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2006年10月

2006年10月31日 (火)

ウェブ進化論のキーワード(メモ)

ウェブ進化論読了したのでキーワードをメモっておく。Photo_9

第一は「ネットのあちら側」→サーバーに全ての情報を置けば知の共有が図れるということだ。ソーシャルブックマークがその一例というのは言われてみればなるほどだった。

第二は「不特定絶対多数無限大への信頼」→すなわち、人間の(集団ではなく)不特定多数は長期的には正しい方向に向かうという信頼だ。ウィキペディアがその一例である。
「不特定絶対多数への信頼というのは、自分よりも優れた人がたくさんいることを認めることであり、そういうひとたちのためにも自分が何かの役にたてるかもしれないということでもある」ということを核にした信頼ということだろう。反表象主義@ローティにも通じるところがある。
しかし、楽観論一点張りは危険だ。人間の悪質の部分にテクノロジー結びついたとき、どういう悲劇が生まれるか、すでに証明されているのではないだろうか。との留保意見もある。特に個が不安定なこの国では危険性が高いと思う。

そして(実は言いたかったのはこれ)我がモデル論的転回に、「ネットのあちら側」と「不特定絶対多数無限大への信頼」とをマージして考えてみたいという(例によっての)我田引水であった。とりあえず、概念図に付加して置くにとどめる。

     客観(間主観)  ⇔ モデル   ⇔ 実在  
      正当化された信念  情報
          ↑         ↓
           ←←←←概念モデル ←  経験
     <価値世界> <概念世界>  <事実世界>
         ネットのあちら側      ネットのこちら側
     不特定多数無限大への信頼?

※それはともかく、コメントスパムなんとかしてくれえ、ココログさんよ。画像は北京公交——周口店猿人遗址から勝手拝借/感謝です。

Photo_14

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反表象主義を理解してしもうた

このところお気に入りになりつつある冨田恭彦の「科学哲学者柏木達彦の春麗らを読Photo_275む。読んだらアマゾンのカスタマーレビューを見る。現代英米系分析哲学の「はとバスツアー」。発車オーライ!, とレビューあり。ははっ(笑)となる。
しかし、これだけで済ましてはならぬ。

ローティの反表象主義。これがこの本で得たキーワードであった。ネット検索したけど端的にぐっと来るものがない。そこで、この本から引用し、外化しておこう。

ローティは、科学が世界を正確に表象しているがゆえに真であるという考えを拒否する。これは、科学に限らず、知識を獲得していると自認するすべての人間の営みについて、そうなんです。で、このような自らの立場を、ローティは、「反表象主義」と呼びます。

人間は、われわれの外なる自然を忠実に捉えるという意味で、科学を客観性志向の営みの典型としばしばみなしてきました。けれども、ローティによれば、科学は、与えられたものにうまく対処する方法を創り出そうという試みなんですね。

なるほど。そうなんだよね。客観性とは実は間主観性のことであり、だから俺はモデル論的転回の提唱において、

     客観(間主観)  ⇔ モデル   ⇔ 実在  
      正当化された信念  情報
          ↑         ↓
           ←←←←概念モデル ←  経験
     <価値世界> <概念世界>  <事実世界>

という三層構造を提案したんだ。この三層構造は、客観性は実在の側ではなく、心(主観)の側にあるものだということを意味していたんだ。つまり、これが西洋主観主義の脱構築なんだ。と、手前味噌をする。我田引水なりけり。

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栗原小巻、サイテー

BS2・寅さん話である。Photo_274
「柴又より愛をこめて」のマドンナは栗原小巻(「ペレストロイカとソ連の芸術」なんて論文も書いているロシア好きなんだ) 。二作目の登場だ。松坂慶子も非道かったけど小巻はそれ以上である。

小巻の亡くなった親友の夫(男手ひとつで娘を育てている)川谷拓三(1995年逝去)から求婚されて小巻は悩む。悩んだ小巻が寅に相談する(この鈍感さは寅マドンナが持たなければいけない論理的必然なのでこの際問題にしない)。問題にしたいのは、小巻の悩み方・内容である。以前もトラバさせて頂いたブログ(凄いな、この台詞収録能力努力は)からコピペする。

真知子 「彼は誠実な人だし、女の子、とても私になついているし、何も問題は無いの。でもね、・・あ、でも・・、もしそうなったとしたら・・・・・・・身を焦がす様な恋の苦しみとか、大声で叫びたい様な喜びとか、胸がちぎれそうな悲しみとか、そんな・・・・・そんな感情は、胸にしまって鍵をしたまま、一生開けることもなくなってしまう・・・、そんな悩み、寅さんなら、どう答えてくれるかと思ってね。」

具体的な求婚に対して、この女性は一般的なことを悩んでいる。相手が誠実で結婚生活もうまく行きそうならば、それでいいではないか。なんで満足できへんねん。
思うに、このオンナは強欲なのだ。幸せな生活だけでは満足しないのだ。恋の歓び苦しみを味わったことがないのに(ないから余計に思うのだろう)封印して暮らすことが厭なのだ。

しかし彼女は数日(映画では描かれていないが、たぶん)悩んだ後に結局、結婚を決める。なんや、それやったらそんなつまらぬ悩みを寅に打ち明けるな、このカンドン。

ということで、俺は小巻が昔から嫌いやった。それだけの話しでありました。

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高嶋健一

久しぶりの「一人一首」である。Photo_273

前回(馬場あき子)で歌謡曲短歌について触れたが、もう少し考えてみた。

歌謡曲短歌とは、詩になっていない通俗的短歌をいう。前回、引用した俺の歌

 リストラの風は冷たしこの宵は二合の酒に酔ひて眠らむ

が、その一例だ。

では、歌謡曲短歌か否かを判定する基準は何か。
音楽の三要素に倣って、短歌の三要素を(以前にも考えたが)考えてみた。
声調・韻律(リズム)、思想・主張(メロディ。以前はこれを措辞としていた)、メタファー(ハーモニー。以前は言葉の響き合いとしていた)が短歌の三要素と考える。

まず、声調・韻律は、声に出して歌を読んだ場合の調子すなわちリズムである。定型を守っていればこれは自然に伴うものだ。上の例で言えば2句切れ(3句切れよりこちらの方が心地よいリズムをつくる。音楽で言えば下の句が弱起の調子になるからだ)で声調よく、ほとんどこれだけで点を稼いでいる。ちなみに、前衛短歌では意識的に句割れ・句跨りを作り出し晦渋なリズムを生み出す技法がとられている。

次に、思想・主張は、歌の内容、つまり、歌が言いたいことである。どんな文章でも意味をなす以上はなんらかの主張がある。短歌も文章である以上、なんらかの主張があるはずだ(無内容を売りにする短歌もあるけれど、それは無内容を主張にしているのだ)。
上の例で言えば、作者のリストラに対する位置取りが不分明ではあるが、リストラについての思想表現はなされている。メロディも聞こえるのである。

