戻したいのである。
劣等生弟は彼女の美しさに一目惚れ。その後彼女が不自由なことを知って愕然とするも、「聾唖でナニが悪い。俺は彼女が好きなんだ」と叫ぶのである。
追記:写真は「山田洋次の映画」から勝手借用した。感謝です。
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我々が普通、時間について持っているイメージは、時間軸が刻まれた数直線の上を我々が過去から現在、未来へと移動しているというものだろう。だから、過去はそのまま数直線の過去時に残されていて、時間が過ぎるにつれて数直線上に無数の過去が堆積され て行く、ということになる。
だがしかし、過去はいったいどこへ行ったのだろうか。過去はそのまま過去時に存在するのだろうか。過去は現在に存在しなくなったものなのだけれど、現在に存在しないものが過去時に存在するとはどういうことなのだろうか。更には、いったい、過去・現在・未来を数直線上に空間的に配置する我々のイメージは客観的に正しいのだろうか。
答えは、こうである。過去・現在・未来は物理的事象ではない。概念である。すなわち、人間の主観が作り出したカテゴリー=形式(カント)である。なぜなら、我々の主観から独立して客観的に存在するものは物自体(実像)であって、時間・空間という形式は物自体に属するのではなく、現象を認識する際に我々がア・プリオリ(先験的)に用いざるを得ない論理形式である。時間という論理形式(概念)によって物自体(実像)を分節し現象(摸像)を脳内に作り出しそれを認識しているからである。(アア、こんなムツカシイ言い方しかできへん我の無能よ)
要するに、我々から独立して存在している世界(物自体)は本来ノベタン。ベターっと存在しているだけ。そこに時間・空間という座標系(主観の形式=色眼鏡)を我々が持ち込んで分節(アドレス付け)しているのである。だから、我々は過去の出来事を、何年何月何日のどこそこのナニと表現して共通理解を可能にしているのである。
と、ここまで書いた俺の駄文が共通理解に成功しているのならば、中島義道「時間を哲学する」のエッセンスをここに引用することは無駄にはならない。
過去はどこへ「行った」のでもない。「もはやない」ものとして<今ここ>にあるのです。
そうなのだ。時間は過ぎ行くものではない。存在し知覚できるものは<今ここ>純粋経験「色を身、音を聞く刹那」(西田幾多郎)だけ。過去は「もはやない」ものとして、我々の共通理解のための言語的制作物(大森荘蔵)なのである。
ちなみに、空間も主観の形式。なぜなら、我々の身体の移動を時間によって観察した結果を基に組み立てた座標系(上下左右)にすぎないのだから。
えっ、こんなことがナニの役に立つのか?→何の役にも立ちません。PPMの写真をも一度見たかったのと、自分の過去の言語的制作物へのリンクを張りたかったからです。最後まで読んでくれて感謝いたします。
追記:写真はヴァンク佐藤さんから勝手借用しました。感謝です。
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今日の最大の焦点は昨日外泊させた16枚の行く末である。CMEの5分足チャートを見る と、あちらでも強弱対立しているようである。今日、返済したいがダメなら週末外泊か。
先輩各位のブログを拝読すると昨日の高値で売っている。16200が壁、踏み上げられることはないとの読みだろう。学ばねばならぬ。真似することはできないが。
そうそう、昨日のプール体重:84.8→84.2。始値で85を切ったのは初めて。こちらは順調着々である。そりゃそうだろう、バクチじゃないんだから。
それから、腹が立つこと。エロメールが一通来やがった。これがイヤだからアドレス公開していないのに。誰がばらしたんだ、てめえ、ぶっ殺してやる。
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BS2放送のレッド・プリーストを聴いた。「ヴィヴァルディにアドレナリンを注入した」演奏と のことだが、確かにアドレナリンがフル分泌の音楽を作り出している。
聴きながら考えた。一見、ゲテモノとも思えるが、そうではない。ゲテモノから脱している理由は二つあって、一つはリコーダ奏者のテク。まさに達人、抜群のテクニックである。
もう一つは彼らの音楽、パフォーマンスがユーモアに拠って立っていること。ユーモアとはヒューマニズムのこととされているHPがあるが、同感である。彼らの演奏は、現代におけるバロック音楽への人間性への愛(ユーモア)を基にした挑戦ではあると思う。まだ俺の耳が慣れていないから、トラッドかつ先鋭なベニス・バロック・オーケストラで四季を聴きたくなったのは事実であるが。
さて、今日の歌人は釈迢空。民俗学・国学者折口信夫(お時間あればウィキペディア検索をどうぞ)である。
いまははた 老いかヾまりて、誰よりもかれよりも 低き しはぶきをする
「老いかヾまりて」(多分、造語)が閃きの措辞である。そして、第三句第四句に句跨り・句割れで「誰よりもかれよりも 低き」と殆ど難渋して止まってしまうような声調を作出している。主観の表出が全く無いのに十分に個=孤独・孤高を感じさせる歌だ。俺も老年に入ればこんな老人になるのか、ちょっとイヤだなと思わせる歌でもある。
老人は概して人嫌いではなかろうか。もういい加減人付き合いを経てきたのだからエエカゲンにしてえなあ、というのが本音かと思う。でも、うちの姑を見ているとそうでもなさそうである。人嫌いのクセしてデイ・ケアに行くのが待ち遠しくて堪らない。そうか、人嫌いだけど人が愛想よくしてくれると嬉しい。要するに我儘なのである。
とすれば、この歌の「誰よりもかれよりも低きしはぶき」も我儘の現われなのだろうか。いや、ひょっとすると釈迢空は類稀なユーモアの達人で、内心微笑んでいるのかもしれぬ。孤高は人間性への愛なくして生まれはしないのだから。
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売り方の反撃を待つ上げ相場先物の味を覚えて釣り糸を垂る
追記:アホタレ、57577になってないやないか。
上げ潮に下げを待つなり先物を覚えて吾は釣り糸を垂る
これでよし。なかなかエエ歌や。詩になっとる。
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外人大幅買い越しの模様。しかし高所恐怖症も若干あり。NYも下げないとは言いきれない。ここは、16150を買い目標としてみるか。寄り付き→9:30頃までは状況注視。
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安倍政権誕生期待でここ数日、IT関連株が上昇との話があるようだが(ストボで放送、北尾CEOファンサイト等)、そんなコマイ話ではないだろうと思う。安倍首相には是非とも我が日本国のビジョンを国民に示して頂きたい(「米百俵」程度ではアカンぞ)。
例えば、と見せびらかし好きな俺は
「日本は資本・技術輸出で儲け、中国からはハード、アメリカからはソフトを買ってやるのである、もとい、買わせて頂くのである。そのためには教育・知財立国。その基盤づくりと促進が政府の役割である。」
と自分の記事をしつこく読ませようとするのである。皆様、堪忍。
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あまり酒が飲めなくなった。といっても毎夜晩酌を嗜んでいるのは変わりがないのだが、 ビール(第三)、白波オンザロックで適度に酔えば、もうそれ以上受け付けなくなったということだ。以前は、食後更におかきをつまみながら水割りを一二杯やっていたのだ(そりゃあ、太るはずよ中性脂肪がたまるはずよ)。
今日は吉井勇。酒を愛し京都を愛した文人である。
かにかくに祇園はこひし寝るときも枕の下を水のながるる
「祇園」「枕」「水」の三重奏である。また、結句は「水のながれて」ではいけない。「ながるる」として業と不安定に止めて余韻を響かせるのである。
そして、「こひし」としているから、祇園のある夜を想起しているのだろうか。いろんなことがあったけれど色町は「かにかくに」恋しいなあ、全て水に流して、と回想している歌と読む。
「君にちかふ」の歌を採ろうかと迷ったけれど、マクラとの親和性から「祇園はこひし」の方にした。祇園に遊んだことも銀座のクラブで飲んだこともないけれど、この歌で祇園を楽しむことができる。まことに歌とはコトバとは観念とは安上がりなものである。しかし、コトバでは実際に酔うこと不可能である。過去(の想起)はコトバによる制作物であるが現在(知覚)は純粋経験なのだから。
追記:吉井勇→大森荘蔵→西田幾多郎のお陰でいろんなブログを拝読し多様な方と出会える。インターネットは全てを変える、を実感しています。
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昨日は8.15。61回目の敗戦記念日である。
そして、1945敗戦から40年遡れば1905日露戦争/日比谷焼打ち事件(「ポーツマスの旗」参照)である。
思えば、1868明治維新から1945敗戦に到るまで、この国は戦争のし通しだった。明けても暮れても戦争。遂には「統帥権」が泥沼に引きずり込んで誰も責任を取ろうとしない対中・対米戦争に突入してしまい敗戦となった。
そして、そこから61年。我が国軍たる自衛隊が一発も撃たず一人の死傷者も出さない平和にめぐまれている(イラクにゴラン高原になにごともないことを祈る)。
