築地正子
俺にしては珍しくじっくり丁寧に読書している。野矢茂樹「論理哲学論考」を読む。
実は、以前にも読んでいるのだが、ツチヤ教授がウィトゲンシュタイン開眼させてくれたので、根性を入れて再読に取り組んだものである。読書吸収内容については後日別論とするが、以下ちょびっとだけエッセンス。
論理哲学論考は思考の限界を明らかにするために著述された。だから、語りえぬものについては、沈黙せねばならない。
世界は成立していることがらの総体である。そして我々は世界から箱庭=論理空間(可能性として成立しうることの総体)を抽象する。この抽象は言語によって開かれる。すなわち、言語がなければ可能性は開けない。かくして思考の限界と言語の限界は一致する。
従って、私の言語の限界が私の世界の限界を意味する。そして、私の言語の限界は私の存在論的経験と言語によって構成される。すなわち、世界と生とはひとつである。
何を言っているかというと、俺は俺の経験と俺たちの言語によって実在世界に関する俺の脳内モデル(論理空間)を形成し、脳内モデルと実在世界とを照合することにより実在世界を理解しつつ、脳内モデルを調整修正している。それが生である。ということだ。この構造を論理の性質を解きほぐしながら、厳密に記述しようとするのが論理哲学論考なのである(ああ、こんな言い方しかデキナイのか。これでは素人衆はワカランではないか)。
要するに、生きるということは経験→論理空間形成過程であるから世界と生とはひとつという言い換えが可能となるのである。
アカン、寝言はこのぐらいにしよう。今日の歌人は築地正子(ついじまさこ)。心の花会員。マイナーだけれど滋味豊かな歌の歌人だと俺の論理空間に今回位置づけができた。
桃いくつ心に抱きて生き死にの外なる橋をわたりゆくなり
初句「桃いくつ」は「桃をいくつか」の五音短縮形。これを「心に抱きて」と受けて3句4句の句跨り中核詩句「生き死にの外なる橋を」と継なぎ、結句は「わたりゆくなり」とさらっと終える。「桃」は「生き死に」と響き合い具体的かつちょっぴりエロティックな生のイメージを形成する。
さて、世界と生とはひとつなのに、「生き死にの外なる橋」なるものが存在できようか。これではまるで、春の夜の夢の浮橋とだえして嶺にわかるゝよこ雲のそらではないか。
そうなのだ。世界と生とはひとつは哲学。「生き死にの外なる橋」は文学。哲学はあくまで実在についてのみ語り、文学は絵空事を語るのである(だから価値観・人生観・世界観について語る形而上学は文学なり)。でも実在だけでは人生悲しい。人生には御伽噺が必要なのだ。人は今夜も「生き死にの外なる橋」を渡って夢を見るのである。噛み締めれば味の出るいい歌である。
※「夢の浮橋」でイメージ検索したYume no Ukihashiから画像を勝手拝借/感謝です。
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コメント
リンクを有難うございました。浮舟の夢はつながらない。薫の夢もとだえてしまう。ただ出離の道だけが浮舟に残される。その宙吊りにされた思いのままに横雲が山に裂かれてただよっている。定家の夢想もその先には行くことができない。
わたしの「夢の浮橋」はまた別の形で完成させます。
京極無明
投稿: 京極無明 | 2006年10月 1日 (日) 午前 01時01分
素敵なご挨拶を頂き、ありがとうございます。生き死にの外なる橋を渡っていつか源氏にたどりつければいいのですが、古典はまだまだ私には縁遠いです。しかしながら歌舞伎を近頃覗いたりしていますので、あと六百年ぐらいで到達するのではないでしょうか。今後ともどうかよろしくお願い申し上げます。
投稿: 土曜日の各駅停車 | 2006年10月 1日 (日) 午前 05時37分