そして最後はメタファー(広く、喩。隠喩に加えて直喩も含むと俺は考える)である。これが詩の本質であり、短歌の味噌である。これがなければ歌ではない。作者は思想・主張をより鋭く深く読者の胸に切り込ませるために愉に最大の工夫を払い、読者は、意外で新鮮なメタファーに遭遇すれば言葉と世界について新しい見方を開かれる思いになる。
上の例で言えば「二合の酒」にほんのちょっぴりの愉はうかがえるが、何か新しいものが見えるわけではない。つまり、歌謡曲(酒よ涙よつらい切ない別れよ)と同じく、手垢の付いた言葉ばかりが並んでいるだけなのだ。愉がない歌、それが歌謡曲短歌である。

そこで、白秋の名歌を引く。後朝の別れという主張はありふれているとしても、この歌の何度繰り返して読んでもくみつくせない愉を味わって頂きたい。

 君かへす朝の舗石さくさくと雪よ林檎の香のごとくふれ

さて、今日は高嶋健一。紹介文(たぶん歌人自身の文章だろう)には「具象と抽象のあわいに漂う世界を表現したい」とある。歌人の根本旋律(思想)であり通奏和音(愉)である。

 てのひらのくぼみにかこふ草蛍移さむとしてひかりをこぼす

愉は一方で、読みをかなりの部分で読者に任せる。読者は連想を広げて、あるいは、記憶を遡ったりして自由に歌を鑑賞すればいい。読者は「てのひらのくぼみ」「草蛍」「ひかり」に何を思うか、この歌を読むとき、具象と抽象のあわいに漂う音楽が聞こえては来ないか。詠みと読みとを音楽がつなぐのである。ちなみに、草蛍の歌の歌碑が 清水市の船越堤公園にあるとのことだ

とはいえ、歌を詠むためにはまず伝えたい思想がなければならぬ。

 我が歌の泉は涸れて凡作を転がし遊ぶ夏の夕暮

泉から思想を湧かせることができるのは作者だけ。深く生きよ、歌謡曲歌人よ。

※画像は旅の写真館_フランス編から勝手拝借/感謝です。

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2006年10月30日 (月)

西洋主観主義哲学

この概念は、富田恭彦「対話・心の哲学」から頂戴した。この本に「おまかせのデカルト」とPhoto_272 いう章があり、これがちょうど並行して読んでいた戸田山「知識の哲学」の懐疑論の議論と格好のハーモニーとなったのだった。そこで、この章の「近代主観主義のはじまり」の節から引用する。

確かに、デカルト自身は、物体の存在をしっかり認めているわけですけど、絶対確実なものを認める彼の懐疑の過程からすれば、心の優位は否定できません。まず、心があるというところから、他のすべてを見ていくという方向性ですよね。心は、のちには、「主観」とか「主観性」とか呼ばれることになりますから、このような見方を、「主観主義」と言ったりします。そこで、デカルトは、西洋近代の主観主義の道を開いた、なんて、言われるんです。いわゆる「観念論」も、その一つの帰結と考えられるものなんですけどね。

心があるというところから、他のすべてを見ていくという方向性が主観主義、これに対して実在(自然)の方向から見ていくのが自然主義ということになる。とすれば、フレーゲの言語論的転回は言わば自然主義宣言であり、言語のみならずモデル論的転回として捉えるのが論理的ということになる。

ちなみに、富田恭彦「対話・心の哲学」は生島教授シリーズ三部作の最終作である(残り2作は哲学の最前線―ハーバードより愛をこめて観念論ってなに?)。
デカルトやカント、あるいはフッサールに見られるような徹底的『基礎付け主義』に対し懐疑的な立場に立ち、クワインからデビッドソンを経て『自文化中心主義』のローティに至る系譜に共感的な視点で、近世哲学史を読み直していく対話形式の入門書とのカスタマーレビューあり。
また、芦屋で暮らすちょい不良オヤジの読書日記(スゴイ。今まで見たうちでサイコーのブログ名!)にもレビューあり。

追記:絶対的な知識を手に入れなければ,世の不幸はなくならないという発想によって,基礎づけ主義をとるならば,自分が正しいと思っていることが絶対的な知識であるという思い込みに陥ることがありうる.こうした思い込みは意見を異にする人々を抑圧し,共に生きる基盤を破壊しかねない.というブログ書評に激しく同意するものである。

※写真は楽天市場】脚長ストレッチパンツ(ストレッチセブン)3本セット:暮らしの幸便から勝手拝借/感謝です。

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モデル論的転回の提唱

戸田山哲学(科学論知識論)に触れて、すっかりその虜になった俺は、感化されやすいPhoto_271タチということもあって、以下のようにモデル論的転回を提唱してしまう。

1.モデル論的転回とは
西洋主観主義哲学主観(心)⇔観念⇔客観という観念インターフェースモデルを排して、客観(間主観)⇔モデル⇔実在というモデル転換論モデルを提唱する。

     客観(間主観)  ⇔ モデル   ⇔ 実在  
      正当化された信念  情報
          ↑         ↓
           ←←←←概念モデル ←  経験
     <価値世界> <概念世界>  <事実世界>

という三層構造である。ここに、
情報=言語・記号(音楽・美術を含む)による情報<旧約聖書からブログまで>
概念モデル=「科学理論の意味論的捉え方」における「モデル=理論」(右上図<戸田山「科学哲学の冒険」の素敵なイラスト>参照:この図は実証主義的な歴史観と相対主義的な歴史観をうまく折衷できるのではないかから勝手拝借/感謝)
正当化された信念=客観(間主観)的に真理であると認定された理論・法則・公理系
価値世界・概念世界・事実世界論理哲学論考の論理空間を概念世界に置き換えて俺が捏造した世界の三層構造
である。

2.その意味合いと実益
・デカルト以来の西洋主観主義哲学は、主観の中に観念を据えることにより、自然の数学的記述という果実を得る一方で、主観の形而上学的基礎づけを必要とし(例:神の存在証明)形而上学と「哲学」をごっちやに論じてしまっていた(特にヘーゲル)。これを言語論的転換さらにはモデル論的転回させることによって形而上学・価値観を哲学から追放し、可能な限り価値中立な概念モデルを人々の共通語として提供する。
これにより、西洋主観主義の弊害(価値観の押し付け:マルクス主義、ナチが20世紀に惹起した悲劇を想起せよ)を排除する。

・とはいえ、全く価値中立の理論はあり得ない。従って、価値世界の存在を認めざるを得ず、価値世界・概念世界・事実世界の三層構造とし、理論・法則・公理系を価値世界に位置づける。これは理論を多様なモデルで基礎づけることでもある。例→価値世界(量子力学):概念世界(電子の粒子モデル、波動モデル):事実世界(原子核を取り巻く雲)。

