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2006年9月10日 (日)

岡部桂一郎

俺はかねてから、人は三つの世界(世間、社会、魂)を生きている、と考えている。
これを今の俺に照らし合わせると以下のようになる。

世間→閉門蟄居中なので電車にも乗らず、付き合う人も町内の淡い付き合いのみ。そういえば今日は町内の草抜き。業後、世間話をしながらちょびっと飲む。
社会→新聞テレビで接するのみ。テレビもビデオで見てるのが殆どで、しかもその半分以上は音楽と映画。だから日経とテレ東とNHKのみが社会に開いた窓ということになる(サミシーイ)。これを基に日経225先物で勝負しているのが社会ということになる。
おっと忘れていた、ネット。株とブログが俺の社会的活動なのだ。
→いわずとしれた音楽。そして読書(ようやく感じかけたウィトゲンシュタインに持続的に挑む所存)。おお、ブログをウィトゲンシュタイン検索したら結構出てきた。まずは、標(しるべ)の道 - 市井の民に挨拶してみよう。Photo_166

さて、今日の歌人は岡部桂一郎。「戦後は所属結社などは無い一匹狼」の歌人だ。

 ひとり行く北品川の狭き路地ほうせんか咲き世の中の事

一応、3句で切れているのだろう。上の句「ひとり行く北品川の狭き路地」と下の句「ほうせんか咲き世の中の事」とが拮抗しつつ、滋味を醸し出している。草花に不案内なのだけれども、「ほうせんか」という文字面に哀歓を感じ、その哀歓が「世の中の事」と読者に向けて投げ出されているように思う。
いったい何をしにひとり「北品川の狭き路地」に行ったのだろう。北品川って京浜急行の駅があるんだな。JRの北は御殿山。それと対照的に「狭き路地」があるんだろう。路地にほうせんかが咲いているのが世間である。借金の取立てに行ったのだ、なんて空想すると面白い。まことに世間とは、金銭と愛憎の世界なり。

今日のBGMはグレン・グールド。グールドとウィトゲンシュタインって同一人物ではなかったか。

※写真は季節の花 300から規約に従って転載/感謝です。

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「短歌」カテゴリの記事

コメント

■土曜日の各駅停車さま。
お早うございます。
古い記事を、よく訪ねて下さいました。
私のBLOGはGoogleやYahooの検索サイトに
よく載りますので、これをご覧いただいて「訪問」
される方が多いようです。
有難うございました。
では、またお遊びにおいで下さい。

投稿: sohya | 2006年9月10日 (日) 午前 08時46分

生没年が異なるのでたぶん別人だと思いますが、ウィトゲンシュタイン家も音楽や音楽家と浅からぬ縁があったようですね。ぼくはグールドの言葉で、演奏はコンペではなく恋愛だ、というのが好きです。

投稿: 鏡像 | 2006年9月10日 (日) 午後 06時29分

土曜日の各駅停車さま、拙ブログ゙への訪問、ありがとうございます。
「市井の民」は、犬儒学派のディオゲネスとプラトン『ソクラテスの弁明』にてソクラテスが出会ったという石工を念頭において、使用しています。
「あるがままが哲学である」は、ウィトゲンシュタイン『哲学探究』に書かれている一説「哲学はすべてをあるがままにしておく」を基に、野矢茂樹『哲学の謎』の序文(「哲学とは不可視なものを可視化するところからはじまる」といったことが書かれています。記憶は曖昧なのですが……)と大森荘蔵の「哲学するにはよく見ること」(中島義道『哲学の道場』)を参照して考えた、私の哲学観です。

余計なお世話になるかもしれませんが、ウィトゲンシュタイン(とその思想)について知りたいのならば、私のブログはほとんどと言ってよいほど、役に立たないものであることを、はじめにお断りしておかなければなりません。私は、私が感じたままのウィトゲンシュタイン(とニーチェ)と哲学することで、ブログの内容を書いているに過ぎないからです。つまり(ウィトゲンシュタインやニーチェの)研究ではなく(私の)探究です。
ものごとをはっきりさせたい、という性分を終生まで変更しな