僥倖である。稀有なことである。
こんな幸運が永続するはずがない。我ら団塊が安穏老後をむさぼれるはずがない。ほら、ファシズムはついそこのブログに顔を出しているではないか。
さて、今日の歌人は三ヶ島葭子。この一人一首のテキスト本たる「現代の短歌」では、「家庭の不幸・不和を反映した内省的な作風で知られる」とある。
今にして人に甘ゆる心あり永久に救はれがたきわれかも
上句「今にして人に甘ゆる心あり」はリズムよく、すっと入ってくるが、下句では「救はれがたき」が4句と5句に句またがりとなっているので、晦渋な声調をなし陰鬱に終わる歌となっている。あのとき許せばよかった受け入れればよかった、甘えてもよかった、それができなかった私は…、という歌意である。
後悔先に立たず、という。三つ子の魂百までも、というコトバもある。譲るに譲れない自分があり、意地を張り通したい宰相がいる。
しかし、平和は平安はなんとしても維持しなければならない。手練手管を尽くしても自己欺瞞してもまもるべきである。死んだら人は無なのだから。
諍ひの後の厨はほの暗く葱をきざみて夜食をつくる
なかなかの佳品である。俺にもこんな歌をつくれた時があったのだ。
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ヒトは生まれたときは何の偏見・観念からも自由であり白紙(タブラ・ラサ)である。 他方、ヒトには生まれながらにして誰からも侵害されない権利=自然権(所有権、表現の自由その他他人に迷惑をかけない限りナニをしてもいい権利)があり、それを保護する手段としての国家を社会契約としてつくったのである。
だから、個人が目的→国家は手段にすぎない。
上記がストラザーン「90分でわかるロック」のエッセンス。ロックは、清教徒革命→王政復活→名誉革命の転変を生き抜き、プラトニズム打破の道を開いた哲学者である。
イデア(観念)は親の仇なり。聡明な哲学者は観念の罠に陥らないように様々な工夫を施したと著者は言う。スピノザは自分の哲学を意図的に難解なものとし、ソクラテスは何も書かなかった。そしてロックは「明瞭でわかりやすく、すぐ飽きてしまうような哲学を書」いた。
ナショナリズムでもイワシの頭でも大衆が熱狂するイデアほど始末の悪いものはない。民主主義と称するメディア社会では尚更である。だからイギリス人は経験論を発明したのだと思う。少しばっかり勉強しよう。どうせ入門書だけれど。
数十年前まで生きていた生身のヒトを死んだらカミにしてしまう国は、神と信仰を愚弄するものではないか、と思う今日この頃。西郷隆盛はカミにならなくてよかった。
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NHKスペシアルの反応を窺おうと思い、「NHK 日中戦争」でヤフー/ブログ検索。やっぱりあったなあ、反日放送なあんて非難コメント。どうしてこんなにケツの穴が小さいのだろう。
買いたい弱気というコトバがあるけれど、売って株価を下げてくれるから安値で買えるのではないか。国営放送に反日放送なんてレッテル貼って自分の目を曇らせてしまうと、事実を妥当な角度で見られなくなってしまうやんか。反対情報・反対意見は貴重なパートナーなり。
ついでに俺にとってのNHKスペシアルの収穫。
1)当時のアメリカには戦争中立法があって、日本が中国に宣戦布告すると、アメリカはこの法律の定めにより交戦国の一方に輸出不可となる(この法律の中味を確認せずに書いています)。だから、日本は中国に宣戦布告できなかった。
2)日本軍が南京に入城して大量の中国軍兵士制服が脱ぎ捨てられているのを発見。中国軍が民間人に紛れて便衣隊として攻撃してくるのではないかという恐れを日本軍は抱き、入城後の大規模掃討戦発動につながったこと。
以上、この番組を見るまでは無知であった。無知は悲しみである。
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今日はマクラが思いつかない。昨日の停電・相場棒上げは短歌となかなか結びつきそうにないし、最近のNHK左傾化(日中戦争/南京虐殺実在肯定スペシアルにちょっとびっくり、その前のワーキング・プア、チャベス政権)が安倍政権成立を前に心配というのもオチに困る。困ったからこのウダウダをマクラにして兎に角書き始めてみた。
今日の歌人は古泉千樫。アララギの編集に携わったがその後離れた歌人である。
朝なればさやらさやらに君が帯むすぶひびきのかなしかりけり
白秋の「君かへす」が、「さくさくと」が大発見であったのに対して、この歌も「さやらさやら」 が発見である。そして「朝なれば」が暗い事情を暗示していて、結句「かなしかりけり」と対置されている。「かなしかりけり」は「哀しかりけり」とも読めるが、ここは矢張り「愛しかりけり」であろう。愛は哀しいのだから。
白秋は美しすぎた。千樫は女性的要素が入っているのか美が哀しみによって若干中和されていて、写実的美となっている。だからどうした、単なる不倫の歌だろ、「夜が恋しい、あなたが憎い」とどこがちゃうねん、と言われても困るのだけれど。
詩は発見でなければならない。陳腐な言葉遣いは詩を愚弄するものである。この歌は「さやらさやら」と「かなしかりけり」によって詩として成立しているのである。擬音語の発見にも注力を心がけよう。
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現物の板は表示されるけど日経平均は出ない。ネットのどこかが停電になるとなんらかの影響は出るわな。これでは相場にならぬ。
姑をデイサービスに送り出したら図書館に行こう。
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テレビによると、電車が止まっているようだ。日経サイトもつながらない。
お盆休みだし、今日は止めとくか。ストボも沈黙してもた。
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週末読書の成果、中丸友一郎「機関投資家に学ぶ デイトレーダーをカモにする株式投資戦略」についてレビュー自慢せむとせしが、既にカスタマーレピューにて先行されてをり。敢えて付言すれば、「ノイズ・トレーダーの唯一・最大の武器であるチャート分析」との表現を見つけしことか。
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今日は新聞休刊日なので、昨夜NHK放送「日中戦争~なぜ戦争は拡大したのか~」を観ながら朝食。家人が「日中戦争って第二次大戦のこと?」と訊くので(いささかゲンナリしながら)「パールハーバーの前に日中戦争があったんや」と説明、更に満州事変→朝鮮併合→日露戦争/日比谷焼き討ち事件にまで遡ったろかと思ったけれどアホラシイから止めた。
「戦争を知らない子供たち」世代一般の認識はこんな程度なんやろう。ノモンハンなんて知らぬだろうし、日朝関係でも拉致事件しかアタマに無いのである、多分。
そこで五味川純平「戦争と人間」を想起した。若き日の俺の現代史テキストであったが、いま、どの程度読まれているのだろうか。
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先週末終値は現物15565、先物15600、CME15580とほぼ揃っているので、15600近辺から15700を目指す展開もあり得るけれど、今週は夏休み→俄かデイトレがヘッジファンドにカモられる週でもあるなあ。15700手前が売り方の狙い目。餌に釣られた俄かが食いついた途端に、ドカンと先物売りを出すという手口だ。
だから、売りに初挑戦という色気が出てくるのだけれど、基本的には上げトレンドだけに怖い。買いで入って手堅く底値を拾って利食いできれば満足としよう。
それから、今週の興味は米国株。このところずっと下げているけれど、反発するタイミングと株価が興味の中心。アメリカ経済先行きに対する市場の答えなのだから。
現物を利食えても手放さない。ここ一週間は抱いて寝よ。
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実は、この「一人一首」では、構成において、次のような仕掛けを施すことを試みている。
それは、マクラ(なるべく俺的な事柄)→歌人/歌人紹介リンク(ブログ優先)→歌人の短歌一首→短歌分析(具体的に。措辞・声調・厚みの三要素に沿って)→オチ(マクラと響きあうことが望ましい)という構成である。
従って、「一人一首」執筆にあたっては、(1)構成検討(2)リンク先検索(3)内容作成という手順を含むことになる。
本記事でも、昨日に構成概略案が既にあったのだが、今朝、リンク先検索した結果及び気分が揺らいで、マクラをこのような形に変えることにした。
さて、今日は土岐善麿。新聞記者として活躍した人で、駅伝の名付け親だそうである。
遺棄死体数百といひ数千といふいのちをふたつもちしものなし
冒頭に「遺棄死体」といういささかショッキングな言葉を配置し、「数百といひ数千といふ」リ フレインでそれを強調し、下句はひらがな表記で哀しく愛しく閉じている。
たぶん、ニュース映画を見ての歌であろう。「数百」「数千」に対しての「ふたつ」「なし」すなわち一=個の対比がこの歌の眼目である。報道や映像は事実をマスで伝えることに傾き勝ちだが、いのちはいのちにとって唯一、それを忘れてはならぬということを訴えている歌である。そうなのだ、俺にとっては俺の人生が全て。しかし、戦争は国家は俺をマスの中の一つとしてしか扱わないのである。一銭五厘で兵隊は集められた時代の話だが、現在も事態は本質的に変わっていないと思うのである。