・概念モデルは実在(事実世界)を抽象化(捨象。例えば、我々が暮らしている空間をユークリッド空間と想定する)と理想化(例えば、摩擦係数を無視する)して得られるもの。こうすることによって、実在との対応が二段構えとなり、実在とモデルとの類似性、モデルと理論の整合性に分別して理論の正当性を議論することができるようになり、柔軟な理論構築が可能となる。真理とは、モデルが重要な点で実在と極めて類似していて、かつ、モデルを説明する理論に整合性があることである。

・また、概念世界に情報を明示的に配置することによって、情報が実在と並ぶ我々のモデル・理論構築の際の重要な情報源である事実を反映する。

・かくして、信念の正当化問題及び信念の真理性問題は、理論・モデルを構築する際の価値観・目的に応じた、抽象化・理想化プロセス及び使用情報の信頼性の問題にプラグマティックに還元できることとなる。要するに、普通の人々が普通の暮らしをしている際に発生する世間的社会的事象における正当性・真理性問題と変わりがないのである。逆に言うと、哲学がこうした問題において確立する方法論は暮らしに役立つ方法論であるはずなのだ。万人のための哲学を。

以上、素人の戯言。ぼけ防止のための考える練習であった。

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2006年10月29日 (日)

分析水泳ことはじめ

プールの基本メニューは、水中ウォーク10分、平泳ぎ@ビート板×25m往復×3、サウナ10分、水中ウォーク5分、平泳ぎ@ビート板×25m往復×1、サウナ5分だが、問題は平泳ぎキックの基本がなっていないため25m泳いだだけで、ハアハアゼエゼエになってしまうことだ。
そこで以前からの懸案はネットでスタディ情報を入手することだっだ。ついつい忘れてしまい今朝ようやく発見→Dartfish - Performance Analysis→動画でキック練習方法を教えてくれている。

さて、果たして上達するだろうか。俺の自己分析及び矯正能力が試されている。

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2006年10月28日 (土)

知識の哲学を読む(3)

「知識の哲学」を読む(2)の続き。懐疑論への応戦「信念の正当化」デカルトの試みは残念ながら成功しなかった。デカルトの「木」;根(形而上学)-幹(自然学)-枝(機械学・医学・道徳)参照。
そこで、ラディカルな外在主義者たる著者は「知識の哲学をつくり直す」という課題に着手する。Photo_270

第3部 知識の哲学をつくり直す
第8章 認識論の自然化に至る道

ああ、やっぱりクワイン登場→「つくり直す」手がかりは認識論の自然化である。そして、クワインと来たらその前史たる論理実証主義カルナップである。

まず、「二十世紀はじめに数学は論理学と集合論に還元され」これが「基礎づけ」の模範例にされたと著者は言う。
ここで、俺の最近の勉強の成果を披露すると、数学を論理学で基礎づけようとしたのがフレーゲ、ところがラッセルのパラドクスが炸裂して論理学だけでは無理だということが判明して、論理学+集合論による還元となったのである。フレーゲのGrundgesetze der Arithmetik(「算術の基本法則」)は自然数論および実数論を論理から導こうとする企てであった。しかし、ラッセルが『算術の基本法則』の公理系が矛盾を引き起こすこと(いわゆるラッセルの逆理を発見して指摘し、+集合論による還元とならざるを得なかった。+集合論による還元というのがわかりにくいが、乗法公理(またはそれと同値な選択公理)、還元公理、そして無限公理の導入のことだ(と思う)。

そして、数学で基礎づけが可能ならば他の分野でも論理学と集合論への還元による基礎づけが可能だと主張したのが、マッハ流の還元主義的現象論に従って、中立の直接的経験から知識体系を構築しようと試みたカルナップであった。
要するに、デカルトの内在的基礎づけは不可能だったが、フレーゲ(反心理主義=観念から意味への転換、文脈原理→「文脈的定義(再帰的定義に近い意味かなあ?と俺は思う)を用いて理論語を含む文全体をセンスデータ語を含む文に置き換えればよい」)とウィトゲンシュタイン論理哲学論考)と集合論(「物体をたんに印象ではなく、印象から集合論的に構成される何らかの対象と同一視すれば、ヒュームの困難を乗りこえられる」と論理実証主義者は考えたと著者は言うが、具体的にどんなことか俺にはわからず)を援用しての再チャレンジであると俺は思う(どこかの国の宰相が言うところの再チャレンジとは違います)。

しかし、カルナップはクワインによって粉砕される。著者は、クワインの粉砕について様々に説明しているが若干判りにくいところ(概念的側面、学説的側面って何?)もあり。従ってここでは、経験によって検証されるのは、独立の言明でなく、体系全体である(ホーリズム)。このことはまず科学と非科学の境界を霧散させ、更には分析命題/綜合命題の区別も解消と押さえておこう。ホーリズムについてもう少し詳しくは、「理論を経験的部分と理論的部分に分けて、或る言明を他の言明から独立させて、対応するとされる経験の反証や確証に付すことはできない」参照。
※この章(言うならばカルナップ×クワイン)、長くなった。いつか、クワイン「論理的観点から」言語哲学大全2を読みます、キッパリ。

第9章 認識論を自然化することの意義と問題点
そこで、クワイン提唱の「認識論の自然化」をどう具体化するかが問題となる。
まず、「自然化された認識論はいったい、何についての主張なのか」。これを著者は、コーンプリスを援用して、
1.われわれはいかにして信念に達するべきか(規範の問題)
2.われわれはどのようにして信念に達しているか(事実の問題)
3.われわれが信念に達するプロセスは、達するべきプロセスと一致しているか
に分類する。
伝統的には 1 は哲学者の仕事(いわゆる第一哲学=現象を超越し、またはその背後にある真の本質、存在の根本原理、絶対的存在を純粋思惟によりまたは直観によって探求しようとする学問)で、2 は心理学者(ないし脳科学者と俺は思う)の仕事。
しかし、 1 は 2 と独立ではあり得ないというテーゼが「自然化された認識論」(∵分析的命題と総合的命題は判然区別不可能)。 だから、規範(哲学)と事実(科学)は、上位の目的さえ特定されたら「世界についての事実的な知識に基づいて白黒つけられる工学的な問い」になる(科学、いや我々の普段の仕事においても、いかに事実に到達するかという問題は、到達方法はいかにあるべきかという問題と切り離せないことを想起せよ)。
ここでクワインは、上位目的は真なる知識の獲得であり、我々にそれが可能であるのは進化論が示す歴史的証明(自然淘汰)により明らかとした。しかし、著者は「真理もそれじたいでは認識論上の価値をもたない」として、認識の目標は多様であり、そうした多様な目標にどれだけ役立っているかを評価軸とするプラグマティックな認識論(スティッチ)を持ち出す。
第10章 認識論にさよなら?
さなよらするのは、概念分析を方法論とする伝統的分析的認識論。
なぜなら、概念分析は「自分たちのやり方を自分たちの基準で概念分析するにすぎない」から「われわれはどのような認知プロセスを用いるべきかという規範的認識論が突きつけてくる問題」に答えられないからだ。
デカルト(方法的懐疑)が、この問題を神の存在証明で切り抜けようとしたことを想起すれば問題の難しさがわかる。クワインの進化論的証明もヤワである。そして、スティッチも解釈関数なんちゃらとムツカシイ議論を経て結局はプラグマティックな解決にすがるようである(と俺は思う)。脳の情報処理は文という単位で行われていないから、そもそも真理という概念が重要でない(チャーチランド)という議論さえもがある。

