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2006年10月

2006年10月31日 (火)

ウェブ進化論のキーワード(メモ)

ウェブ進化論読了したのでキーワードをメモっておく。Photo_9

第一は「ネットのあちら側」→サーバーに全ての情報を置けば知の共有が図れるということだ。ソーシャルブックマークがその一例というのは言われてみればなるほどだった。

第二は「不特定絶対多数無限大への信頼」→すなわち、人間の(集団ではなく)不特定多数は長期的には正しい方向に向かうという信頼だ。ウィキペディアがその一例である。
「不特定絶対多数への信頼というのは、自分よりも優れた人がたくさんいることを認めることであり、そういうひとたちのためにも自分が何かの役にたてるかもしれないということでもある」ということを核にした信頼ということだろう。反表象主義@ローティにも通じるところがある。
しかし、楽観論一点張りは危険だ。人間の悪質の部分にテクノロジー結びついたとき、どういう悲劇が生まれるか、すでに証明されているのではないだろうか。との留保意見もある。特に個が不安定なこの国では危険性が高いと思う。

そして(実は言いたかったのはこれ)我がモデル論的転回に、「ネットのあちら側」と「不特定絶対多数無限大への信頼」とをマージして考えてみたいという(例によっての)我田引水であった。とりあえず、概念図に付加して置くにとどめる。

     客観(間主観)  ⇔ モデル   ⇔ 実在  
      正当化された信念  情報
          ↑         ↓
           ←←←←概念モデル ←  経験
     <価値世界> <概念世界>  <事実世界>
         ネットのあちら側      ネットのこちら側
     不特定多数無限大への信頼?

※それはともかく、コメントスパムなんとかしてくれえ、ココログさんよ。画像は北京公交——周口店猿人遗址から勝手拝借/感謝です。

Photo_14

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反表象主義を理解してしもうた

このところお気に入りになりつつある冨田恭彦の「科学哲学者柏木達彦の春麗らを読Photo_275む。読んだらアマゾンのカスタマーレビューを見る。現代英米系分析哲学の「はとバスツアー」。発車オーライ!, とレビューあり。ははっ(笑)となる。
しかし、これだけで済ましてはならぬ。

ローティの反表象主義。これがこの本で得たキーワードであった。ネット検索したけど端的にぐっと来るものがない。そこで、この本から引用し、外化しておこう。

ローティは、科学が世界を正確に表象しているがゆえに真であるという考えを拒否する。これは、科学に限らず、知識を獲得していると自認するすべての人間の営みについて、そうなんです。で、このような自らの立場を、ローティは、「反表象主義」と呼びます。

人間は、われわれの外なる自然を忠実に捉えるという意味で、科学を客観性志向の営みの典型としばしばみなしてきました。けれども、ローティによれば、科学は、与えられたものにうまく対処する方法を創り出そうという試みなんですね。

なるほど。そうなんだよね。客観性とは実は間主観性のことであり、だから俺はモデル論的転回の提唱において、

     客観(間主観)  ⇔ モデル   ⇔ 実在  
      正当化された信念  情報
          ↑         ↓
           ←←←←概念モデル ←  経験
     <価値世界> <概念世界>  <事実世界>

という三層構造を提案したんだ。この三層構造は、客観性は実在の側ではなく、心(主観)の側にあるものだということを意味していたんだ。つまり、これが西洋主観主義の脱構築なんだ。と、手前味噌をする。我田引水なりけり。

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栗原小巻、サイテー

BS2・寅さん話である。Photo_274
「柴又より愛をこめて」のマドンナは栗原小巻(「ペレストロイカとソ連の芸術」なんて論文も書いているロシア好きなんだ) 。二作目の登場だ。松坂慶子も非道かったけど小巻はそれ以上である。

小巻の亡くなった親友の夫(男手ひとつで娘を育てている)川谷拓三(1995年逝去)から求婚されて小巻は悩む。悩んだ小巻が寅に相談する(この鈍感さは寅マドンナが持たなければいけない論理的必然なのでこの際問題にしない)。問題にしたいのは、小巻の悩み方・内容である。以前もトラバさせて頂いたブログ(凄いな、この台詞収録能力努力は)からコピペする。

真知子 「彼は誠実な人だし、女の子、とても私になついているし、何も問題は無いの。でもね、・・あ、でも・・、もしそうなったとしたら・・・・・・・身を焦がす様な恋の苦しみとか、大声で叫びたい様な喜びとか、胸がちぎれそうな悲しみとか、そんな・・・・・そんな感情は、胸にしまって鍵をしたまま、一生開けることもなくなってしまう・・・、そんな悩み、寅さんなら、どう答えてくれるかと思ってね。」