人生=損得+好き嫌い+いのち。そして、いのちにとって、損得と好き嫌いは人間の大脳皮質が生んだ過剰。この過剰がイデアをつくり国家を生み資本を育てた。そして作り出されたイデア・国家・資本がいのち(人間)を道具視しマスとして扱う。その疎外の極致が戦争である。
ここに、俺が反国家(左)を基本とする根拠がある。お財布は右のポケットに入れているのだけれど。
追記:写真は「歴史と旅の世界」から借用しました。お時間あればノモンハン事件の項をお読み下さい。
追記:善麿のこの歌を引用している株ブログに出会った。トラックバックさせて貰おうと思ったけれど禁止なのでコメントさせて頂いた。
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「価値相対主義の奨め」を書いた後、ネット・ブログを逍遥していたら、「煮ても焼いても食えぬ日本共産党や民青同盟、しんぶん赤旗をなんとか料理してみる」に出会う。ほほう、党内改革派かなどと思いつつコメントを入れさせて頂いた。
ところで、左と右って何だろう。
かつては社会主義vs資本主義と整理されていたように思うが、社会主義が実現不可能なことが明白となった現在では、これは通用しない。
では、天皇主義vs対共和主義ということだろうか。いや、これでは共和国では有効に機能しない。
とすれば、価値絶対主義vs価値相対主義のことではないだろうか。うーん、近そうだなあ。も少し政治的な表現に変えると国家主義vs反国家主義(自由主義のこと!)となる。よし、これで決まり。対立軸は、国家か自由かである。自民か民主か、ではないのである。
そうなのだ、いつかは作ろう、世界共和国。コップの中の嵐で人命が失われるのはもう沢山である。まして、俺にとばっちりが来るのは御免蒙りたいのだが…。
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信綱に始まり、白秋に至ったところで小休止。近代短歌の大きな流れを整理してみると、浪漫主義(明星/鉄幹)、自然主義(夕暮・牧水)、写生主義(子規→アララギ/茂吉)と区分けできるようだ。浪漫主義は浪漫という理念を掲げ、自然主義はありのままの自己に真実を求め、写生主義は対象を写実する過程で実相を彫琢する考え方といえようか。
そこで、ここからは歌論を離れて哲学(俺の得意なこじつけ)してみる。上の三つの考え方を哲学上の価値絶対主義、価値相対主義に対応付けると次のようになる。
価値絶対主義 浪漫主義→理念/イデアから実体を演繹する
自然主義→自然(実体)から真実を帰納する
価値相対主義 写生主義→実相観入。演繹と帰納の統合
つまり、浪漫主義(プラトニズム)と自然主義は共に絶対的価値があるはずだとした上で、演繹的方法(例:数学。公理/定義→定理の証明)を採るか、帰納的方法(例:観察による原理・理論の発見)を採るかの違いである。
これに対して写生主義は、絶対的価値なんか無い、価値は全て相対的であり、世界(実体)から原理を帰納し原理から演繹された理論を実験により検証するという方法論を採るのである(以上は、我ながら凄いこじつけである。子規・アララギ・茂吉とは全く無関係だから注意されよ)。
では、価値絶対主義と価値相対主義のいずれが正しいか。
ニュートンはリンゴが木から落ちるのを観察して万有引力原理を発見しニュートン力学理論(絶対的空間・時間)を構築した。しかし、アインシュタインが相対性理論(相対的時間・空間)を提唱し、その正しさはマイケルソン・モーリーの実験によって検証された。このような経緯に鑑みると、価値相対主義の方に分がありそうである(相対主義が自己が絶対的に正しいと主張するのは論理矛盾だから要注意)。
また、素人的実感からしても「世の中に絶対は無い。絶対なのはいつかは自分が死ぬことだけ」が納得できるから、価値相対主義の方が安全のようだ。
そして我が日本国憲法13条「すべて国民は、個人として尊重される」はすべての国民の価値観を尊重するという徹底した価値相対主義の現われである。だから、憲法でもっとも大事な条文は13条。なのに、愛国心という絶対的価値観を国民に押し付けようとするのはナーンセンス。
かくして茂吉の実相観入は「個の尊重」にまでたどりついた。
多様な個の緩やかなネットワークが時代を切り開く。我々は時間・空間という色眼鏡(外せません)で世界を眺めているから物自体は認識不可能。だから、「俺は現象、全ては主観」「相場は相場に聞け」ということである。
追記:イデアのリンク先を見つけようと「イデア プラトン」でヤフーしたら河合先輩のオブジェクト指向に出会ってしまった。勝手リンクしました、先輩。
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週末は読書予定が諸般事情により日帰り温泉。ここは近くて安いので我が定番となりに けり。サウナもホットと蓬の二種類があり、どちらにも入って沈思黙考をする。
思えば、ゴルフもせず蟄居中のため外でも飲まず、本は(申し訳ない)図書館で借りて映像・音楽も図書館及びテレビ録画で済ます。加えて数年前に禁煙(我が思ひ母に届けと意地張りて口論の果て煙草を断てり)したので煙草銭不要小遣い無しのしぶちん暮らし。贅沢といえば日帰り温泉である。
温泉は我の贅沢温泉に浸るカネをば株で稼がむ
温泉より帰り来てショスタコービッチ第四番シンフォニーをBGMにてこうして駄文を書くが我が日常なりき。
追記:「いこいの湯」で検索したら懇切に紹介してらっしゃるサイトを発見したので、勝手リンクさせて貰った。「音楽の冗談」ブログをお持ちのようなので拝見すると、うわぁ、「もう一人のモーツァルト」なんて記事がある。こちらにトラックバックしますので事後承諾のほど、よろしくお願い申し上げます。
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ストボに投稿して、それをキャスターの方が取り上げてくれて我がブログ名を発声して下さ ったら、アクセスが急増。有難いことだ。
昔、「株価に一喜一憂せず」と言い放った総理がいた(あ、今も在任していた)が、ブログも大切なのは中味だから「アクセスに一喜一憂せず」ともいえる。しかし、株価もアクセスも市場の評価。市場はおのれの鏡でもある。
そこで、某エコノミストの不運に思いをはせつつ一首。
手鏡におのれの姿映してはのぼりてぞ行く駅の階段
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「平和とは何か?」コラムに出会ってひとことしたくなり、コメントさせて頂こうとしたけれど、コメントするには入会/パスワードが必要みたいで入室禁止であった。せっかく書いたものが勿体無いからここにメモしてトラックバックしよう。トラックバックも禁止だったら諦めるけれど。
はじめまして。拝読してのひとことです。
>「平和」とは「人脂のべとつくような手練手管」でもたらされる「力の均衡状態」のことではない。
>他の人も「同じ人間」だと皆が考えるようになったときに、自然と達成されるであろう状態のことである。
この部分に違和感を感じました。「他の人も「同じ人間」だと皆が考える」ようなことがあるのかなあ、と。人は他人を手段視するような愚かな生き物だと私は考えます。他人を目的として尊重しなければならないということは概念的に分かっていたとしても、いざ実行しようとすると自分の損得、好き嫌いが先行してしまうエゴイストではないでしょうか。
エゴはいのちそのものに仕込まれた宿命です。それを認めた上でお互いの妥協点を見つけるために「手練手管」を尽くす、それが政治であり広い意味での社交ではないでしょうか。
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「オンナと仕事と結婚と病気」というブログに出会った。「2社を経験し自ら会社を起し、そしてトラウマからの持病で全てを失ったワタシについて」という一言メッセージが添えられている。
ブログの内容については置くとして、例えば、オンナをオトコに置き換えて「オトコと仕事と結婚と病気」というタイトルが成立するだろうか。そんなん、なあんにもオモロない。アタリマエやんかあ、となって矢張りここは「オンナ」であることに意義があるのだろう。オトコにとってもオンナにとっても「病気」は共通問題だからこれは別にして、「オンナ」と「仕事」「結婚」には格別の今日的問題性があるから、こうしたタイトルが成立するのである。
さて今日は北原白秋。浪漫派の巨匠であり、詩、童謡においても数多の名作を残した国民的詩人である。
君かへす朝の舗石さくさくと雪よ林檎の香のごとくふれ
擬音語「さくさくと」の大発見があって、それと、雪を「林檎の香のごとく」直喩したこととの取り合わせが絶妙のハーモニーをなしている。そしてその背景には「君かへす朝」という暗い事情がある。暗い事情を背景に君は歩いて出て行くが、白い雪がさくさくと降り、林檎の清潔な香りが残っている「後朝の別れ」の情景である。
ここで問題。これは矢張りオトコが作った歌だと思う。オンナが「後朝の別れ」をこのように美しく歌おうとするだろうか。咥え込みの性=オンナにとって「後朝の別れ」はもっと切なく哀しいものであり、とてもこのように美しく歌う気分にはなれないのではないか(オンナになったことがないから全くの想像だけれど)。ばら撒きの性=オトコだからこそ、暗い事情があっても「後朝の別れ」にはカタルシスがあるから美しく歌いたい、歌えるのである。
