山田あき
三つ子の魂なんとかでこのへそ曲がりは困ったものである。
なにを言っているかというと「ハンカチ王子」である。別に甲子園の優勝投手に嫉妬しているわけでもなんでもない。ギョーカイの人たちがワイドショーの時間埋めのために適当なキャッチをでっち上げて「いま巷で人気」と大衆を煽るのが気に入らない。
ちょうど相場でギョーカイ人が人気株などと煽って買わせるのも同じ手口であり、更に言うならば、政治家三代目を貴公子とかソフトな強硬派とかなんとか持ち上げていつの間にやら次期総理本命にしたのも同様である。
要するに、無知な大衆を煽るのはええかげんにせえ、と俺は言いたいのだ。
さて、今日は山田あき。プロレタリヤ歌人同盟に参加した歌人であり、日本母親大会の設立呼びかけ人でもあった人である。今は全く流行らないサヨクの所為だろう、ネット検索しても適切な経歴紹介のページは無かった。かろうじて石川県志賀町観光協会があったので引いておく。
生き得たる胸の泉を溢れしめおんなはおんなのたたかいをする
戦後、平和運動華やかなりし頃の歌である。そして、おんながおとこの劣位にあった時代である(今でもハンディが無いとは言わせない)。だから、下の句「おんなはおんなのたたかいをする」という言い回し(措辞)が成立する。4句「おんなはおんなの」が字余りであるが、ここは「おんな」のリフレインが必須であるから必然的に字余りとなる。
そして、上の句「生き得たる胸の泉を溢れしめ」が戦争下を生き抜くことができた切実な感情と健康なエロスを感じさせる。この歌はこの「胸の泉」によって徹底した私歌となり、短歌として成立しているのである。歌人・山田富士郎の批判に登場する「ベトナムの友をはげます声の波ペキン放送は火をふく如し」と比較すればその違いは歴然としている。短歌が短歌として成立するためには「私」が存在していなければならないのである。
サヨクが左翼として再生するために、綺麗ごととか大衆を煽るためのキャッチ等と訣別して、まずは徹底して「私」に立つべきではないかと(まだ論証が不足で軽率だが)俺は思う。例えば、俺の安穏な老後を守れ→平和と民主主義を守れ、憲法改悪安倍政権を許すな、などと。
だからあんた出世はできぬと細君が俺の軽率たしなめて言ふ
画像はアートポスターズから勝手借用/感謝です。
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コメント
みぃつけた!お元気そうで何よりです。
あたしは何か「たたかって」いるかなぁ。たたかわずに済むのが一番かな。
投稿: なむ | 2006年8月25日 (金) 午後 08時38分
見つけられたか、といっても見つけた人にある程度確実な推量がつかねば、そうは言えぬ。枚方周辺、古代史ねえ。そのままに謎はなぞとして置いておけ明日をも知れぬいのちが故に。
とにかくいらっしゃいませ。
投稿: 土曜日の各駅停車 | 2006年8月26日 (土) 午前 04時40分
どこから来なにゆえここにあるのかを知りたし明日の知れぬが故に。
投稿: なむ | 2006年8月27日 (日) 午前 12時00分
留守と言へ
ここには誰も居らぬと言へ
5億年経つたら帰ってくる
高橋新吉
※うろ覚えの詩句でもネットは見つけてくれるわいなあ。
投稿: 土曜日の各駅停車 | 2006年8月27日 (日) 午前 05時08分