経験の構造について
純粋経験 「色を見、音を聞く刹那」まだ私は存在しない。
主客未分の状態。
知覚 色を色として音を音として認識する。
私の中の座標軸(時間・空間)が世界を分節する。
帰納 色、音は私の脳内の摸像(モデル)と照合される。
世界はモデルと突き合わされて、意味を獲得する。
仮説 色、音は何処から来るのか。何に起因するのか。
因果律が働き私は原因を設定する。
演繹 とすれば、かくあるはずだ。
ここに、存在と非在の仮説がつくられる。
検証 仮説は実験によって検証される。
確からしさを確認して仮説は理論と呼ばれる。
経験は上のような構造をしているのではないか。そして、経験の限界が形而上学であり、言語ゲームは、分節→意味→原因→存在をめぐる実在からは自律した戯れである。
かかる事態を独我論者永井均は「開闢の奇跡」気分を率直に語るなら、「私」と「今」とは同じものの別の名前なのではないかとさえ感じていると表現しているのであろう、と俺はエラソーに決めつけたいのだ。
だから我と汝は、純粋経験において未分(想起せよ性愛)であり、抽象の極北=理論において共通理解しようとする。ふふ、俺は一人で生まれひとりで死ぬのであるが。
ちなみに、相場は帰納と仮説(強気/弱気)と検証を主戦場とするゲームである。多くの場合、検証で失敗するのだが。
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