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2006年10月28日 (土)

知識の哲学を読む(3)

「知識の哲学」を読む(2)の続き。懐疑論への応戦「信念の正当化」デカルトの試みは残念ながら成功しなかった。デカルトの「木」;根(形而上学)-幹(自然学)-枝(機械学・医学・道徳)参照。
そこで、ラディカルな外在主義者たる著者は「知識の哲学をつくり直す」という課題に着手する。Photo_270

第3部 知識の哲学をつくり直す
第8章 認識論の自然化に至る道

ああ、やっぱりクワイン登場→「つくり直す」手がかりは認識論の自然化である。そして、クワインと来たらその前史たる論理実証主義カルナップである。

まず、「二十世紀はじめに数学は論理学と集合論に還元され」これが「基礎づけ」の模範例にされたと著者は言う。
ここで、俺の最近の勉強の成果を披露すると、数学を論理学で基礎づけようとしたのがフレーゲ、ところがラッセルのパラドクスが炸裂して論理学だけでは無理だということが判明して、論理学+集合論による還元となったのである。フレーゲのGrundgesetze der Arithmetik(「算術の基本法則」)は自然数論および実数論を論理から導こうとする企てであった。しかし、ラッセルが『算術の基本法則』の公理系が矛盾を引き起こすこと(いわゆるラッセルの逆理を発見して指摘し、+集合論による還元とならざるを得なかった。+集合論による還元というのがわかりにくいが、乗法公理(またはそれと同値な選択公理)、還元公理、そして無限公理の導入のことだ(と思う)。

そして、数学で基礎づけが可能ならば他の分野でも論理学と集合論への還元による基礎づけが可能だと主張したのが、マッハ流の還元主義的現象論に従って、中立の直接的経験から知識体系を構築しようと試みたカルナップであった。
要するに、デカルトの内在的基礎づけは不可能だったが、フレーゲ(反心理主義=観念から意味への転換、文脈原理→「文脈的定義(再帰的定義に近い意味かなあ?と俺は思う)を用いて理論語を含む文全体をセンスデータ語を含む文に置き換えればよい」)とウィトゲンシュタイン論理哲学論考)と集合論(「物体をたんに印象ではなく、印象から集合論的に構成される何らかの対象と同一視すれば、ヒュームの困難を乗りこえられる」と論理実証主義者は考えたと著者は言うが、具体的にどんなことか俺にはわからず)を援用しての再チャレンジであると俺は思う(どこかの国の宰相が言うところの再チャレンジとは違います)。

しかし、カルナップはクワインによって粉砕される。著者は、クワインの粉砕について様々に説明しているが若干判りにくいところ(概念的側面、学説的側面って何?)もあり。従ってここでは、経験によって検証されるのは、独立の言明でなく、体系全体である(ホーリズム)。このことはまず科学と非科学の境界を霧散させ、更には分析命題/綜合命題の区別も解消と押さえておこう。ホーリズムについてもう少し詳しくは、「理論を経験的部分と理論的部分に分けて、或る言明を他の言明から独立させて、対応するとされる経験の反証や確証に付すことはできない」参照。
※この章(言うならばカルナップ×クワイン)、長くなった。いつか、クワイン「論理的観点から」言語哲学大全2を読みます、キッパリ。

