塚本邦雄
実は(何を隠そう)功名が辻を毎週欠かさず見ている。今週は関白切腹。関白秀次の自死と、千代・一豊夫妻と(捨て子)拾との別れを対照的に描いている。山内家の行く末に関わる辛い決断の時→拾に一豊が出家を命じる場面で恥ずかしながらちょっぴり落涙してしまった。これまでの中で一番出来がいい回だった。
ところで、札束番組=国営放送大河ドラマを毎年見ている訳ではない。武蔵は今の海老蔵の目を剥く演技が面白くて見ていたけど途中で飽きてしまった。新撰組は権力側テロリストの話というだけで最初から敬遠。
これまでの大河ドラマで出色はなんといっても花神。村田蔵六 という人物像に興味があり(晩酌はいつも湯豆腐)それを演ずる中村梅之助の飄々たる演技が印象に残っている。
ということで、俺なりに番組内容(原作、配役、演技)を評価しているのではある。
さて今日は前衛短歌の巨星塚本邦雄。塚本の作品には「われ」が出てこない。この「私」の排除は私をして短歌に対する意識を一変させた。とするブログ(革命家ではなくて革命歌ですよ。差し出がましくてごめんなさい)もある。なるほど俺の、短歌は徹底的に私歌であるべきという主張(というほどのものではないけれど)を考え直す必要もあるやもしれぬ。
馬を洗はば馬のたましひ冱ゆるまで人戀はば人あやむるこころ
字余り初句で起こして、馬と人の対比を軸に下の句「人戀はば人」「あやむるこころ」に落とし込んでいる。馬に魂あるのならば冱えるまで洗ってやれ、人に恋するのなら殺めるまで恋せよと歌う(詠う?)のである。解りそうで判らないけれど確かに、殺めるという烈しさゆえに、脳裏から離れない歌である。
いったい、作品において、分かりやすさ(通俗性と言い換えていいだろう)はどのような意味を持つのだろうか。例えば、司馬遼太郎の小説は(極く割り切れば)通俗的の部類に属する。しかし通俗的だからといって国民文学としての司馬作品の値打ちが落ちる訳ではないと俺は考える。だから(議論はあるだろうが)通俗性は作品の水位を決定する要素ではない。
他方、塚本邦雄短歌は分かりにくい。分かりにくいけれど人の魂に突き刺さる。そのような作品に仕立て上げるところに読者は作者の見識と技量を感じ取る。だから分かりやすさは人気を博するための必須要素ではない。
結局、問題は言語の持つ二面性(同化と異化)に帰結するように思う。言語は、人々が解り合うための手段(同化)であり同時に、人々の論理空間を変容させる契機(異化)でもあるからである。人は作品に同化したく思い、他方、異化→存在論的経験を得たいとも欲望するからである。
かくして、短歌は私歌(同化)であり滅私歌(異化)でもある。こころは、情であり心でもあるからである。
※写真は活写劇場 - 靖国神社の大村益次郎像から勝手拝借/感謝です。
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