高安国世
人生の黄金期は、と聞かれたら(若干の躊躇いの後に)思春期と答えるだろう。人生とは?とか、理想とは?とか、真実とは?とかについて思い悩みつつ、友人たちと遊び議論した黄金の時代であった(具体的なことは全て忘れたけれど)と記憶している。若干の躊躇は性欲、天も貫く我が性欲を如何にせむと苦しんだことがあるからだ。
あれから四十余年、時の経過は夢のようでもあるし、一日一日を生きてきたのだから夢とは言えないなあと、馬齢を重ねたことを忸怩と思うこともある。
そういえば、一昨日のカンブリア宮殿に朝青龍登場。目標なくして人生なし。大きな目標と同時に、目の前の小さな目標を着実に達成することが重要と言っていたなあ。小池栄子(ちょっといい女)が同い年として尊敬できる人と言っていたけれど、三十歳以上の年長者はなんて表現すればいいんだァ。目標も理想も持たず生き生きて還暦間近スイングを聴く →オスカー・ピーターソン大好き。
さて、今日は高安国世。大阪は道修町のお医者さんの三男でドイツ文学者・京都大学教授である。
かきくらし雪ふりしきり降りしづみ我は真実を生きたかりけり
初句、2句、3句と畳み込むような声調の後に切れて下の句「我は真実を生きたかりけり」が直截に詠嘆する。「真実」は「まこと」と読めばぴったり7音に納まるが、「しんじつ」と読ませて字余りにしてもいい感覚がある。
戻って初句「かきくらし」の「かき」は「掻き抱く」の「掻き」で「動詞に付けて、語勢を強める」と短歌用語辞典にあった。
掻き暮らしつつ居れば、雪は降りしきり降り沈む。そんな夜につくづく真実を生きたいと思う、と(具体的な状況はわからねど)読者の共感を誘う詠嘆の歌である。
作者が主宰した塔短歌会の発足のことば(1954)には「広く豊かな心を養って、僕たちはこの困難な時期に、生活に光と力をあらしめたい。また僕たちの短歌が、常に真実を見ぬく力と、虚飾ない美の感覚を喚起することを疑わない。」とある。日本がまだ貧しく「平和と民主主義」という言葉が光を放っていた時代である。
あの頃、俺は真実を生きたかった。その後馬齢を重ねて、真実は<今ここ>にあると強弁するだろうなあ、多分。
生き急ぐ歳にはあらず通勤の各駅停車哲学史読む
※画像はつきねの落書きですから勝手拝借/感謝です。
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