土岐善麿
実は、この「一人一首」では、構成において、次のような仕掛けを施すことを試みている。
それは、マクラ(なるべく俺的な事柄)→歌人/歌人紹介リンク(ブログ優先)→歌人の短歌一首→短歌分析(具体的に。措辞・声調・厚みの三要素に沿って)→オチ(マクラと響きあうことが望ましい)という構成である。
従って、「一人一首」執筆にあたっては、(1)構成検討(2)リンク先検索(3)内容作成という手順を含むことになる。
本記事でも、昨日に構成概略案が既にあったのだが、今朝、リンク先検索した結果及び気分が揺らいで、マクラをこのような形に変えることにした。
さて、今日は土岐善麿。新聞記者として活躍した人で、駅伝の名付け親だそうである。
遺棄死体数百といひ数千といふいのちをふたつもちしものなし
冒頭に「遺棄死体」といういささかショッキングな言葉を配置し、「数百といひ数千といふ」リ フレインでそれを強調し、下句はひらがな表記で哀しく愛しく閉じている。
たぶん、ニュース映画を見ての歌であろう。「数百」「数千」に対しての「ふたつ」「なし」すなわち一=個の対比がこの歌の眼目である。報道や映像は事実をマスで伝えることに傾き勝ちだが、いのちはいのちにとって唯一、それを忘れてはならぬということを訴えている歌である。そうなのだ、俺にとっては俺の人生が全て。しかし、戦争は国家は俺をマスの中の一つとしてしか扱わないのである。一銭五厘で兵隊は集められた時代の話だが、現在も事態は本質的に変わっていないと思うのである。
人生=損得+好き嫌い+いのち。そして、いのちにとって、損得と好き嫌いは人間の大脳皮質が生んだ過剰。この過剰がイデアをつくり国家を生み資本を育てた。そして作り出されたイデア・国家・資本がいのち(人間)を道具視しマスとして扱う。その疎外の極致が戦争である。
ここに、俺が反国家(左)を基本とする根拠がある。お財布は右のポケットに入れているのだけれど。
追記:写真は「歴史と旅の世界」から借用しました。お時間あればノモンハン事件の項をお読み下さい。
追記:善麿のこの歌を引用している株ブログに出会った。トラックバックさせて貰おうと思ったけれど禁止なのでコメントさせて頂いた。
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