白秋はこの件が原因で姦通罪(戦前犯罪規定があった。有夫ノ婦のみに貞操義務を課し その相手も罰するという男女平等に反するものだ。詳しくはこちらを参照)で告発され収監された。その後も何回かの男女関係での苦しみを経た後にようやく安定的な夫婦生活を得ることが出来た苦労人である。
確かに、オンナとオトコは構造的に異なる性(セックス)である。しかし、社会とか国家とかは、かかる性区別に加えて、社会的性差別(ジェンダー)を付加しオンナに不当な圧力を加える。刑事罰を加える姦通罪は敗戦のお陰で廃止されたが、未だ社会的文化的差別は数多あると思う。
つまりは、オトコは「男はつらいよ」とノーテンキを言っていればいいけどオンナはもっとしんどいのである。しんどいから結婚もしたくないし子供も生みたくない。少子化は当然の成り行きである。株は上がるためには下がらねばならない。
以上、オンナにちょっとよいしょし過ぎたので口直しにオトコ=俺の旧作を引く。
愛といふ不可思議なもの胸に抱き喧騒の街今日も歩めり
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今日はこれまでの学習効果を少しは発揮できたな。というのはオーバーナイト6枚を、利食いできるのは朝だけと朝高予想(今日はSQ)的中して、利食いできたからだ。
寄り付き前から返済売り指値して8:50公表のGDP速報(コンセンサスより低目だった)をストボで聞いたりして、指値変更が寄り付き前5回寄り付き後1回で見事約定→まずまず会心のヒットであった。
今日はこれで売り方による下げを待つ。15500あたりにまで下げれば週末 であること諸般事情を勘案して深呼吸三回した後に買おう。着々「現物は逆張り、先物は順張り」への道が整いつつあると自負するものなり。
ところで、やっぱり15700の壁は厚い。お盆休み中は無理かな。しかしまあ、ようやく火がつき始めた郵船の値動きが楽しみである。
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儲けたき心捨てれば道はあり株式相場先物を買ふ
ヘボじゃなあ。「道はあり」などはヘタレ坊主の念仏みたい。
なによりも、歌はまず詩でなければならぬ。
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朝の定例行事
1.米国株状況確認
2.我がブログのアクセス状況確認
3.一人一首執筆→「実相観入」理解が書くことによる収穫
4.今日の相場に臨むにあたって→例:身の破滅かもしれぬ
5.株ブログ以外巡回
6.株ブログ巡回
7.昨日のWBS、昨日の夕刊、朝刊、朝食、モーサテ、朝Walk
8.ストボ接続、オープニングベル無音表示→寄り付き
こうして見ると「毎日が日曜」も結構多忙(のフリ)。そして最近のお楽しみは株ブログ以外の巡回→哲学ブログランキングチェック及び上位ブログの拝読である。
最初、我がブログは「シニア日記」に「まあいいか」と思いつつ登録していたけれど、リズムを変えようと思い哲学ブログに登録した。
さて、哲学とは何か。それは森羅万象についてWHYを問うこと。だから、株ブログも実は哲学ブログ、恋愛ブログ(あるかどうか知らないが)も同じ。
ブログがつくる世論があるならば、ネットでつくる哲学もある。
俺は既にそれを「オープン・ナレッジ。ネットワーク」と命名している。(ネーミングだけがよかった俺の有限会社)。毎日が哲学日なり。
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米国株は五日ぶりに反発。CMEは現在値15605。今日寄り付き前に発表される国内GDP速報値も悪くない予想とのことで、今日の東京大急落はないだろう。だから、高値掴み/ナンピンという俺の下手糞ミニ先の返済・利食いの可能性はある。
しかしまあ、商いが薄く米国経済後退→日本経済への影響懸念の下で、こんな下手糞やってると、いつか大火傷をするかもしれぬなあ。現物一本槍で来た俺が目先の欲に目がくらみいつか落ち込む身の破滅、というのはあり得るシナリオである。
しかし一方で、米国経済後退といってもリセッションに陥るほどのことはないだろうし、 BRICS等アメリカ以外の日本の得意先もある。見通しが強くなければ例えば東芝などがあんなに設備投資をするはずがないだろう、とも思う。
いずれにせよ、当面の日経は15700回復が焦点。まだいけると思ってももうダメかもしれぬし、その逆もある。火傷せぬ程度の火遊び心地よし心地よきまま失楽あれど→インターネット短歌に投稿。
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電話が壊れた。本体は別になんともないのだが、電話線の差込口の接触が悪くなったみたいで、一時間ぐらい電話線ケーブルを押さえ込んだり外したりいろいろやってたら遂に全く無反応になってしまった。ああ勿体無いこんなことぐらいで買い換えるなんてと口惜しがりながら量販店に電話機を買いに行く。オニイチャンに「こんなことあるの」と訊くと「ありますよ、電話線を付けたり外したりしてました」と訊かれ「やってた、この春までダイアルアップ接続だったから」と答えると、呆れたような顔をされた。そうだよなあ、今年の春までダイアルアップなんて珍しいよなあ、と自認するしぶちんであった。
さて、今日は若山牧水。「白鳥は哀しからずや空の青海の青にも染まずただよふ」歌人である。
かんがへて飲みはじめたる一合の二合の酒の夏のゆふぐれ
酒を飲むのに「かんがへて」とはどういうことだろうと疑問に思いつつ次に移れば「一合の二合の」とリフレインがあり、「夏のゆふぐれ」と体言止めで終わる。5757/7と四句切れと見ていいだろう。「かんがへて」がちょっぴり瞠目させる措辞、そうして飲み始めた酒量が倍になることを示唆するリフレイン(声調)、陳腐とまでは言わないまでも常套体言切れ「夏のゆふぐれ」で夏の悲哀・季節感に広げて終わる歌である。
牧水と酒によると晩年の九州旅行で牧水は「一日平均二升五合」を飲んだそうだ。そりゃあ、肝臓を壊すよ無茶だよと思う。そして、仕事の無理と酒で肝臓を悪くして牧水は43歳で短い生涯を閉じることになる。なるほど「かんがへて」とは自制したという願望のことか、牧水が旗印とした自然主義とは「少なくとも日本の場合、それは破滅のリアリズムであった」ともされている。
俺も毎晩酒を飲むけど肝臓を悪くしてまで飲みたくはないし、(株で大含み損を抱えている以外)しぶちんの俺は経済合理性第一で、電話機も十年以上使用継続した。市井で慎ましい小市民生活を悦楽して、なんとか天寿を全うしたい、こんな俗物性もまた人間の自然だと思うけれども、いかがなものであろうか。
写真は牧水の顔、「よく写真で見る牧水さんの顔が好きで、折あらば一度彫刻のモデルに座っていただくことをねだろうと思って」いたと高村光太郎が追悼文を寄せているとのことだ。
ところで、今回、俺の下の歌二首が牧水の歌の本歌取りだったことが判明したことが収穫だった。
我が歌の泉は涸れて凡作を転がし遊ぶ夏の夕暮れ
リストラの風は冷たしこの宵は二合の酒に酔ひて眠らむ
「リストラ」歌は朝日歌壇唯一入選(馬場あき子さん)の歌で「作者のリストラに対する位置取りが不明」と評されたのを今でも覚えている。おっしゃる通りのカラオケ短歌であった。歌人は鋭く読むものである。
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一昨日日経夕刊「十字路」で私の信頼するエコノミスト中前忠氏が、「小泉改革をどう発展 させるか」と題して、コンパクトに日米経済の対比と今後の改革の方向についてまとめているので、引いておく。
1.日米経済の比較
日本 米国
家計部門消費の対GDP比率 56% 73%
設備投資の対GDP比率 15% 10%
過去10年の経済成長率 1.2% 3.2%
以上から、日本の投資は非効率と中前氏はする(家計消費が相対的に低いために投資の乗数効果が小さくなるというだろうか)。
そして、「米国の過剰消費、過少投資に対して日本の過少消費、過大投資が問題」であり、こうした経済は対米輸出依存度が高く(他のアジア諸国も同様だが)「極めて脆弱」という。「中小企業や国内産業に輸出増加の恩恵が行き渡りにくい」からであり、「格差問題の基本はここ」にあると、小泉改革の限界について明快である。
2.小泉改革の発展の方向
上記構造の是正が必要。すなわち、家計部門への所得移転の促進が重要で、まず利子所得の復活が先決で、要するに「金利高、円高、消費増を契機に、経済の成長力を取り戻す、これこそ改革の本旨だったはず」との主張だ。わかりやすいなあ、宇野大介さん、どう思われますか。
ここからは愚論であるが、ポスト小泉ほぼ確定→安倍ちゃんに成り代わって安倍ドクトリンとしてまとめてみよう。
公的部門の改革→財政再建→年金・保険への信頼回復→貯蓄率減少/金利復活→家計消費増→輸入増/対米中均衡(日本は米中にとって無くてはならないお得意先→日本の安全保障)となる。
日本は資本・技術輸出で儲け、中国からはハード、アメリカからはソフトを買ってやるのである、もとい、買わせて頂くのである。そのためには教育・知財立国。その基盤づくりと促進が政府の役割である。わかった?安部ちゃん。
