浜田到
一人一首のマクラを書こうとして未だテーマが定まらず、まずは「青春」でネット検索してみる。成果なし。では、「朱夏」ならどうだ。これも成果なし。
そうそう、なんか「林住期」なんてのもあったなあ。これならどうだ→で、見つかったのが「四十にして惑わず? 林住期に突入」。ふーん、なかなかのこと書いてるやんかあ、と筆者を見ると三宅善信。ん?レスラーだっけ?と思いつつ検索すると、ブログ日暮れて途遠し:宗教家三宅善信氏の存在に出会う。ブログ主宰の方の自己紹介には「日々憂国の思い」とある。これ以上深入りするとマクラにならぬ、今日はここまでにしておこう。
で、三宅善信氏を参考に林住期について。これは古代インドの思想から来ている。すなわち、人生は「学生(がくしょう)期」・「家住(かじゅう)期」・出家して精神的な修行生活に入る「林住(りんじゅう)期」。そして最後に、それら一切を越えた境地である「遊行(ゆぎょう)期」という四期に分別できる。ちょうど、青春・朱夏・白秋・玄冬に対応する。
これを我が身に引きつけて理解すると、俺はいま林住期。ふふ、閉門蟄居して日経平均先物で精神的な修行生活に入っているのだ。これを卒業すると遊行期である。はは、いったい一切を越えた境地っていったいどんな境地やろか、と一人悦に入った次第である。
さて、今日の歌人は浜田到。1951年「短歌研究」モダニズム特集で塚本邦雄らと共に登場、とネタ本「現代の短歌」に紹介がある歌人だ。
火の匂ひ、怒りと擦れあふ束の間の冬ふかくして少年期果つ
初句の後に読点があるからここで切れ、という指示だろう。そして、2句3句「怒りと擦れあふ束の間の」が「冬」を形容する鋭角的な暗喩(大江健三郎「セブンティーン」を想起した)をなし、冬の深い谷を乗り越えて結句「少年期果つ」に到る。
そうなのだ、少年期は終わるのではない、果てるのである。果てねばならない。果てた後に眼を開ければ新しい世界がある。そんな想いの夜と昼を幾度繰り返したことだろう。あの頃俺は火のように熱く、世界の全てに対して怒っていた。怒りをこめてふりかえれ。
最後に、「四十にして惑わず? 林住期に突入」から論語の一節をコピペ。
子曰、吾十有五而志乎學、三十而立、四十而不惑、五十而知天命、六十而耳順、七十而従心所欲、不踰矩。
肌寒き雨の日曜こもりゐて「春の祭典」聴きつつ眠る
※画像は新国立劇場から勝手拝借/感謝です。
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