具体的な求婚に対して、この女性は一般的なことを悩んでいる。相手が誠実で結婚生活もうまく行きそうならば、それでいいではないか。なんで満足できへんねん。
思うに、このオンナは強欲なのだ。幸せな生活だけでは満足しないのだ。恋の歓び苦しみを味わったことがないのに(ないから余計に思うのだろう)封印して暮らすことが厭なのだ。

しかし彼女は数日(映画では描かれていないが、たぶん)悩んだ後に結局、結婚を決める。なんや、それやったらそんなつまらぬ悩みを寅に打ち明けるな、このカンドン。

ということで、俺は小巻が昔から嫌いやった。それだけの話しでありました。

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高嶋健一

久しぶりの「一人一首」である。Photo_273

前回(馬場あき子)で歌謡曲短歌について触れたが、もう少し考えてみた。

歌謡曲短歌とは、詩になっていない通俗的短歌をいう。前回、引用した俺の歌

 リストラの風は冷たしこの宵は二合の酒に酔ひて眠らむ

が、その一例だ。

では、歌謡曲短歌か否かを判定する基準は何か。
音楽の三要素に倣って、短歌の三要素を(以前にも考えたが)考えてみた。
声調・韻律(リズム)、思想・主張(メロディ。以前はこれを措辞としていた)、メタファー(ハーモニー。以前は言葉の響き合いとしていた)が短歌の三要素と考える。

まず、声調・韻律は、声に出して歌を読んだ場合の調子すなわちリズムである。定型を守っていればこれは自然に伴うものだ。上の例で言えば2句切れ(3句切れよりこちらの方が心地よいリズムをつくる。音楽で言えば下の句が弱起の調子になるからだ)で声調よく、ほとんどこれだけで点を稼いでいる。ちなみに、前衛短歌では意識的に句割れ・句跨りを作り出し晦渋なリズムを生み出す技法がとられている。

次に、思想・主張は、歌の内容、つまり、歌が言いたいことである。どんな文章でも意味をなす以上はなんらかの主張がある。短歌も文章である以上、なんらかの主張があるはずだ(無内容を売りにする短歌もあるけれど、それは無内容を主張にしているのだ)。
上の例で言えば、作者のリストラに対する位置取りが不分明ではあるが、リストラについての思想表現はなされている。メロディも聞こえるのである。

そして最後はメタファー(広く、喩。隠喩に加えて直喩も含むと俺は考える)である。これが詩の本質であり、短歌の味噌である。これがなければ歌ではない。作者は思想・主張をより鋭く深く読者の胸に切り込ませるために愉に最大の工夫を払い、読者は、意外で新鮮なメタファーに遭遇すれば言葉と世界について新しい見方を開かれる思いになる。
上の例で言えば「二合の酒」にほんのちょっぴりの愉はうかがえるが、何か新しいものが見えるわけではない。つまり、歌謡曲(酒よ涙よつらい切ない別れよ)と同じく、手垢の付いた言葉ばかりが並んでいるだけなのだ。愉がない歌、それが歌謡曲短歌である。

そこで、白秋の名歌を引く。後朝の別れという主張はありふれているとしても、この歌の何度繰り返して読んでもくみつくせない愉を味わって頂きたい。

 君かへす朝の舗石さくさくと雪よ林檎の香のごとくふれ

さて、今日は高嶋健一。紹介文(たぶん歌人自身の文章だろう)には「具象と抽象のあわいに漂う世界を表現したい」とある。歌人の根本旋律(思想)であり通奏和音(愉)である。

 てのひらのくぼみにかこふ草蛍移さむとしてひかりをこぼす

愉は一方で、読みをかなりの部分で読者に任せる。読者は連想を広げて、あるいは、記憶を遡ったりして自由に歌を鑑賞すればいい。読者は「てのひらのくぼみ」「草蛍」「ひかり」に何を思うか、この歌を読むとき、具象と抽象のあわいに漂う音楽が聞こえては来ないか。詠みと読みとを音楽がつなぐのである。ちなみに、草蛍の歌の歌碑が 清水市の船越堤公園にあるとのことだ

とはいえ、歌を詠むためにはまず伝えたい思想がなければならぬ。

 我が歌の泉は涸れて凡作を転がし遊ぶ夏の夕暮

泉から思想を湧かせることができるのは作者だけ。深く生きよ、歌謡曲歌人よ。

※画像は旅の写真館_フランス編から勝手拝借/感謝です。

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2006年10月30日 (月)