第11章 知識はどこにあるのか?知識の社会性
認識論の自然化という方向があるのならば、当然、認識論の社会化もある。俺は社会化の方が自然化に先立つべきであるように思う。個人→社会→自然というベクトルが自然であるからだ。
著者の言う「認識論の個人主義的バイアス」は、知識の実現についての個人主義(知識はひとりひとりの個人の心に宿る心的状態=信念の一種として実現される)と正当化についての個人主義(それが知識であるための正当化も各個人が 所有していなければならない)とから構成される。
しかし、これは当時の情勢(教会等の伝統的権力に対する個人の悲劇的闘い→ガリレオ、モーツァルトを想え)によるものであるし、実際のところ現在の科学は科学者の分業的営みである。
だから、「そもそも認識論は心の中の話なのか?」という話しにならざるを得ないのだ。例えば我々が地動説を信じているのは学校で習ったからであり、心の中に、天動説から地動説への転換というセンスデータを得たからではない。   

終章    認識論をつくり直す
ということで、著者の結論は
1.自然化された認識論
2.どのように知識を 獲得すべきかという問題を問う。←これが最大の難問!
3.新しい認識論の研究手法としてのコンピュータ
4.社会化された認識論
5.新しい認識論は「信念」を中心概念にしない
信念は、知識の実現の仕方の一つ。データベースや図書館も 知識の倉庫の一つ。「情報」が信念に代わるキーワードになるだろう。 ←情報科学という自然科学!
6.新しい認識論は「真理」を中心概念としなくなる(かもしれない)
となる。さて、認識論はいついかにしてつくり直されるだろうか。
所感:
・知識の古典的定義を理解しました。
・デカルトの困難と偉大を認識しました。偉大さは、客観と主観のインターフェースとして観念を据えたことである。
・カルナップ×クワインの理解が進みました。
そして最大の収穫は、観念(イデア)が形而上学の中核であることを認識したことである。だから、フレーゲは観念から意味へと言語論的展開の舵を切ったし、ウィトゲンシュタインは形而上学を哲学と分離して論理哲学論考を著したのだと理解できたことでありました。

参考までに、戸田山氏の主張は以下のような穏健な基礎付け主義・非個人主義的内在主義・非自然主義の立場(って、私の立場なんですが)の成立可能性を十分に考慮していないとする伊勢田哲治氏のコメントをリンクしておきます。

※写真はクワイン@京都賞から勝手拝借/感謝です。ちなみに京都賞でのワークショップの模様についてリンクしておきます。

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2006年10月27日 (金)

プリティ・ウーマン→永久保存

BS2放送プリティ・ウーマンを昨夜ようやく鑑賞終了。2週間ぐらいかかったかなア。まとまった時間を取れない取らないのでこうなる。そして大抵は早送りで終了ないし途中放棄とPhoto_269 なるのだ。
ところが、この映画はなんとか最後まで観ることができた。リチャード・ギアのあの朴訥そうな風貌の所為かなあ。ジュリア・ロバーツの完璧な肢体も理由に挙げられるかもしれないけれど。

ところでこのシンデレラ・ストーリーを観ながらカントの言葉を思い出そうとしたのだけれど、出てこない。そこで「カント 目的 手段」でネット検索して発見。

「人間性それ自体が尊厳である。なぜなら,人間はいかなる人からも(他人によっても,また自己自身によってさえも)単に手段としてだけ必要とされることはできず,常に同時に目的として必要とされねばならないからである。そしてこの点にこそまさに人間の尊厳(人格性)が存するのであり,そのことによって人間は……すべての物件を越えている。」

ということで、十年後この映画をもう一度観てもカントを思い出すかどうか自分自身に興味があるのでDVDに永久保存した。男はつらいよ 第35作 寅次郎恋愛塾(←台詞満載が凄いブログ)と一緒に。

※写真はJIJIGAHO 社団法人 時事画報社から勝手拝借/感謝です。

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「知識の哲学」を読む(2)

「知識の哲学」を読む(1)の続き。前回でもリンクした戸田山「知識の哲学」ノート(講義受講ノートか?)が全体的に参考になる。Photo_268

第2部 知識の哲学が生まれる現場2
(ここから→)「なぜ哲学はこんなにも長い間、知識の問題を正当化の問題と結びつけて考えてきたのか?」「なぜ正当化を認識者の心の中の問題として考えてきたのか?」という疑問に対して著者の答えは「懐疑論への応戦」。私たちは実は何も知らないのだ、あるいは、知ってると思っていることの多くをホントは知らないのだ、と言い立てる懐疑論を、何とかして払いのけようという努力が「信念の正当化」だったのだ。(←ここまで三浦俊彦の書評からコピペ)
懐疑論への応戦「信念の正当化」と、「知識現象のメカニズムを捉えようという課題とを哲学はずっとごちゃまぜにして探求してきた」と著者は言う。


第5章 「疑い」の水増し装置としての哲学的懐疑論
懐疑論の第一は培養槽の中の脳(われわれは身体をもった人間ではなく実は電気的な仕掛けにより生かされている)である。これに対しては、閉包原理の否定で反論する方法があり、詳しくはリンクを参照(知識はローカルに真であるような信念だから、閉包原理は間違っているということのようだ)。
第二は間違いからの議論(正しいと今思っていても後で間違いだとわかるかもしれない。だから我々は知っていると思っているだけで実は知らないのだ)である。これに対しては、知識の正当化における正当化プロセスが正当ならば撃退できる。
第三がヒュームの懐疑論「将来が過去に類似するという規定は、いかなる議論にも根拠づけられていず、まったく習慣から導き出されたものである」である。これは「そもそもわれわれの信念が(直接観察されないものについては)正当化を欠いている」と攻撃してくるのだから、正当な正当化プロセスでも撃退不可能である。