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筆坂秀世「日本共産党」を読んだ。人気がある本らしくて図書館にリクエストしてから入手 できるまで数ヶ月を要した。チークダンスセクハラで党ナンバー4の地位を失い結局離党した人の体験的共産党論だが、読後、この人は一番大切なことを敢えて書かなかった(書けなかった)のではないかと感じた。それは、今でも共産主義を信じているか否か、ということである。
今でも共産主義を信じ、社会主義社会を実現したければ、その運動を始めればいい。共産主義を信じていないのなら、社民党でも民主党でもいいから加入して政治活動を再開すればいい。一番の根源は、ベルリンの壁崩壊から既に十六年も経過するのに、壁崩壊をきっちりと総括しなかったその知的怠慢にあると思う。善意だけれども知的自立を好まない人々の集団、それが日本共産党であると改めて思う。
ちなみに、著者は私と同い年。高校を出て三和銀行に入行し共産党に入党したそうだ。ちょうどその頃俺は同じ大阪の空の下、名曲喫茶とパチンコの日々を過ごしていた。
さて、今日の歌人は前田夕暮。「夕暮・牧水時代」と称される一時代を文学史上に画した自然主義歌人だ(そうだ)。近代短歌の主流=アララギ(茂吉が総帥)に対抗する少数派の一人である。
君ねむるあはれ女の魂のなげいだされしうつくしさかな
「なげいだされし」でぎょっとする。しかも彼女は眠っている。とするとそこに投げ出されているのは女というよりは女体である。ああ、ボク、セクハラしちゃいそう。
しかし、彼は彼女を「うつくしい」と思い「あはれ」を感じ、踏みとどまる。
と、そんな妄想を抱かせる歌である。あるいは、同棲している彼女と仲違いして不貞寝をして夜半に目覚めると隣に寝ている彼女を「あはれ」と感じ仲直りしようと思う。
などという情景を想像させる歌でもある。
要するに写生ではないのである。眠る女のあはれと美を抽象的に描くのみだから、読者はいかようにも想像してしまうのである。これに対して、昨日の茂吉の白桃の歌を想起されよ。あの歌で茂吉は、白桃をではなく白桃に対する自己の思いを「ただひとつ惜しみて 置きし」「食ひをはりけり」と具体的に写生している。夕暮はそこを「あはれ、うつくしさ」で済ませてしまっているのである。
政治は具体的総括、そして、歌は実相観入。対象を、あるいは対象に対する情念をいかに具体的に描くか、それが勝負である。
最後に茂吉の歌をもう一つ引く。団塊の世代に(自戒を込めて)実相観入エールとしたい。
ゆふされば大根の葉にふる時雨いたく寂しく降りにけるかも
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自分のブログを開いて以来、ブログの面白さを一味違って味わえるようになった。事実は立体的だから見る人の角度によって一つの事実でも異なって見える。それまでは単なる 日記やないかと軽視していたブログも開設者の立場に立つと、違う姿で見えてくるのである。それは、一言で言えば、ブログを通してその人が見えてくる(エラソー!)ということである。
だから、ネット検索する際にもWEB一般とブログを切り分けて検索できるヤフーを最近は重宝している。下のリンクは「実相観入」でブログ検索して出会ったものだ。
さて、今日の歌人は斎藤茂吉。日本近代短歌史上、最大の巨人である。
ただひとつ惜しみて置きし白桃のゆたけきを吾は食ひをはりけり
歌の鑑賞に入る前に一言、茂吉は相当の食いしんぽだった。だから「ただひとつ惜しみて置きし」という措辞には切実な情念があることを理解しておきたい。そして第三句(57577の7)を「ゆたけきを吾は」と敢えて句割れ(ゆたけきを/吾は)にして声調を破っているところに、桃に対する執着が表れていると思う。
歌意は単純(一見)。ひとつ残して置いた白桃を(食欲に負けてしようがなく)食べてしまったが、なんと旨かったことよ、とただそれだけの歌である。こんな、ただごと歌(内容のない歌・感動を覚へない歌)が短歌かよぉ、という声もあるだろう。
しかし、巨人茂吉が単純に写生に徹したのみの歌をつくるはずがない。そこで、実相観入=実相に観入して自然・自己一元の生を写す、の登場となる。作者が写生を通じて自然・自己一元の生を表現しようとしているのだから、読者もそのつもりで読まねばならないのである。
ここで問題。この歌で、茂吉は自然・自己一元の生の何を歌おうとしたのだろうか。そして「白桃」は果たして何の隠喩であろうか。俺には答えがあるが、もう紙幅に余裕が無くなった。
ところで、カラオケ歌俺も写生に徹しようとして作った歌があるが、実相観入の足元にも及ばず。だけど見せたがりなものだからここで引いておく。
店員をスタッフと書き募集する貼紙ありて店繁盛す
歌の三要素は、措辞(レトリック)・声調・厚み。カラオケ歌屋さん、精々精進しなはれ。
追記:四宮さん、はじめまして。「ただごと歌」で検索したら四宮さんの「名歌鑑賞」に出会いました。拝読して大変参考になりましたので勝手ながらリンクを張らせて頂きました。ブログでコメントしようとしましたが不可のようですので、トラックバックしました。どうもありがとうございました。
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BS2で「寅次郎ハイビスカスの花」 (第25作目) を観る。寅が「てめえら、出来てるな」と珍しく嫉妬心をあからさまに言葉にする痴話喧嘩が名場面の作品である。
上映後のレビユーで「嫉妬される喜びと嫉妬する悔しさ」との山田洋次監督の言葉が紹介されていたけど、なかなかええ文句や、なにかのときに使おうと思った。
上のリンクはヤフーのブログ検索(←便利かつ楽しい)で見つけたブログです。
下記のコメントを書き込もうとしたけれどシステムエラーで書き込めず。トラックバックからはじめまして、です。
「男はつらいよ」で検索してこちらへ到達。作品ランキングにも投票しました。自分のブログで一筆してトラックバック致します。
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自然が凶暴化するという話題はかなり以前からあるような気がする。考えられない集中豪雨、ハリケーン災害などなど、地球温暖化が原因と言われて久しいが。
そして更に問題なのは、社会も凶暴化しつつあることのようにも思う。
その1:親殺し・幼児虐待等陰惨事件頻発の一方で、例の19歳ボクサー父子物語のマスコミでの持て囃され方、異常露出。亀田父がテレビでやくみつるを恫喝したそうな。
親になったことがないから説得力に欠けるが、これらはいずれも伝統的な親子関係が崩れつつあることの証左であるように思う。家父長制度/家の解体→核家族幻想の成立→核家族の崩壊と並べると、家族関係の凶暴化とも表現できる。もちろん、凶暴化している家族関係はほんの微小数だろうが、メディアの伝染力はそれを拡張記号化伝播するから問題である。
その2:排外主義の高まり。犯罪国家北朝鮮及びそれを支援する中韓という格好の悪玉が存在するお陰で大和魂復活。チョーセン、チャンコロにいいようにやられてたまるか、と煽る人々。自らに自信がないこと及び被害者意識が裏返しとなって過剰な優越意識となって肥大化する怖さ。
家庭にも近隣にも会社にもそして社会にも安住感を持てない人たちが声高に民族を、文化を、国家(権力・権威・強制)を誇る凶暴化社会がやって来るのだろうか。せっかく安穏な老後を迎えられると思っていたのに、団塊の食い逃げ許さじ、ということか。
戦争が無いだけまだまし、から始めよう。無数のヒトラーたちと対峙する時代がやって来た。
権力と権威・強制嫌ひなり努力もせずにまた夏が来る
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子供の頃から「自分」が不思議だった。なんで俺はここに生まれて来たんやろう、どうして俺は俺なんだろうなどと。そしてまた、他人はこんなことを考えるのだろうか、なんにも喋らずなんにもしないでいるときみんなは一体何を考えているのだろう、というのも疑問だった。
こんな不思議をある人に言ったら、「変わった子やったんやねえ。そんなこと思いもしなかったわ」と返された。うどん屋の一人っ子で育ち、一人遊びをせざるを得ずまたそれが好きだったという生い立ちに理由があるのかもしれない。
さて、今日の歌人は会津八一。かな表記の歌と書で有名な歌人である。
あめつち に われ ひとり ゐて たつ ごとき
この さびしさ を きみ は ほほゑむ
「天地」→「我れ一人」→「君」と視線が移動することによって歌に厚みが形成され、「さびしさ」と「ほほゑむ」とが対句をなして格調をもたらす。声調はというと、二句切れ(575・77ではなく57・577で切る手法)がリズミックな気品を醸す。格調・声調・厚みの三要素が打ち揃った口吟すべき名歌である。
「ひとりゐてたつごときこのさびしさ」とは、(哲学っぽい言い方を借りると)実存の寂寥感とでも表現すべき孤独感であろう。では、これを受けて微笑している「きみ」は誰であろうか。特定の人間(女性?)、いや、神、などと想像は広がるが、やはり、ここは仏であろう。人間だとすると微笑だけでは物足りなくなるし、神は絶対的に沈黙を貫徹する(イエスが十字架にくくりつけられても神は沈黙した)からである。そして仏の微笑というと俺は弥勒菩薩の微笑を思い起こすのである。
なに、一人がさみしいって。ふふ、いつまでもこどもやねえ。そんなのあたりまえの話なのに、オバカな子。と、菩薩は微笑のうちにおっしゃっていると思うのである。
人生に生まれて来た理由とか生きる意味は無い。ひたすらに生きて生きる歓びを味わうべし、それが生きること自体なのだから。ほら、そこのうどん屋の子、わかった?