投稿: ラーフラ | 2006年9月11日 (月) 午前 02時43分

土曜日の各駅停車さま、拙ブログ゙への訪問、ありがとうございます。
「市井の民」は、犬儒学派のディオゲネスとプラトン『ソクラテスの弁明』にてソクラテスが出会ったという石工を念頭において、使用しています。
「あるがままが哲学である」は、ウィトゲンシュタイン『哲学探究』に書かれている一説「哲学はすべてをあるがままにしておく」を基に、野矢茂樹『哲学の謎』の序文(「哲学とは不可視なものを可視化するところからはじまる」といったことが書かれています。記憶は曖昧なのですが……)と大森荘蔵の「哲学するにはよく見ること」(中島義道『哲学の道場』)を参照して考えた、私の哲学観です。

余計なお世話になるかもしれませんが、ウィトゲンシュタイン(とその思想)について知りたいのならば、私のブログはほとんどと言ってよいほど、役に立たないものであることを、はじめにお断りしておかなければなりません。私は、私が感じたままのウィトゲンシュタイン(とニーチェ)と哲学することで、ブログの内容を書いているに過ぎないからです。つまり(ウィトゲンシュタインやニーチェの)研究ではなく(私の)探究です。
ものごとをはっきりさせたい、という性分を終生まで変更しなかった(できなかった)ウィトゲンシュタインにならい(敬意をはらい)、以上の弁明をしました。もしそれでも一向に構わない、というのであるならば、私にとってはこれ以上ない、望外の喜びです。

投稿: ラーフラ | 2006年9月11日 (月) 午前 02時49分

ラーフラ様

懇切なご挨拶とご助言に感謝です。なにせ、形而上学と哲学の違いを最近ようやく意識しだした一知半解ですので、「あるがままの哲学」に、なるほどこれが形而上学との違いだわいと納得したような次第です。今後ともどうかよろしくお願いいたします。

投稿: 土曜日の各駅停車 | 2006年9月11日 (月) 午前 05時43分

鏡像さん、ご指摘ありがとうございます。実は脳内梗塞が進んでおりまして音楽も哲学もなにがなんだかわからぬぐちゃぐちゃになっております。しかし、グールドにもウィトにも一種共通の香気があるのではないかと感じております。色気山っ気は香気には決して到達しないでしょうなあ。

投稿: 土曜日の各駅停車 | 2006年9月11日 (月) 午前 05時47分

sohya様
ご挨拶を頂戴し感謝です。
詩歌については見よう見真似でございます。これからも訪問させて頂いて勉強の所存ですのでこちらこそよろしくお願いします。

投稿: 土曜日の各駅停車 | 2006年9月11日 (月) 午前 05時49分

こんにちわ。土曜日の各駅停車様。
<大正のマッチのラベルかなしいぞ球に乗る象日の丸をもつ>
という短歌が、なぜだか、印象に残っています。
そういうラベルがあったような、なかったような、あいまいで
不思議な感覚を覚えてしまいます。
ちょっと、めまいが、おこるような感覚の短歌だと思います。

投稿: ゆふ | 2006年9月12日 (火) 午後 03時37分

あ、この歌、知りませんでした(現代の短歌に載っていない)。「めまいが、おこるような感覚」ですか、なるほど。では、岡部さんのこんな歌はいかが。

砂の上に濡れしひとでが乾きゆく仏陀もいまだ生れざりし世よ

投稿: 土曜日の各駅停車 | 2006年9月13日 (水) 午前 05時02分

おはようございます。砂の上に・・・も、ぞくぞくするような
歌ですねえ。
私は一点鐘という歌集を持っていますが、この完成度には、驚きを隠せません。はは~~と印籠を見せられたように、ひれ伏してしまいそうです。
短歌はその人の好き好きが、あるのかもしれませんが、私は、すごく、好きな歌集です。何回、読んでも、すごいなあと思います。たしか、山崎方代さんと、親交があったというような記事を、読んだ記憶がありましたが、影響をうけあっているんでしょうか?もし、間違っていたら、すみません。(ペコリ)

投稿: ゆふ | 2006年9月13日 (水) 午前 05時50分

ほーう、方代vs桂一郎ですか。どちらも独立独歩ですからあり得る話ですね。一緒に酒飲んでクダ巻いていたんではないですか。>もし、間違っていたら、すみません。(ペコリ)

投稿: 土曜日の各駅停車 | 2006年9月13日 (水) 午前 07時43分

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