第6章 懐疑論への間違った対応
そこで、この第三の懐疑論への対応が問題となるが、著者は、哲学者たちはこれまで「確実で不可謬な知識を見つけてきて、その確実な知識に基づいて他の知識を正当化する路線」という間違った対応をしてきたと言い、その代表たるデカルト(「哲学原理」の項はお奨め。また、「省察」がネットで読めるんだって!)を取り上げる。
ここに方法的懐疑登場となるがその詳細はリンク参照として、問題はコギト(我思う)に辿り着いてから神の存在証明→物質の存在証明と戻ってくる際に循環的議論(デカルトの循環)があることだ。簡単に言うと、前半では欺く神によって数学的真理の正当性まで疑っているのに、後半では善なる神の存在を証明してその力で物質と観念の正当性をも証明することが循環ないし矛盾だということにある。
従って、方法的懐疑は信念ないし観念の内在的正当化に成功はしていない。ヒュームの懐疑を論駁できていないのである。もっとも、その副産物としてデカルトは自然の数学的記述という方法論を産み出した。デカルトを「なぜ自然は数理的に探求できるのかという問いについての科学哲学として読み直すことができるのではないか」と著者は言う。

第7章 懐疑論をやっつける正しいやり方
ここは言わばおまけの章。デカルトはヒュームに勝てないという決着が既についているのだから、培養槽の中の脳×閉包原理という屁理屈にノージック考えることを考える」による知識の定義(知識はローカルに真であるような信念)屁理屈で対応しようというだけの話しになる(だから「懐疑論をやっつける正しいやり方」はミスリーディングな章名だと思う)。そしてまた、日々死滅してゆく俺の脳細胞がこの屁理屈についていくのがしんどいというのもあってパス。

以上で「知識の哲学」を読む(2)終了。要するに、懐疑論の分類と、ヒュームにデカルトは勝てない(方法的懐疑批判。でもデカルトは偉大)であった。さて、次回で最終回。乞うご期待。

第3部 知識の哲学をつくり直す
第8章 認識論の自然化に至る道
第9章 認識論を自然化することの意義と問題点
第10章 認識論にさよなら?
第11章 知識はどこにあるのか?知識の社会性
終章    認識論をつくり直す


※画像はデカルトから勝手拝借/感謝です。

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2006年10月26日 (木)

「知識の哲学」を読む(1)

昨日、図書館から入手して知識の哲学を読み始めた。まだ途中だけれどスリルと発見にPhoto_267 満ちた哲学教科書である。そこで、復習(理解の確認→記憶の強化→表現による定着と知識の外化)を図るべく、駄文を連ねることにする。

まず、ブックレビューをリンクしておこう。一つは、内在主義、外在主義、正当化などの概念解説しつつ分析的にレビューしているもの、もう一つは三浦俊彦によるもので、この本の問題意識は、「なぜ哲学はこんなにも長い間、知識の問題を正当化の問題と結びつけて考えてきたのか?」「なぜ正当化を認識者の心の中の問題として考えてきたのか?」とするものである。
それから、認識論@ウィキペディア中の現代英米の認識論も予備知識ないし復習リンクとして役立つ。

では、目次ベースでアウトラインへの復元を図るという形で、紐解いてみよう。本書は、大きくは3部構成である。

第1部 知識の哲学が生まれる現場1
第1章 なにが知識の哲学の課題だったのか

知識の古典的な定義「知識とは正当化された真なる信念である」から始めて、正当化(信ずることに理由があること)の基準と更にその基準のメタ基準(基準が、真理への接近という目的に照らして正当であること)を確定することが哲学の課題であったことを示す。
俺は永年、哲学入門書ばかりを読んできたけれど、こんなこと考えもしなかったなア。

第2章 知識に基礎づけが必要だと思いたくなるわけ
「たいていの認識論的正当化は一種の推論である」しかも帰納的推論だから、帰納の正当化の問題@ヒューム(確証性の原理をとるにせよ、斉一性の原理をとるにせよ、帰納法で仮説を正当化する企ては、なんらかの壁にぶつかる)とか、決定不全性の問題(観察やデータによっては、対立する理論の中から一つの理論を選び出すことができない、つまり理論を決定することができない)が生ずる。
そこで、基礎づけ主義(命題の確実さは、絶対確実な疑い得ない根拠「基礎的信念」から正当化の連鎖によって派生的に与えられるものである)が主張される。つまり、なんでやなんでやと疑問を遡らせてこれ以上、疑問は起こらない固い岩盤に到達するべきだという考え方だ。
ところが、基礎づけ主義はうまく行かない。実際に基礎として働くような信念は絶対確実からはほど遠く、あるいは絶対確実だと思われるような信念は非常に無内容なトートロジーであって他の信念の基礎として働かないからだ。また、基礎的信念(岩盤)を「それ自体で非常に確からしい」といった程度のものに緩和しても、推論としても演繹的推論だけでなく、帰納的推論も認めることが多いから結局は循環してしまい基礎づけ主義は成功しない。

第3章 基礎づけ主義から外在主義へ
では、と゜うしたらいいか。
ここで外在主義登場。基礎づけ主義における正当化は、なんらかの信頼できるプロセスによる正当化を意味するが、これを信念を持つ認知者自身が認知できるものであることを要件とするのが内在主義、これに対して、認知者自身の認知を不要とするのが外在主義である。
外在主義にしたがえば、主体Sが内容Pを知っているというとき、Pという正しい情報をSが獲得したというだけではなくて、常に正しい情報を獲得する何らかのプロセスにSが習熟していることを意味する。つまり、知識は常に知識を生み出す習慣的プロセスの存在を含意するのである。私が妻の帰宅を知っていると言えるのは、車の音から妻の帰宅を予想するという習慣的プロセスが存在しているからである。逆にそうした習慣的プロセスが不在なままに得られた情報は、それが正しくても、知識ではない。また、そうした習慣的プロセスが単に内的に正しい(正当化できる)ものであり、外的に正しい(信頼できる)ものでないときにも、それは知識を生み出さない。

では、こうした習慣的プロセスが正当化(外的に正しい)され、信念が真ならば、「知識」としてよいか。
ここで、ゲティアが反例を提出する。ゲティア問題というのは、知識の古典的定義「正当化された真なる信念」に反例があるというものだ。それは、正当化され真であっても、 その正当化の理由があとで嘘だとわかってしまったような場合である。 理由が嘘であったため当該命題がそれで嘘になるなら良いが、 その命題自体は依然として真であるような場合がある(偶然の一致)。 このような命題はどうみてもとても知識とは言えないが、知識の 古典的定義にはあてはまるので、その意味では知識ということになる。具体例等はこちらを参照(鏡の例がわかりやすい)。
これを解決するべく、外在主義でも穏健な路線(知識の因果説、反事実的な分析など)が提唱された。