第9章 認識論を自然化することの意義と問題点
そこで、クワイン提唱の「認識論の自然化」をどう具体化するかが問題となる。
まず、「自然化された認識論はいったい、何についての主張なのか」。これを著者は、コーンプリスを援用して、
1.われわれはいかにして信念に達するべきか(規範の問題)
2.われわれはどのようにして信念に達しているか(事実の問題)
3.われわれが信念に達するプロセスは、達するべきプロセスと一致しているか
に分類する。
伝統的には 1 は哲学者の仕事(いわゆる第一哲学=現象を超越し、またはその背後にある真の本質、存在の根本原理、絶対的存在を純粋思惟によりまたは直観によって探求しようとする学問)で、2 は心理学者(ないし脳科学者と俺は思う)の仕事。
しかし、 1 は 2 と独立ではあり得ないというテーゼが「自然化された認識論」(∵分析的命題と総合的命題は判然区別不可能)。 だから、規範(哲学)と事実(科学)は、上位の目的さえ特定されたら「世界についての事実的な知識に基づいて白黒つけられる工学的な問い」になる(科学、いや我々の普段の仕事においても、いかに事実に到達するかという問題は、到達方法はいかにあるべきかという問題と切り離せないことを想起せよ)。
ここでクワインは、上位目的は真なる知識の獲得であり、我々にそれが可能であるのは進化論が示す歴史的証明(自然淘汰)により明らかとした。しかし、著者は「真理もそれじたいでは認識論上の価値をもたない」として、認識の目標は多様であり、そうした多様な目標にどれだけ役立っているかを評価軸とするプラグマティックな認識論(スティッチ)を持ち出す。
第10章 認識論にさよなら?
さなよらするのは、概念分析を方法論とする伝統的分析的認識論。
なぜなら、概念分析は「自分たちのやり方を自分たちの基準で概念分析するにすぎない」から「われわれはどのような認知プロセスを用いるべきかという規範的認識論が突きつけてくる問題」に答えられないからだ。
デカルト(方法的懐疑)が、この問題を神の存在証明で切り抜けようとしたことを想起すれば問題の難しさがわかる。クワインの進化論的証明もヤワである。そして、スティッチも解釈関数なんちゃらとムツカシイ議論を経て結局はプラグマティックな解決にすがるようである(と俺は思う)。脳の情報処理は文という単位で行われていないから、そもそも真理という概念が重要でない(チャーチランド)という議論さえもがある。

第11章 知識はどこにあるのか?知識の社会性
認識論の自然化という方向があるのならば、当然、認識論の社会化もある。俺は社会化の方が自然化に先立つべきであるように思う。個人→社会→自然というベクトルが自然であるからだ。
著者の言う「認識論の個人主義的バイアス」は、知識の実現についての個人主義(知識はひとりひとりの個人の心に宿る心的状態=信念の一種として実現される)と正当化についての個人主義(それが知識であるための正当化も各個人が 所有していなければならない)とから構成される。
しかし、これは当時の情勢(教会等の伝統的権力に対する個人の悲劇的闘い→ガリレオ、モーツァルトを想え)によるものであるし、実際のところ現在の科学は科学者の分業的営みである。
だから、「そもそも認識論は心の中の話なのか?」という話しにならざるを得ないのだ。例えば我々が地動説を信じているのは学校で習ったからであり、心の中に、天動説から地動説への転換というセンスデータを得たからではない。   

終章    認識論をつくり直す
ということで、著者の結論は
1.自然化された認識論
2.どのように知識を 獲得すべきかという問題を問う。←これが最大の難問!
3.新しい認識論の研究手法としてのコンピュータ
4.社会化された認識論
5.新しい認識論は「信念」を中心概念にしない
信念は、知識の実現の仕方の一つ。データベースや図書館も 知識の倉庫の一つ。「情報」が信念に代わるキーワードになるだろう。 ←情報科学という自然科学!
6.新しい認識論は「真理」を中心概念としなくなる(かもしれない)
となる。さて、認識論はいついかにしてつくり直されるだろうか。
所感:
・知識の古典的定義を理解しました。
・デカルトの困難と偉大を認識しました。偉大さは、客観と主観のインターフェースとして観念を据えたことである。
・カルナップ×クワインの理解が進みました。
そして最大の収穫は、観念(イデア)が形而上学の中核であることを認識したことである。だから、フレーゲは観念から意味へと言語論的展開の舵を切ったし、ウィトゲンシュタインは形而上学を哲学と分離して論理哲学論考を著したのだと理解できたことでありました。

参考までに、戸田山氏の主張は以下のような穏健な基礎付け主義・非個人主義的内在主義・非自然主義の立場(って、私の立場なんですが)の成立可能性を十分に考慮していないとする伊勢田哲治氏のコメントをリンクしておきます。

※写真はクワイン@京都賞から勝手拝借/感謝です。ちなみに京都賞でのワークショップの模様についてリンクしておきます。

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コメント

クワイン教授の写真がすてき。本は一冊読もうとして門前払いを喰った(むずかしすぎて)。せめて土曜日さんのレポートに書かれていることは理解できるようにしたい。

投稿: 鏡像 | 2006年10月29日 (日) 午前 01時32分

作者と読者の相性の問題ですかね。永井均「ウィトゲンシュタイン入門」、大庭健「私はどうして私なのか」を最近、読もうとしましたがついていけず途中放棄してしまいました。その点、丹治信春「クワイン」は読みやすかったです。

投稿: 土曜日の各駅停車 | 2006年10月30日 (月) 午前 04時53分

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