カミと神について
日本のカミは神棚に祀るカミ。祀り上げておけばいい、敬えばいいという神である。
これに対して一神教(ユダヤ・キリスト・ムハンマド)の神は造物主、すなわち世界の第一原因である。
とすれば、カミと神を同列に考えていいのだろうか。
小泉総理ほか殆どの日本人がこの点、同列に考えているような気がするナア。
これに対して、一神教を信じる人からすれば、A級戦犯合祀云々は笑止千万。三位一体論でのキリストを別格にして、神は人間ではあり得ないのだから合祀自体が理解不可能でしょう、多分。
では、この点、中国人韓国人朝鮮人はどう考えているのだろうか。
韓国ではカトリックが多数派みたいだから信仰問題として考えれば一神教信者と同じでしょうが、信仰問題ではなく歴史問題としてヒートしているだろうから、合祀分祀は無視してギロンしているでしょう。
北朝鮮は論外として現代中国で神をどう考えているかは興味あり。「信仰問題としての靖国参拝と中国」などというキーワードでネット検索したらオモロイかもしれぬ。
さてでは、なぜ、日本では神がカミなのか。
「つくる」「うむ」を基調とする砂漠の宗教と、「なる」を基調とする高温多湿緑滴る風土の宗教との対比という視点で考えるとオモロイと思う。カミなんて勝手にそのへんでうようよカミに「なる」のよね。丸山真男の古層論である。リンクフリーか否か自信はないけどエエイ張ってしまえ松岡正剛の千夜一夜。
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