太田水穂
もう何回目だろう観るのは、でも冥土の土産にDVD永久保存しようと思い録画、録画すれば観る、観たら泣く、それが幸福の黄色いハンカチである。
健さんがいい、カッコいい、というか、筋の通った寡黙な男らしさ→凛々しいのだ。出所して初めてビールを飲むシーンからラストに至るまで「男は黙って」物語るのである。そしてまた、何回も観ているのに映画的発見がある。ああここはこういうアングルから撮るんだ、こんなカットにするんだ、と思う。健さんと千恵子の再会はロングで撮っているから余計に観客に想像力発揮を要求する。映画の面白さをあらためて認識する名画である。戦後映画最高傑作である。
さて、今日の歌人は太田水穂。あまりポピュラーな歌人ではない。不勉強な俺もよく知らない。
もの忘れまたうちわすれかくしつゝ生命をさへや明日は忘れむ
上句「もの忘れまたうちわすれかくしつゝ」で畳みかけ、一転、下句「生命をさへや明日は忘れむ」と転じて悲哀感で閉じる歌である。また、「わすれ」の三回繰り返しが声調の背骨となっている。言葉の格調美、声調、奥行きの三要素が揃っていると思う。
この歌を選んだのには、85歳要介護1姑との同居体験がある。要介護というと世間的には認知症がかなり進んでいると思うだろうけれど、ところがどっこい、表面的にはしっかりしているのである。人の話もちゃんと理解できるし話すことも「賢げに」筋が通っている。また、おかげさまで自分の足でトイレにも風呂にも行ける。
ところが、短期記憶がダメ。例えば、朝、何を食べたかは当然、食べたか食べないかも覚えていないのである。また、曜日、月日の感覚も無い。新聞(日経!)は一応目を通しているみたいだけど、多分あれは読んでるフリ、字を眺めているだけだろう。
短期記憶が衰えるということは、生きる意欲にも影響するのだろうか。意欲的に自分から何かを楽しんで暮らそうということもなく、週5回お迎えに来てくれるデイサービスだけが楽しみのようで、「行くところがあって幸せ」と行っている。毎日何度もカレンダーを確認してお迎えを待っている。これが85歳の普通の老人の日々である。
生命(いのち)は歌に生まれ人を愛し別れを経験し、ときには(映画のような)劇的再会もあって最後は歌に死ぬ。しかし問題は(幸いに長命すると)「生命をさへや明日は忘れむ」呆心の日々があることである。あ、本人はなにも感じていないかもしれない。
かにかくに姑は俺の先生なりき。今日のBGMはミケランジェリのショパンであった。
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