河野愛子
外泊で貯まったビデオの鑑賞がまだ追いつかない。
眼は口ほどにものを言う指揮者ムラヴィンスキーのドキュメント、炎のコバケン(小林研一郎)指揮する幻想交響曲、お、前川清が「黄昏のビギン」唄ったやんかあ→これで俺のこの歌のライブラリーは美樹克彦・ちあきなおみ・新沼謙治・八代亜紀に前川清が加わった なあ。そして淫水ではなかった陽水コンサート。寄る年波に抵抗して声を張り上げて叫ぶ卑猥なる朔太郎詩人陽水。
こんな風に消費的人生でいいんだろうかとちょっぴり不安に思うけれど、いつ再生するか不明の永久保存DVDがまた増えて行く。
いや、消費的人生でいいんだ、どうせおいらの行く先は脳梗塞ないし認知症の日々それでも俺には音楽がある。音楽消費人生末路かな。
さて、今日は河野愛子。「未来」の設立時からの同人。「鋭いメタフィジカルな作風」と現代の短歌に紹介されている。
一夜きみの髪もて砂の上を引摺りゆくわれはやぶれたる水仙として
初句「一夜きみの」字余りで始めて、2句「髪もて砂の」、3句字余り「上を引摺りゆく」まで、句跨り・句割れがちょうど音楽で言えば弱起のような効果を上げてまさに引き摺られるようなリズム(声調)を形成する。これを下の句「われはやぶれたる水仙として」定型77で受けて納まりをつける。
髪を持って引き摺られたら痛いなあ(ちなみに相撲では反則。今場所千代大海・朝青龍のけんか相撲で反則ではないかと物言いがついたが行司軍配通りで朝青龍負け)。そして引き摺るわれは「やぶれたる水仙」という喩が卓抜である。
いったいこの歌は何を詠おうとしたのだろうか(壮絶な「心象風景」とするブログあり)。きみに対する復讐?きみへの執着?
「やぶれたる水仙」なのだから復讐ではないだろう。まだ執着が残っているような気がする。いや更には、この歌は後悔の歌ではないのか。せめて一夜でいいから髪を引き摺るくらいの愛をきみに私は傾けるべきだったのに、と作者は悔恨しているように思う。
過去は過ぎ去らず時間は流れない。過去は言語的制作物として現在にあるのである。
ところで陽水(コンサートの最後、涙ぐんでいた)スーパーライブの最後の歌は2006年作品「あなたにお金」。団塊大定年時代なんだってえ。
あなたにお金、金をあげたら帰ろう
メロンを抱いて 星を見ながら帰ろう
まだまだバスは はるか遠くで揺れて
まつ毛の先を 濡らし始めたばかり
目の中に星屑を 散りばめ
星空に夏の空 重ねて (1コーラス終了。以下残念省略)
※画像は[KW]井上陽水コンサート2006から勝手拝借/感謝です。←ドラム、私もよかったです。
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