エロスより出でてエロスに環り来む意味を求めてめぐりし後に
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燻製作りは温度が肝心さんによると、週明 けは先物筋の仕掛けの発生する特異日、かつ、300円超下落の翌日は12勝1敗(1敗はライブドアショックの時)だそうです。
だからどうなんだ、という訳ではありませんが元気が出るハナシです。
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今日の下げは、上がらぬのなら動かぬのなら下げてみたろやないか、という下げだったように思う。だから問題は明日。明日もこんな調子が続くようだと問題かもしれない。明日反発すれば今日は上げるための下げだったということになる。
結局は実体経済。アメリカの先行き不安がどの程度のものか、所詮株は群盲象を撫でるの類かもしれぬ、と弱気してみよう。
ところで負け犬の遠吠えさん、あなたのブログのURLは
http://renai-house.cocolog-nifty.com/blog/
ではないでしょう。トラックバックした後にトラックバック元のご自分の記事を削除するとリンクが途切れてしまうのでご用心願います。
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「国家の品格」とは何か?
イエスの説く愛に匹敵する許しの思想、それが本来の「大和魂」です。
これが国家として世界に示すべき日本の新しい指針!
という本があるそうだ。「靖国」でブログをヤフー検索したらブログとの一致で出てきた。
民族とか大和魂とかにすがる前に、俺はひとりの個人として生きて行きたい。チャイニーズもコリアンもみーんな最後はただの人。だから、個人。それが平和を守る最後の砦だと思う。
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「あなたの知らないルーヴル美術館」というシリーズをBSがやってくれている。ルーヴルの 成り立ちから作品紹介、背景等、面白くてためになるルーヴルガイドである。
そして先日放映された第三回が大収穫だった。20世紀になってようやく発見された幻の名匠ラ・トゥールに出会えた。今日までに伝わる作品数は40余りと少ないらしいが、「大工の聖ヨセフ」1645が圧倒的名品である。日本に来たことがあるみたいだけれど、実物で見たかったなあ。いや、巴里にまた行こう(株で儲かったら)。今度はゆっくりとルーヴルを見たい。
さて、今日の歌人は与謝野晶子。紹介したい作品が沢山あるが、ここはおのれの立てた原則を遵守して一作だけを厳選する。
清水へ祇園をよぎる桜月夜こよひ逢ふ人みなうつくしき
清水・祇園・桜月夜という三点セットだけでこの歌の成功は約束されたようなものだ。そして、「こよひ逢ふ人みなうつくしき」が読者の想像をくすぐる。幸福感でいっぱいなんだろうなあ、作者は。なんでやねん、桜月夜だけが理由ではあれへんやろ。そうか、「こよひ逢ふ人」やなあ、逢い引き(デートなどというカタカナよりはよっぽど美しい)に行くから彼女はときめいている、だから通りすがりの人みなが美しくみえるんや。ええなあ、お裾分けをチョーダイ。
夜は光と影が織りなすモザイク模様。人類はいったいいくつの夜を経験し通過したことだろう。光と影、色と形に美の根源がある。イエスと出会った大工聖ヨセフ、鉄幹との逢う瀬に急ぐ晶子にもそれぞれの夜があり、美と苦悩があったと思うのである。
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安倍ちゃんで決まりのポスト小泉争いにあまり興味を感じないのだが、昨日テレビでたまたま幹事長がまたまたデマゴーグ発言していたので、書く。
幹事長は「靖国参拝は首相であろうと個人であろうと平等に保障された信仰の自由の問題。だから総裁選の争点にすべきではない」と言う。
これは信仰の自由の一面としては正しい。しかし、信教の自由を保障している日本国憲法20条は次の3項からなっている。
総理であろうと官房長官であろうと「信教の自由は、何人に対してもこれを保障」される。すなわち、キリストであろうと釈迦であろうとイワシの頭であろうと何を信仰するのも個人の自由である。
しかし、「国及びその機関は、宗教教育その他いかなる宗教的活動もしてはならない」という第3項が靖国参拝問題のキモである。総理とか官房長官は(国会議員も)「国の機関」であって、こういう 人たちが参拝することは「国及びその機関」の「宗教的活動」として厳禁されているのである。
これは、戦前日本が形式的には「信教の自由」を保障しながら実質的には天皇教=神道を国家の柱として特別扱いし、国民を戦争へと狩り立て悲惨な大日本帝国崩壊へと導いたことに対する切実な反省から生まれたものである。ただ単に個人の自由として保障するだけでは不十分であって、厳格な政教分離を維持することによって「いかなる宗教団体も、国から特権を受け、又は政治上の権力を行使」しない状況により個人の信教の自由を守り抜こうとしているのである(ちなみに公明党という政党が連立政権に参加しているのは創価学会による「政治上の権力の行使」に該当しないだろうか)。
だから、幹事長発言は憲法20条の一部のみを取り出して、小泉総理以下自民党国会議員諸氏(民主党にも靖国参拝する会参加議員あり)の憲法違反を誤魔化すデマゴーグである。靖国参拝したければ憲法を変えてから参拝しろ。
国家機関の明白な憲法違反が不問に附されるような国は、まともな立憲民主主義国家とはいえない。靖国問題は外交問題ではなく、国家の品格に関わる憲法問題なのだ。
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昨夜のBSにっぽんの歌熱唱ひとり舞台は堀内孝雄。聴きながら、谷村新司との距離をあ らためて思い、両者をわかりやすい比喩で対比できないかと考えた。思いつかないまま寝床に入り今朝例によって早く目覚めたら「うどんvsパスタ」という適切な比喩が浮かび、醤油味とバタ臭さの対比はなかなかのものだなどと自画自賛しだしたら起きてしまった。Wikipediaを見ると堀内孝雄の「実兄は奈良市でお食事処を経営」とある。さもありなむ、堀内孝雄の家業はもともと食堂ではなかっただろうか。
さて、今日の歌人は窪田空穂。昨日の水穂よりはポピュラーな歌人だと思う。
鉦鳴らし信濃の国を行き行かばありしながらの母見るらむか
「鉦(かね)鳴らし」と「信濃の国」の取り合わせに絵画的妙味がある。言葉は字面だけでは存在せず、言葉には我々が生まれ育ってきた過程で獲得してきた、字面から広がる連想イメージ(=ここでも奥行きと表現しよう)があるのである。
そして声調を整えるための「行き行かば」というリフレイン。最後は「ありしながらの」で亡母に対する作者の思いを間接的に、それ故に強く、読者に訴求するのである。
やはり短歌は、言葉の美(訴求力)と声調と奥行きが三要素であると自説に持ち込もう。
ところで以前誰かに「おまえの短歌はカラオケ短歌やね」と評された。これは核心を突いた評であって、実は俺は短歌以前に歌舞伎町でカラオケスナック遊びに凝った時期がある。カラオケ演歌を練習極める過程で詞→詩/短歌に目覚めたのではないかと自分では思っている。
だから俺の短歌は俗。醤油味である。そして(声調は置くとして)言葉の美と奥行きを欠いている。これを基本的技能の修練で補う必要があるのだ。谷村新司流のキザっぽい味は俺には不似合い不可能だから。あ、俺は田舎町うどん屋の息子であった。
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先日、ようやくカメラ付携帯電話に買い換えた(家人使用機器。俺は蟄居中だから未だカメラ無し)。ドコモショップのオネーチャンに相談しながらの買い物である。オネーチャンに写した写真をPCに送るとどのくらい通信料かかるの?と訊いたら約23円という返事だった。帰宅して試し撮りをPCにメール、受信ファイルを開いて満悦した。
ところが、根っからのしぶちん我は、アホラシイなんで数十センチの距離でネット転送せにゃあかんのだ、と疑問を抱き携帯のマニュアル見ればミニSDカードでPCとやり取りできるようだ。
そこで暑い暑い今日は小避暑行もかねて聖蹟桜ヶ丘さくらやへ。携帯売り場のオネーチャンにミニSDカードについて教えてもらい、価格他概略判明し問題は我がPCにカード受け口があるか否かに移った。とんかつ食べてご飯味噌汁キャベツお変わりして帰宅→読書昼寝となる。
目覚めた後にNECHPアクセスして我がパソコン仕様検索→我が初級品PCではPCカードアダプタ必要と判明。これでも一度さくらやオニーチャンに確認しながら必要機器購入で きる状態になって安心となる。それでも実際購入するのは少なくとも半年後だろうなあ。
カメラ付携帯購入嬉しくて我がウエストを記念に撮れり
84キロ台突入記念写真である。PCカードアダプタ・ミニSDカード等購入したらアップの所存。
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稲城図書館で上原ひろみデビューアルバム発見。スピッツみたいに鍵盤をはねるジャズ がサイコーである。これで俺の冥土の土産ライブラリーが一段と豊穣になりボクは嬉しい。
呆けつつ音楽聴けば歌こそは人が生まれて死するところか
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「7月の米雇用者、11万人増・減速感が鮮明に」という発表だったようで一安心。これで「利上げ&利上げ継続示唆」という最悪シナリオだけは避けられるのではないか。CMEは現在値15465→月曜東京上放れ可能性は否定されなかった。でももうエエ加減に手仕舞おうね。15530損切りは覚悟所存。新たな博打を始めるためにも。
しかしまあ、ミニ先を始めたおかげで博打心はこっちで満たされ、現物は中長期投資又は投機という区分けが出来るようになれると思う。つまり、キャッシュが第一→急落後底値を見定めて買い出動という念願パターンを形成できるというものだ。