第4章 知っているかどうかということは心の中だけで決まることなのだろうか
しかし、穏健な路線は内在主義からの「情報の信頼性が本人に分かっていないんぢゃあ おかしいぢゃないか」との批判に耐えられない。
そこで、著者はラディカルな外在主義「正当化は知識の構成要件ではない(知識の古典的定義の変更)」を支持する。「知識じたいには外在的な説明を与えておき」(偶然の一致も知識だ!)「正当化を求めることが知識を獲得する道具として時として有効なのはなぜかを別に説明するという路線を選択」する。
つまり、知っているかどうかは心の外で決めて、知識としての有効性は別途考えるということだ。
これを言うならば、知識を正当化されていない信念に格下げするということ、換言すれば「信念がさらにいかなる条件を満たせば知識という尊称を獲得するのか、つまり、信念に何を足せば知識になるかではなく、人間にも動物にも備わっている知識獲得のメカニズムがいかに誤作動すると間違った信念が生み出されるのかを調べるべきだ」「知識は情報の一コマ」「生物が行っている他の情報処理」と並列して捉えようという自然主義宣言である。

以上で「知識の哲学」を読む(1)終了。以下は続編へ→乞うご期待(期待される方にはきっといいことがあります)。

第2部 知識の哲学が生まれる現場2
第5章 「疑い」の水増し装置としての哲学的懐疑論
第6章 懐疑論への間違った対応
第7章 懐疑論をやっつける正しいやり方


第3部 知識の哲学をつくり直す
第8章 認識論の自然化に至る道
第9章 認識論を自然化することの意義と問題点
第10章 認識論にさよなら?
第11章 知識はどこにあるのか?知識の社会性
終章    認識論をつくり直す

※画像は理論の発展に尽くした人々から勝手拝借/感謝です。

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2006年10月25日 (水)

規則のパラドクスからアスペクトへ

理解するとはわかること、だけでは足りない。他人に説明できてはじめて理解が足りていることになるのである。つまり、理解するとは①わかった上で②記憶して③表現まで出来るということである。
ところが、凡人は大抵、①で留まりそのうち記憶は朧になり結局「理解したのだ」ラベルしか残らないのが精々である。
そこで、②の補強手段及び③の手段として俺はネットを活用することを心がけている(つもり)。具体的には、ネット検索して様々なWEBに遭遇/ブックマークして何度も読み返して記憶を補強、更には別の見方(アスペクト)を知るのである。そして、こうやって表現することによって理解がより深まると信じている。

そんなブックマークのうちのひとつが勝手に哲学史入門だ。さきほどウィトゲンシュタインの項を読んで論理的原子論、写像理論などの記憶補強ないし別アスペクトを知ったが、気になったのは、このような規則に従うことの難問は,「帰納に関する難問」とは異なるとされている点である。
というのも、大人のための科学哲学入門で俺は
なぜ「正しい」に弱いかというと、「帰納にはまったく合理的根拠はない」ヒューム懐疑論グルーのパラドクスという二つの弱点があるからである。
この弱点を言い換えると、観察やデータによっては、対立する理論の中から一つの理論を選び出すことができない、つまり理論を決定することができない(決定不全性)ということになる。ちなみに、ウィトゲンシュタインのパラドックスクワス算もこの決定不全性に含まれるように俺は思う。
と書いたけれど、これは正しいだろうかということがずっと気になっていたからである。

そこで勝手に哲学史入門ウィトゲンシュタインを熟読すると、ウサアヒルの図を引いてアスペクトの概念を導入した上で

さて,このような概念を導入することによって何がわかるだろうか. (3)において,われわれは規則のパラドクスを見た.そこで示されたことは,われわれには,他者がどのような規則にしたがっているのかが決してわからない,ということであった.

同様に,ある一つのものを見ても,個人個人でそれが何に見えるかは,他者にはわからない.哲学探求において,第I部で規則論が展開され,第II部でアスペクト論が展開されるのにはこのようなつながりがあるのであろう(野矢茂樹『心と他者』).そして,野矢はここに「他者の心」を見る.

と書いておられる。これを読んで俺は理解した。
そうか、規則のパラドクスはアスペクト論につながり、更には「他者の心」問題にいたるのか。やはり、規則のパラドクスを全て決定不全性に押し込めるのは間違いだなあ、と理解したのであった。ネットのおかげである。

ちなみに、帰納の正当化問題に関して丹治信春「クワイン」に面白いこと(帰納を自然科学的に説明する)が書いてある。帰納は論理的に正当化できないが、帰納が多くの場合成功するのも事実。それは何故かという問いに対して

このような問いに対してクワインが有望だと考える考え方は、帰納を、期待・習慣の形成(と解釈される行動パターン)という、動物にも見られる現象との連続性で捉えることである。

つまり、人間における帰納は動物における学習の延長線上にあり、更にはその有用性はPhoto_266 進化論でいう自然淘汰によって歴史的に証明されているというのである。こういう考え方を自然主義といい、これが認識論の自然化の一端だと理解した次第である。

さて、図書館にリクエストしていた「知識の哲学」が届いているようだ。取りに行かなくっちゃ。

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馬場あき子

新聞投稿の話が続く(多分、これで最後)。
当時、「朝日見て左にすこし傾けて日経を読む毎日の朝」と朝日と日経を購読していた(いまは、朝日を読む時間と購読料が惜しくなって日経だけにしているが)。Photo_265
そこで、新聞投稿を始める際に標的を朝日にすべきか日経にすべきか少し考えた。結論は日経。読者層の量と質から考えて、断然、日経の方が入選確率は高いだろうからだ。
かくして日経投稿を始めたのだが、一首だけ朝日歌壇に入選した歌がある。

 リストラの風は冷たしこの宵は二合の酒に酔ひて眠らむ

日経は選者指定で投稿するが、朝日は指定不可だった。そして、この歌を採ってくれたのが馬場あき子である。「リストラに対する作者の位置取りが不分明」旨、評されていたことを覚えている。確かにその通り、当事者なのか第三者なのかはっきりさせず、当時流行りかけていたリストラ現象を定型の声調に乗せただけの歌謡曲短歌なのだ。そして、こういう傾向歌は日経より朝日の方が採られやすいだろうと踏んで朝日に投稿したのだった。

 あざとさは俺の戦術、歌謡曲短歌をひねり朝日に載れり

さて、馬場あき子。「民衆詩としての短歌」を標榜する「まひる野」に入会し窪田章一郎に師事し、その後「かりん」を主宰。能に造詣が深く新作能を作られたり、ご自身でも舞われるようである。

 さくら花幾春かけて老いゆかん身に水流の音ひびくなり

「さくら花」で起こして「幾春かけて老いゆかん」と詠嘆して切れた後の「身に水流の音ひびくなり」がこの歌の肝であろう。さくらの木の中に、清冽な水流の映像が湧く。いや、さくらを見ている作者の体内に水流はあるのだろうか。これは舞っていらっしゃる瞬間のお歌だという読みもある。様々な読みを許容しつつ「水流」は歳月を流れる。

