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2006年8月27日 (日)

ツチヤ教授

哲学入門書のみの読書で一知半解。それも瞬く間に忘却の彼方へ、という繰り返しの俺だけど、ようやく、ウィトゲンシュタインと言語論的転回がわかった(ような気がした)。

存在とは何か、時間とは何か等形而上学は言葉の使い方に関する問題に還元できる。感覚できない事柄(形而上学)については沈黙しなければならぬ。訊きたいのはやまやまだろうけれど。
要するに、物自体を問うことは形而上学であって、答えはない。それらは勝敗が決することのない言語ゲームである。
言語ゲームは経験(観察・検証)とは別に展開される行為であり、実在(客観的現象)とは切り離して考えるべきだ。これすなわち言語論的転回である。Photo_124

以上、「ツチヤ教授の哲学講義」の俺流エッセンス。
そして以下、俺流更なる展開。

認識するとは、実在及び言説の摸像(モデル)を脳内に構築すること。
理解するとは、言説と摸像とを照合させて過不足を把握すること。
従って、言語ゲームは摸像をめぐる認識・理解の自律的過程となり、実在とは切り離して考えるべきとなるのである。

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