ミニ先よ、ありがとう。ながーいお友達でいてよね。ナニ、おまえ次第だってか。なるほどおっしゃるとおりです。ボクの自己規律の問題だった。賭博とは自律のこととみつけたり。
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もう何回目だろう観るのは、でも冥土の土産にDVD永久保存しようと思い録画、録画すれば観る、観たら泣く、それが幸福の黄色いハンカチである。
健さんがいい、カッコいい、というか、筋の通った寡黙な男らしさ→凛々しいのだ。出所して初めてビールを飲むシーンからラストに至るまで「男は黙って」物語るのである。そしてまた、何回も観ているのに映画的発見がある。ああここはこういうアングルから撮るんだ、こんなカットにするんだ、と思う。健さんと千恵子の再会はロングで撮っているから余計に観客に想像力発揮を要求する。映画の面白さをあらためて認識する名画である。戦後映画最高傑作である。
さて、今日の歌人は太田水穂。あまりポピュラーな歌人ではない。不勉強な俺もよく知らない。
もの忘れまたうちわすれかくしつゝ生命をさへや明日は忘れむ
上句「もの忘れまたうちわすれかくしつゝ」で畳みかけ、一転、下句「生命をさへや明日は忘れむ」と転じて悲哀感で閉じる歌である。また、「わすれ」の三回繰り返しが声調の背骨となっている。言葉の格調美、声調、奥行きの三要素が揃っていると思う。
この歌を選んだのには、85歳要介護1姑との同居体験がある。要介護というと世間的には認知症がかなり進んでいると思うだろうけれど、ところがどっこい、表面的にはしっかりしているのである。人の話もちゃんと理解できるし話すことも「賢げに」筋が通っている。また、おかげさまで自分の足でトイレにも風呂にも行ける。
ところが、短期記憶がダメ。例えば、朝、何を食べたかは当然、食べたか食べないかも覚えていないのである。また、曜日、月日の感覚も無い。新聞(日経!)は一応目を通しているみたいだけど、多分あれは読んでるフリ、字を眺めているだけだろう。
短期記憶が衰えるということは、生きる意欲にも影響するのだろうか。意欲的に自分から何かを楽しんで暮らそうということもなく、週5回お迎えに来てくれるデイサービスだけが楽しみのようで、「行くところがあって幸せ」と行っている。毎日何度もカレンダーを確認してお迎えを待っている。これが85歳の普通の老人の日々である。
生命(いのち)は歌に生まれ人を愛し別れを経験し、ときには(映画のような)劇的再会もあって最後は歌に死ぬ。しかし問題は(幸いに長命すると)「生命をさへや明日は忘れむ」呆心の日々があることである。あ、本人はなにも感じていないかもしれない。
かにかくに姑は俺の先生なりき。今日のBGMはミケランジェリのショパンであった。
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儲けたい欲は先物 現物は中期投資のキャッシュを貯めよ
現物でもHOYAがほんのちょっぴり利が乗っているが、強気でホールド。来週利食いしたらキャッシュを手放すなよ、と自分を戒める。儲けたければ先物で。
だけどそんなにうまく行けへんぞ。
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暑いけれども今日はプールの日だけれども84キロ台目指してWalking。
遠き昔日、ウメシン(梅田新道)の名曲喫茶「日響」で長時間粘り、パチンコをする日々ありき。今はパソコンでバッハを聴いて先物の板(売買注文及び約定状況ボード)を眺めるなり。なんや、なあんにも変わってないやんか。
では、うえの歌に対する返歌(のつもり)。
長引ける梅雨が明ければ盛夏来てあなたまかせの四季は過ぎ行く
これには本歌あり。
所有するなにものもなく愛恋の憶ひは持たず過ぎゆくは秋
日経歌壇一等賞(唯一)。岡井隆さんが「二重否定が清々しい」と評してくれたのを今でも覚えている。我が勲章なりき。
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パソコンを閉じようと思ってメールを開いたら藤巻プロパガンダが入っていた。
5月急落の藤巻流絵解きと藤巻さんの人間性(自動車修理の件)がよく分かります。
以下、ご参考まで。
プロパガンダ会員の皆様(一斉配信)
本日、金融通信「藤巻プロパガンダ」116号発行いたしました。
http://www.fujimaki-japan.com
です。
なお、先週末の朝日新聞土曜日版Beの「フジマキに聞け」は
http://www.be.asahi.com/20060729/W14/26DNS244.html
でご覧になれます。
よろしくお願いいたします。
また、本日からテレビ出演が続きます。
本日(8月3日・木) 日経CNBC 昼12:00-12:30
明日(8月4日・金) フジテレビ「とくダネ」朝8:00-10:00
明後日(8月5日・土) TBS 「ブロードキャスター」夜10:00-
8月7日(月) テレビ東京「カンブリア宮殿」夜10:00-
また先日の英語でしゃべらナイト」の再放送が8月22日(火)深夜にあります。
(午前2時10分から30分間)
これらもよろしくおねがいいたします。
藤巻
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昨日8/3夜に配信があったようで、先ほど見た。
自社株買いは特別の場合以外やるべきではないが、今回はSBとの株価連動性を断ち切る必要がある、低株価を是正したい、という特別の場合であると北尾CEOは言っているように理解した。それからGS証券への売却→市場放出分については、中長期ホールダーが主であるものの、中には利食いもあるだろうとのこと。
また今後のSBとの関係については資本関係はなくなるが、共同事業をやりたいとも言っていた。
さて、これで市場は納得するか。なんで8/2にまとめて配信しなかったかという小さな疑問は残るものの(まさか俺の問い合わせが効いた訳ではあるまい)、説得力はあったと考える。今日の値動きが興味深い。
人生は仁義礼智信。やっぱり俺は北尾ファンなのかなア。
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曲はゴールドベルク変奏曲1981年デジタル録音版。こないだ稲城市立中央図書館で見つけて多摩市民たる我がパソコンに落としたのをで聴いている。
アリアが、かなりゆったりしたテンポで始まり、グールドの世界が広がる。
カスタマーレビューを読むと面白い。当然だけど、いろんな聴き方、受け止め方がある。同一人物でも時・場所・状況が異なれば、異なって聴こえ方をするのだから。
ということは、音楽は感情の抽象化モデルといえるのではないか。
そして、演奏は、抽象化モデルの骨格を示す譜面からモデルを塑像する作業。鑑賞は、塑像されたモデルを体内に落としこみ感情を味わう作業。
そしてまた、この抽象化モデルは最終的に「いのち」に結晶する。バッハは、ゴールドベルク変奏曲で「いのち」の様々な現われを我々に示してくれているのである。
そう。いのちはアリアに始まりアリアに終わる。人は歌に生まれ歌に死すのである。
ご参考:稲城市立中央図書館はPFIで作られ七月にオープンしたばかりの最新図書館です。休みは月一回のみ(多摩市は毎週一回)、AVが豊富/「グレンミラー物語」DVDを先日借り出してちょっぴり落涙(ダビング不能がカナシイ)、職員少数大変(多摩市は職員手持ち無沙汰も目立つ)。他の自治体からの見学もよく見かけます。
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いかんなあ、二時過ぎに目覚めてしもた。なんかストレスあったっけ。オーバーナイトしたミニ先物3枚しか思いあたることはないぞ。
さて、今日は与謝野鉄幹。馨大臣(密かに私がポスト小泉に擬している政治家)の祖父です。鉄幹へのリンクも馨大臣のHPに敢えて張りました。
われ男の子意気の子名の子つるぎの子詩の子恋の子あヽもだえの子
有名な歌です。「子」を七回も繰り返す破調の歌ですが、調子(リズム)はよく、「もだえの子」でオチもついています。
音楽の三要素はメロディ・リズム・ハーモニーですが、短歌の三要素をこれになぞらえると、言葉自体の美しさ・調子・奥行きとでもなるでしょうか。昨日の信綱の歌「行く秋の大和の国の薬師寺の塔の上なる一ひらの雲」でいうと、歌全体が格調美を備え、定型が調子を整え、大和の国→薬師寺→一ひらの雲というズーミングの妙が歌の奥行きを形成しています。
これに対して鉄幹のこの歌は、調子は破調ながらよいのですが格調高いとはいえませんし「あヽもだえの子」はナマすぎるともいえます。そして、歌は一直線で奥行きは感じません。
しかしそれでもこれは名歌です。愛唱できる歌です。それは、自意識が強い人間一般(特に俺)に通じる悲哀を湛えつつ一種の昂揚感をもたらすからです。
そんな鉄幹を晶子は生涯、恋しました(愛というよりは恋でしょう)。だから鉄幹の死に際してこんな歌を残しました。
そういえば、渡辺淳一に「君も雛罌粟(コクリコ)われも雛罌粟(コクリコ)」が ありました。ボク、渡辺淳一がワリと好きです。あまりにエロっぽいのは歳の所為かついていけませんが。
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先物ブログで先達たちの今日のトレード結果を見る。
例えば15,530売 → 15,470買 +60
15,470買 → 15,510売 +40
というのが今日の模範解答かとも思う(日経225先物生活さん)。
結果を知っているから、なるほどなあと思うことが出来るけれども、一寸先は闇に近い手探りだからとてもこんな解答は出せないなあ。「相場の気」を読む力が欲しや。
修練修練→人が経験をするのではない、経験が人を作るのである。