あざとさも時に必要だけれども、身に響くぐらいの水流を懸命に流してみよ。それが出来ぬ俺は所詮歌謡曲歌人にもなれないなあ。凡と非凡との間の距離は相当のものとあらためて思う。

※画像はエリシナ-elishina- 能面 般若から勝手拝借/感謝です。

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2006年10月24日 (火)

分析哲学ことはじめ

俺の分析哲学ことはじめは、図書館から本を仕入れて来ることに始まった。Photo_264

大庭健「はじめての分析哲学」→文体が気に入らない、読みにくい。とはいえ、論理実証主義vsプラグマティズム(まえがき piii)を中心とした「見取り図」はなるほどと思う。丹治信春「クワイン」の副読本として読書中。

竹尾治一郎「分析哲学入門」→総論的解説書の故か、読解不可箇所多々あり。もっとも、フレーゲの三つの原理(反心理主義文脈原理、概念と対象との区別)は整理と記憶の道標となった。

飯田隆「言語哲学大全」→フレーゲに関する章を理解しつつ読了。ただし、論理と観念の違いについてはいまいち消化不良。概念は公共的、観念は私的ということだろうが、観念は反心理主義により哲学から追放したとして、概念は哲学でその後どうなったのか?ひょっとして概念はコト、対象はモノ、すなわちコトとモノの区別ということか?
引き続きラッセルに入ったけれど、着いて行けず中断中。

そして最後は丹治信春「クワイン」→これは納得しつつ読了。ネット検索して、「アメリカ哲学はこんなに面白いのだ、カッコいいのだ!」と大声で布教したい私と宣伝する書評発見、三浦俊彦のサイトであった。文脈主義からホーリズムに至る流れは「モノからコトへ」ということではないだろうか。いつか駄文をまとめたい。
また、存在論(存在するとは、変項の値となることである)、認識論の自然化も出て来る(戸山田科学哲学の源流はクワインであったか)。言葉の意味論は、認識論→存在論にまで行き着かなければならないということに思い至った。ここらあたり、いつか駄文をまとめたい。

※画像は貴重書コレクション 拡大画面(解体新書(全5巻)から勝手拝借/感謝です。

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2006年10月22日 (日)

島田修二

前回に日経歌壇を出したので、もう少し続けさせてもらう。
投稿を始めたのは1995年。当時の選者は岡井隆と高野公彦。投稿第一作(仕事とはものつくることの喜びぞ流れ流されるな「秀才」の君)を岡井隆に採ってもらって、気をよくして、この歌は岡井向け、こちらは高野向けなどと自分なりに振り分けて毎週投稿を続けた。

こうして高野公彦に採ってもらったうちの一首が次の歌である。

 我が眉に白毛一本見つけたり悲しき器ししむらの老ゆ

実は、「悲しき器」は大昔に読んだ高橋和己「悲の器」から借りた。また、「白毛一本」は茂吉の「Munchenにわが居りしとき夜ふけて陰の白毛を切りて棄てにき」が意識下にあっPhoto_263たかもしれない。まあ、選者はそんなこと先刻ご承知だったろうが。

さて、今日は島田修二。宮柊二に師事して、昭和63年に歌誌「青藍」を創刊したと「現代の短歌」にある。朝日歌壇の選者を永く務めて米国刑務所終身囚郷隼人の歌を多く選歌した。一昨年76歳での逝去に郷は追悼文を寄せている。

 ただ一度生まれ来しなり「さくらさくら」歌うベラフォンテも我も悲しき

ベラフォンテはハリー・ベラフォンテというアメリカの歌手(反体制的とは知らなかった)。この歌手の歌う「さくらさくら」を聴いての作者の感慨の歌である。
この歌の読み方は様々で、小馬鹿にされたような感覚が島田氏のなかにあったかもしれないという読み方もあるが、他方、アメリカに隷属する日本人として、ともに選択肢のない存在を悲しむというのもある。俺は平たく、ベラフォンテも作者も、人は全て「悲しみの器」、「さくらさくら」を聴けばその思い切なり、と読みたい。

ところで、ネット検索で短歌結社の光と影--島田修二の死--甦った母と子の絆に遭遇した。重い複雑な事情があったようである。利害関係の無い他者には介入できない事柄で、また、当事者の一方が死亡した以上、最早争いは継続不可能ではあるが、「悲の器」を再認識した思いを表したくて、敢えてリンクした。また、大岡信「折々の歌」を引くブログもリンクする。
            
 生きがたきこの生のはてに桃植ゑて死も明かうせむその花ざかり  岡井隆

※画像は1957年の異色ヒット・ソングから勝手拝借/感謝です。

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2006年10月21日 (土)

岡井隆

朝ドラ「芋たこなんきん」をビデオで毎日欠かさず見ている。藤山直美扮する主人公37歳(史上最年長の朝ドラヒロイン)が文学賞を得て作家として一家をなす一方で、町医者と結婚し、現在のところは作家業を成立させるために別居結婚生活というストーリーなのだが、俺の当面の興味の焦点は町医者の妹との嫁小姑対決でありそれを期待していたのが、昨日の放送では期待はずれにに終わった。というのも、主人公の人柄がよすぎて、真心から公正に小姑と接していたからである(具体的詳細はNHK朝ドラ「芋たこなんきん」日記参照)。
これじゃあ、ハナシにならへん。こんな人、ホントにおるんやろか。大抵、他人の不幸とか苦労は歓迎しないまでも(特にドラマの場合は)ある程度期待するものだけれど、この主人公はその種の邪心・邪気がまったく無いなア。ちょっとやりすぎ、と思うのは俺の邪心であることよと思いつつ昨夜寝床についた。Photo_262

さて、今日は岡井隆。前衛短歌(作品の主人公と作者が異なる、虚構を詠っている点が最大の特徴といわれている)の旗手であり、我が思い出の日経歌壇選者である。

 蒼穹は蜜かたむけてゐたりけり時こそはわがしづけき伴侶

一読、意味がとりづらい(かもしれない)。「蒼穹(おほぞら)は蜜かたむけて」とはいったいなんのこっちや、と思うのだけれど、ここはルネ・マグリット(「目に見える思考」)でも思い浮かべて深く考えずイメージとして受け止めればいい。青空に蜜(これがエロチック)である。
この上の句に対して下の句「時こそはわがしづけき伴侶」はわかりやすく、詩句そのままである。痛みも哀しみも不幸も時が解消する、時間はおまえの最大の味方なり、である。
とすると、この歌の意味は「青空に蜜、時間はおまえの味方」ということになる。矢張り「青空に蜜」が不思議として残る(その不思議さがこの歌の魅力ではあるが)。

