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2006年9月23日 (土)

中城ふみ子

実は(何を隠そう)躁鬱であった(ある?)。酷かったのは三十台。一年後輩営業マンが気にしてくれて飲みに誘ってくれたのに、一言も喋らずに(多分)飲んでいたことがある。朝Photo_196 刊シンドロームもあったなあ。
同期の知り合いにも躁鬱ちゃんがいたのだけれど、彼と俺に共通点があった。自負心が強すぎるのである(おのれを恃む心←恃むというこの字が好きだ)。自負心が強すぎるとなにかのきっかけで転んだときに一転、ああ俺はダメだなあと心が塞がってしまうのである。
これを別の側面から見ると「ふたりごころ(心と情)」のうち心のバランスが強大に過ぎてこころを支配してしまう状況といえる。外に向かうこころ(情)が内に向かうこころ(心)に制圧されてしまい、欝に陥るのである。(ちなみに、チェーホフ「可愛い女」は情が濃く、心が希薄な女ともいえるのではないか)

欝なんてこころのかぜにすぎないのに、当人にとっては大事態なんだよね。「林住期」に到達した俺にはもう過去(?)のことだけれど。

さてスーパースター中城ふみ子登場。その鮮烈で短い生涯は冬の花火として虚構化された(読んだけど、鮮烈!という概念しか記憶に残っていないのは俺の記憶力の問題)。

 冬の皺よせゐる海よ今少し生きて己れの無惨を見むか

初句2句「冬の皺よせゐる海よ」で切れて、3句「今少し・生きて」が句割れとも読め、4句「生きて・己の」に跨り、結句「無惨を見むか」に雪崩れ込む。
冬の海を「冬の皺」と見た眼及び詩句倉庫が秀逸。そして「皺」と「無惨」が響き合って生き急いだ女の不幸を奏でる。「よせくる」ではなく「よせゐる」、また、「おのれ」を「己れ」と表記したのも技術である。
一読、心を打つ迫力の歌である。「冷たく広がる海」と「凍結した地面」の現場に行かれてこの歌に想いを寄せているブログもある。

だがしかし、かつての俺はこの歌に一握の希望を読んだ。欝のときの俺にとって「己れの無惨」と言われると心地よいところもある。頑張れ、おまえなら出来ると激励されるより、アカンタレ、おまえなんか死んでしまえと罵詈された方が心が安らぐのである。

そうか、俺は欝になってもどこまでもナルちゃんなのだ。無惨で不幸な我をナルちゃんは愛したいのだ。

Yahoo!ブログ - 黄昏流星群的休憩処【浮雲堂】を是非クリックされよ。迫力の書と写真なり。

※写真は有鄰 No.460 P4 座談会―没後10年― 遠藤周作と“宇宙” (3)より遠藤周作と北杜夫のツーショットを勝手拝借/感謝です。

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