自由について
ライプニッツの十分な理由の法則というものがある(そうだ)。森羅万象にはすべてしかるべき理由がある、とする法則である。哲学業界用語では充足理由律とか充足根拠律とか呼ばれているそうである。石川文康「カントはこう考えた」は、ライプニッツとカントをこの法則を基に結んで理性、自由について論じている好著である。以下、これに触発された駄文である。
森羅万象には全て理由がある。俺がこうして生きているのは、直接的には俺の親が俺を生んだことが理由だが、更に遡ると、サルがヒトに進化したことが理由となる。そしてヒトの進化には生命の誕生という理由があり、生命には地球の誕生、更にはビッグバンという理由がある(ナンデナンデの因果の鎖)。
では、ビッグバンに理由はあるか。
これを考えると、カントの第4アンティノミーに至る。世界の因果の鎖の中には絶対的必然的存在者がいる/絶対的必然的存在者がいない。ああムツカシイなあ、要するに、ナンデナンデの因果を遡ると、第一原因がある/ない、ということである。
ちなみに、カントのアンティノミーは4つ。(1)量:世界は時間・空間的に有限/無限(2)質:分割不可能な単純要素がある/ない(3)関係:絶対的な始めとしての自由がある/ない(4)様相:第一原因あり/なし。
カントはこうしたアンティノミーは、理性の限界に由来すると考えた(これがカントの純粋理 性批判)。
確かに、十分な理性の法則は、経験と理性のコンビによる世界の法則・原理の発見に寄与する。観察(経験)→帰納(理性)→仮説(理性)→演繹(理性)→検証(経験)である。
しかし、先の4つのアンティノミー(世界の限界、分割、始原、第一原因)のいずれも、観察し検証できない事柄である→(例)ビックバン以前を推測できるような現象はこの宇宙(ビッグバンにより誕生し膨張継続中の宇宙)には論理的に存在しない。
従って、4つのアンティノミーは経験と理性のコンビによる解決は不可能となる<理性の限界>。
ここで、道は二つに分かれる。理性の限界に何を対置するか、である。
第一:プラトニズム又は信仰の道。理性の限界はイデア又は神とする。すなわち、始原・第一原因はある、となる。だから、イデアが世界の設計図であり第一原因とするプラトニズム、又は、造物主(神)が始原・第一原因とする信仰となる。ここでは絶対的な始めとしての自由はない。窮極はイデア又は神が規定する他なくなるのである。
第二:カントが採用した道。理性の限界は自由とする。すなわち、始原・第一原因は人間の理性に他ならないとなる。だから、絶対的な始めとしての自由が存在することになる。その一例が、時間・空間は主観の形式とするカントのカテゴリーである。ノベタンの世界を分節し関係づけるためには、人間の自由の発現としてのカテゴリー(座標軸・分類基準・論理)が必要。その上で経験(観察と検証)が可能となる。自然科学者は意識・無意識にカントの道を選んだのである。
以上を要約すると、ビックバン以前は経験不可能/因果律は働かない、経験(観察・検証)するためには座標軸が必要、座標軸を導入することにより因果律が働き、観察・検証が可能となる。そして、座標軸をいかに設定するかは人間の自由に任されているというのがカント的理解となる。理解してみればアタリマエ、なんのムツカシイこともない(と俺は思う)。
そして、最後に言いたいことは次の文学的事柄である。著者は理性の限界=自由を水平線に喩えてた上で、自由を以下のように特徴づけている。
1)存在するが到達不可能である
2)思考や行為を導く力
3)日常性を超えた領域から対象が浮上してくる境界線
目指すのは「自由の王国」である。疎外(ヒトが作ったものがヒトを支配すること)を克服せよ、カネ・権力・制度の支配と文化の抑圧を打破せよ、マルクスが夢見た「自由の王国」は水平線の彼方に存在するのである。今でもマルクスを信じる同志たちにトラックバックを捧げます。
追記:これでカント「純粋理性批判」をワカッタ気になるのがコワイ。だけど原典キライ。だってムツカシイんだもん。
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