そこで、夢の中であれこれ思考していたら、「芋たこなんきん」と今朝、結合した。
「蒼穹は蜜かたむけて」とは、心の比喩ではないか。心に蜜(エロス、色気更には欲望)を抱きながらも邪(よこしま)ではない心、それが蜜かたむけている蒼穹ではないか。

人間が人間である限り、欲望は捨てられぬ(腹が減ったら飯を食いたい)。だから、武士は食わねど高楊枝とか聖人君子は無理。
しかし、邪心は持たないことはできる。事実を正しく認識し心を公正に保って暮らしていたら、いつかええことがあるよ、ええことなくても不幸にはならないよ、とこの歌は教えてくれているように思う。「幸福に生きよ」の歌なり。

※画像はマグリット空から勝手拝借/感謝。このサイトには「マグリットは普通の暮らしを、せいいっぱいの嘘をついて維持しています」という言葉がある。
またちなみに、水燿通信70号には岡井隆の歌を鑑賞して「それ以上に私たちを感動させるのは、ひとりの人間がいろいろ苦しんだ末に、開き直って大きな決断をした、その後に訪れた、人生に対する見方の深まり」とある。不幸と虚構とは幸福のためのビタミンかもしれない。

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2006年10月20日 (金)

私の哲学半目次

ブログ開設してぼちぼち三か月。読書とネット検索と駄文ハイパーテキストのスタイルも確Photo_261 立できた。
そこで、「一人一首」半目次があるのなら、「私の哲学」半目次があってもいいなと思いつき、半目次哲学編をつくることにした。ちょうど、分析哲学入門の下地が整いつつあるから適切タイミングなり、とひとりよがりするのであった。

まずは、カント。時間・空間という色眼鏡を通してしか我々は世界を認識できない。だから、物自体は認識不可能というのがやっぱり俺の出発点である。

そして次は、ツチヤ教授との出会い。これがウィトゲンシュタインと言語論的転回への道を開いてくれた。すなわち、哲学は形而上学を語るものではないということだ。


これと符節を合わせたかのように、思想=形而上学+哲学という等式を捏造したのも出会いであった。いま思えばこれが俺の哲学解体への第一歩であった。
ちなみに、疑似科学と科学の哲学の序章に「哲学の問題領域は大きく論理学、認識論、形而上学、価値理論(倫理学)の四つに分けることができるとされている」とある。とすれば、言語論的展開は形而上学を哲学から追放し、言語分析を中心にした論理学と認識論を哲学の主要領域とするものと言えるだろう。更には、認識論を自然科学の一部に埋め込んじゃえという「認識論の自然化プロジェクト」というアプローチもあるようで、これが成功すれば、認識論も哲学から追放されることになり、ここに目出度く哲学は解体されるのである。

さて本論に戻って次なる出会いは、論理哲学論考。野矢茂樹のおかげで、事実世界(のっぺらぼうの事実)は論理空間(俺の脳内モデル)に映し撮られてはじめて構造(対象・性質・関係+時間・空間)化されるという理解に達することができた。
もっとも、論理空間(俺の脳内モデル)というのは俺流デフォルメであった。語の意味を全ての可能な文(論理形式に従った文)の中で捉えると、語の指示対象は、全ての可能な事実ということになる。この可能な事実(世界)の集合は、論理空間と呼ばれる。というのが論理空間の標準的な理解のようなので、論理空間は個人の脳内モデルを超えた言語的(間主観的)なものとなるからである。

それはさておき、かくして世界は三つの層から構成される。事実世界と論理空間と価値世界。事実世界と論理空間には主体=私は存在しない。私は事実世界と論理空間の前提なのだから。
言い換えると、
善と悪とは主体によってはじめて登場する。そして主体は世界に属さない。それは世界の限界であり、善であったり悪であったりするのは意志する主体である。だから、善悪(価値観)や美醜(芸術)は価値世界からはじめて出発するのである。価値世界は意志、事実世界と論理空間は表象、これを合わせて意志と表象の世界となる。

以上が俺の言語論的転回であるが、これとは別に、科学哲学への道筋もできた。言語論的展開が事実世界→論理空間→価値世界という三層構造をもたらすのと同様に、戸田山科学哲学も実在世界→理論モデル→公理系(法則)という三層構造を主張する。果たして、論理空間と理論モデルは同じものなのか違うものなのか、ないし、言葉は意味をもてるか、が今後の思索課題となっている。→論理空間は公共的だから、異なるものであることが判明し、価値世界⇔概念世界⇔事実世界というネーミングに俺の三層構造を修正した。かくして我が分析哲学ことはじめが始まった。

こうして考えてみると、俺の年来の宿題である「人生=損得+好き嫌い(価値観)+?」の答えも出てくるやもしれぬ。人生=損得+好き嫌い+正しい事実認識(哲学=表象の世界)のような気がしてきたなあ。

最後まで読んで頂いて感謝です。あなたにはきっといいことがあります。

※画像はsweet summer avenue. (甘夏通り) 美食の国素晴らしきベルギー その1から勝手拝借/感謝です。

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2006年10月17日 (火)

ことばは意味をもてるか

飯田隆「クリプキ ことばは意味をもてるか」を読了(二度目)。読書感想文を書こうかどうしようか考えつつ、ネット検索。Photo_260

そうや、迷っているときは他人様の力を借りようとリンクを張ることにする。
すなわち、「グルー」や「クワス算」といった奇妙な色や計算法が例に取られて前半部分で説明されている。その結果私の心の中をいかに捜してみてもことばの意味という観念をきちんとくくり出すことができないという信じられない結論に至るというのがこの本である。
言い換えると、観察やデータによっては、対立する理論の中から一つの理論を選び出すことができない、つまり理論を決定することができない(決定不全性)から「ことばは事実世界に意味をもてない」という結論になるということだ←これじゃあ、まだわからんなあ。

そこで、わかりやすくするために、例をつくってみよう。
俺が事実世界において観察を繰り返した結果、「三角形の内角の和は180度」という結論を出したとしよう。ところがここで懐疑論者登場。彼は言う。
「おまえは有限回の観察しかしてへんやろ。そやのになんで内角の和は180度という規則が正しいと断言できるねん。過去から未来を帰納することなんかできへんぞ。ウィトゲンシュタインもそう言うとるわ」
論理的には彼の言うとおりである。ここから更に、そもそも三角形というコトバに事実世界との対応(すなわち意味)があるのか→ことばは意味をもてるかという議論にまで発展させたのがクリプキである。有限回しか三角形を観察していないのだから、三角形自体を定義する規則はいくらでも考えられるやんか、そんなんおまえの心の中にだけあるのとちゃうか、と言われてしまうのである。

屁理屈である。瑣末な議論である。
一般人はこんな議論に深入りしない。みんなが三角形やと思てることで大体意味が通じてるやないか、そやったらそれでええ、三角形に意味はあるんや。