開闢の奇跡
あ、同じ本をまた図書館から借りてもた。難解だったから論理展開に付いていけなかったから途中放棄したのに、性懲りも無くそれも忘れてタイトル/著者に惹かれて借りてしまった。「私・今・そして神」永井均。
しかし、今回はちょっとだけ進歩。じーんと来るGスポットに出会ったからだ。早速引用。
気分を率直に語るなら、「私」と「今」とは同じものの別の名前なのではないかとさえ感じている。そもそもの始めから存在する(=それがそもそもの初めである)ある名づけえぬものに、あとから他のものとの対比が持ち込まれて、<私>とか<今>とか、いろいろな名づけがなされていく、といった感じである。
以下、俺が→を使って簡略化した。
他人との対比→<私>
過去や未来との対比→<今>
外界との対比→<内界>
非現実との対比→<現実>
決定論のようなものとの対比→<自由意志>
もともと存在しているのは<>で囲んだほうだけなので、それがそれ以外のものと一緒にその中に位置づけられるような共通項は、じつは存在しない。人間たちの中に私はおらず、時間の中に今はない。むしろ<私>の中に人間たちが、<今>の中に時間がある。<>で囲んだほうが存在することこそが、世界の開闢そのものなのである。これを「開闢の奇跡」と呼んでおこう。
「色を見、音を聞く刹那」純粋経験とは、開闢の奇跡のことであった。世界は「ここ」から始まる。人間たちの中に俺はいない。だから、俺は他人嫌いなのだと納得した。
しかし、これは哲学ではなく、文学だと俺は思う。哲学は、カントのようにオトナの常識を理屈付けるもの<のはずなの>だから。
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コメント
自己コメント(メモ代わり)。
私と他人は図と地の関係。「他人との対比→<私>」を言い換えてみた。
投稿: 土曜日 | 2007年11月10日 (土) 午前 04時19分