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ということは覚えておこう。そこを15560で買ったのだから15600の壁を甘く見ていたということである。
上記を敗因としたくない。頼むから上げておくれ。
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8/2配信分のSBIチャンネルを拝見しましたが、欧州IR行脚話の一環で「ソフトバンク保有株式をなんとかしないといかんね」とのCEO発言はありましたが、今回のソトバンク持株処分に関して言及はありませんでした(運用上の時間差で間に合わなかったものと推測しますが)。
巷では「株主軽視だ」「孫さんへのビッグプレゼント」などという推測も流れています。また、かねてから「自社株買いは嫌いだ」旨のCEO発言もありました。
そこで今回大きく株価下げていることもありますので是非とも早急に納得いくご説明をお願いしたいと思います。ご多忙中恐縮です。よろしくお願いいたします。
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昨日に続けてなぶら投資帖を拝読する。北尾さんから孫さんへのビッグプレゼントの損益計算は、以下のようになるそうだ。
すなわち、SBI一株当たり純資産は23,681.59円のところ、SBは時間外取引で45,000円 で売ったのだから、差し引き21,318.41円の儲け/株式全体では223億円の資産移転となる(これに加えてSBIがSBの持分法適用会社/時価評価で合計500億円プレゼントとなるのは昨日書いた)。逆に、SBI株主は1株当たり喪失額 2,009.90円(SBIの自社株分を除いた結果)となる。
しかしまあ、以上は、時間外特定株主からの自社株買いの局面に限定したハナシであって、SBIが中長期でこの自社株買いをどう生かすか、その結果株主にどれだけの利益を還元するかとの言い訳も成り立たない訳ではない。例えば、移転された資産を活用してSBが携帯事業を成功させ、それにSBIが何らかの形で関与して利益を得る等。
自社株買いは嫌いだ、と公言していた北尾CEOがどう説明責任を果たすかが見ものである。ちなみに俺はSBI、SB双方のホールダーだけれど(金額にするとSBIの方が多い)。
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ナスダウ反発、CMEも15565△245である。MA200が15628だからもう一息だ。
寄り付き後先物主導でCMEに寄せて、一旦下げてまた上がるという展開があれば昨日に続いてミニ先物で稼げるなア、と誘惑の甘い甘い自分勝手ご都合想定である。
いずれにせよ、今日は上げ。現物利食いは強気で引っ張ろうと考えている。本格反騰は来週FOMC通過後と読んでいるのだから。
追記:燻製作りは温度が肝心さんが、昨日の大引けは「最高の引け味」として、「ここにきての動きは、相場で飯を食うプロの琴線に触れる、何か」があると表現されています。このあたりがプロの気=暗黙知なんでしょうな。「今夜のNYを大過なく通過すれば、明日の東京市場は大暴騰があってもおかしくない、そんな幻想」が具現化するか、ちょっとワクワクします。あ、勝手引用ごめんなさい。
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プール・ウォークしていると(何故か)歌が浮かぶ。
ストボ竹矢宣子(たけやのぶこ)さんの声が好きだ。カレン・カーペンターを思い出させる甘いアルトである。ストボにも何回か「セクシーです」と投稿して、ほとんどボクはビョーキかもしれない。
さて、歌をもう一度読み直そうと思う。高野公彦編「現代の短歌」(現代歌人105人のアンソロジー)をテキストにして、気ままに一首ずつ拾っていくことにした。短歌のサイトと謳っているのだから俺もビョーキに甘んぜず勉強しなくっちゃ。
第一回は佐佐木信綱。信綱といえば、教科書にも載っていたこの歌である。
ゆく秋の大和の国の薬師寺の塔の上なる一ひらの雲
「行く秋の大和の国」で大きく空に拡がった視点は、「薬師寺の塔」にズームして、更に「一ひらの雪」に焦点は定められていく。そんな視点の移動/ズーミングの面白さを感じさせてくれる歌である。そして、視点の移動を味わった後に音楽(例えばヴィヴァルディ)が聞こえる。名歌は音楽を伴うのである。いつかこのズーミング手法を使ってみたいな。
そうそう、「ひとひらの雪」なる小説があったが、きっとこの歌に触発されたネーミングだったに違いない。
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下げる株やねえ。買ってなくてよかった。
しかし、SBが売ったといってもSBIが買っているのだから、北尾CEOが嫌いな自社株買いみたいなもんやないか。なんでここまで下げるねん。
北尾はん、あんた誰かに相当憎まれとるぞ。
追記:北尾CEOファンサイトを発見。お友達ですね。
更に追記:連結のマジックを発見。SBは売却代金+税効果適用後で約500億円の純資産の増加となるそうです。素晴らしい。今日のSB株価△10はどこまで織り込んでいるのだろうか。
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先物板を見ていたらスルスルと上げたので衝動的確信的に買うてしもうた。
予想通り今のところの高値掴み。
とりあえず練習や、とおのれを騙す。
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日経15300が抵抗線で下値支え。ミニ先物の板を見たり現物板を見たりしてノーアクションで時を過ごせり。買いたいのを我慢する練習になっているか。
ところでアクセス急増。なんでや→ライブドアファイナンスから来てるんやんか。
ほほう、なかなかのものである。ブログの機能も豊富みたいだしね。
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「ネクタイをしていると小泉純一郎首相への忠誠心を疑われる。郵政民営化法案に反対した人はたいがいネクタイをしていた」安倍官房長官が豪外相にクールビズの理由を説明
と、日経2面に小さな囲み記事。どんなシチュエーションでの発言か不明だが、ジョークだとするとなかなかの人物かもしれぬ。しかし諸般の事情を総合勘案するとちゃうような気がする。真面目に発言したのではないか。
「北朝鮮 水害の復旧優先? 「アリラン」や南北共同事業中止」
異変説も否定できないと外報面は伝える。38度線で南北銃撃もあったようだが、崩壊の兆しとみたいのは俺の色眼鏡である。
訃報→吉村昭さん膵臓癌79、鶴見和子さん88さん。
今日はテレビ新聞閲覧が押したので朝ウォーク中止。プールに行く日だからまあいいか、とする。
湯豆腐やいのちのはてのうすあかり
誰の句だったか、忘れてしもうた。←久保田万太郎だった。ネット検索は素晴らしい。
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田中宇さんが、レバノン侵攻はチェイニーがイスラエル右派をけしかけた、との推測をされている。田中さんは同時に、アメリカは多極化志向でありイスラエルがシリアと戦争を始めても参加せず、イスラエルの破局の始まりとの見方もされている。
国際政治は複雑怪奇、しかし、原油高騰/日本株急落となってわが身に降りかかるのであります。日本国政府は行動せよ、少なくともアメリカの袖を引っ張ることぐらいのことはせええ。
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標題はマネタリスト原田泰さんのコラムの標題。ゼロ金利解除したら長期金利が下がるという現象が発生しており、名目GDPの上昇率≒長期金利だから市場は今回のゼロ金利解除により成長期待をいくぶん低めたことになる。でも長期金利低下は心配するほどのことではなく、ゼロ金利解除は前回の失敗を繰り返さないだろうという趣旨だ。
(おお、うまく要約できたなあ。ほんの少しは経済が分かってるやんかあと自画自賛)。
このコラムは経済レポート情報で見つけた。株をやるのは経済を勉強したいから、とこじつけておこう。
追記:内外景気/日本経済~「失われた世代」と題するレポートも発見。ポスト小泉政権の重要課題にフリータ・ニート対策があると再実感。小泉さんに「米百俵」を期待しても無駄である。
もう一つ追記:米中「金融恐怖バランス」という見方がある。このバランスが壊れるとドル暴落というコワーイ見方である。
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そんなん決まってるやん。働かずして儲けたいからよ。
でも、大損こいてるやんかぁ。なんでそれでもやるねん。
まだ始めたばっかりやから、今の損は授業料や。
ほほ、強がり言うとるわ。もうええ加減に止めたらああ。
でもなあ、預金の利息は(少々上がったけれど)通帳のシミやろぉ。ガソリンも144円やでえ。路線価も都市圏では上昇しとるみたいやし、インフレ対策も必要や。
そやけどおまえ随分下手糞やでえ。キャッシュが第一と言いながら、キャッシュ回収したらすぐ株を買いよるやろ。見てみい、ナスダウ下がっとるぞ。今日は東京もかなり下げるのとちゃうか。CMEは15250▼180や。
こんなときはじっと我慢や。そのうち上がるワイ。日本経済の未来を俺は信じとるんや。
そうなのである。大損こいても下手糞でも俺は多分株を続けるだろう。
株は買わなければ損しない。下がったときに、なおかつ、これからは上げるというときにのみ買わなければ(すぐには)儲からない。三年もしたらちょっとは上手になってるだろう、と自らを慰めながら。
それにしても今日は下げる。ああ、なんでこんなときにキャッシュを持ってないねん。
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