西洋主観主義哲学

この概念は、富田恭彦「対話・心の哲学」から頂戴した。この本に「おまかせのデカルト」とPhoto_272 いう章があり、これがちょうど並行して読んでいた戸田山「知識の哲学」の懐疑論の議論と格好のハーモニーとなったのだった。そこで、この章の「近代主観主義のはじまり」の節から引用する。

確かに、デカルト自身は、物体の存在をしっかり認めているわけですけど、絶対確実なものを認める彼の懐疑の過程からすれば、心の優位は否定できません。まず、心があるというところから、他のすべてを見ていくという方向性ですよね。心は、のちには、「主観」とか「主観性」とか呼ばれることになりますから、このような見方を、「主観主義」と言ったりします。そこで、デカルトは、西洋近代の主観主義の道を開いた、なんて、言われるんです。いわゆる「観念論」も、その一つの帰結と考えられるものなんですけどね。

心があるというところから、他のすべてを見ていくという方向性が主観主義、これに対して実在(自然)の方向から見ていくのが自然主義ということになる。とすれば、フレーゲの言語論的転回は言わば自然主義宣言であり、言語のみならずモデル論的転回として捉えるのが論理的ということになる。

ちなみに、富田恭彦「対話・心の哲学」は生島教授シリーズ三部作の最終作である(残り2作は哲学の最前線―ハーバードより愛をこめて観念論ってなに?)。
デカルトやカント、あるいはフッサールに見られるような徹底的『基礎付け主義』に対し懐疑的な立場に立ち、クワインからデビッドソンを経て『自文化中心主義』のローティに至る系譜に共感的な視点で、近世哲学史を読み直していく対話形式の入門書とのカスタマーレビューあり。
また、芦屋で暮らすちょい不良オヤジの読書日記(スゴイ。今まで見たうちでサイコーのブログ名!)にもレビューあり。

追記:絶対的な知識を手に入れなければ,世の不幸はなくならないという発想によって,基礎づけ主義をとるならば,自分が正しいと思っていることが絶対的な知識であるという思い込みに陥ることがありうる.こうした思い込みは意見を異にする人々を抑圧し,共に生きる基盤を破壊しかねない.というブログ書評に激しく同意するものである。

※写真は楽天市場】脚長ストレッチパンツ(ストレッチセブン)3本セット:暮らしの幸便から勝手拝借/感謝です。

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モデル論的転回の提唱

戸田山哲学(科学論知識論)に触れて、すっかりその虜になった俺は、感化されやすいPhoto_271タチということもあって、以下のようにモデル論的転回を提唱してしまう。

1.モデル論的転回とは
西洋主観主義哲学主観(心)⇔観念⇔客観という観念インターフェースモデルを排して、客観(間主観)⇔モデル⇔実在というモデル転換論モデルを提唱する。

     客観(間主観)  ⇔ モデル   ⇔ 実在  
      正当化された信念  情報
          ↑         ↓
           ←←←←概念モデル ←  経験
     <価値世界> <概念世界>  <事実世界>

という三層構造である。ここに、
情報=言語・記号(音楽・美術を含む)による情報<旧約聖書からブログまで>
概念モデル=「科学理論の意味論的捉え方」における「モデル=理論」(右上図<戸田山「科学哲学の冒険」の素敵なイラスト>参照:この図は実証主義的な歴史観と相対主義的な歴史観をうまく折衷できるのではないかから勝手拝借/感謝)
正当化された信念=客観(間主観)的に真理であると認定された理論・法則・公理系
価値世界・概念世界・事実世界論理哲学論考の論理空間を概念世界に置き換えて俺が捏造した世界の三層構造
である。

2.その意味合いと実益
・デカルト以来の西洋主観主義哲学は、主観の中に観念を据えることにより、自然の数学的記述という果実を得る一方で、主観の形而上学的基礎づけを必要とし(例:神の存在証明)形而上学と「哲学」をごっちやに論じてしまっていた(特にヘーゲル)。これを言語論的転換さらにはモデル論的転回させることによって形而上学・価値観を哲学から追放し、可能な限り価値中立な概念モデルを人々の共通語として提供する。
これにより、西洋主観主義の弊害(価値観の押し付け:マルクス主義、ナチが20世紀に惹起した悲劇を想起せよ)を排除する。

・とはいえ、全く価値中立の理論はあり得ない。従って、価値世界の存在を認めざるを得ず、価値世界・概念世界・事実世界の三層構造とし、理論・法則・公理系を価値世界に位置づける。これは理論を多様なモデルで基礎づけることでもある。例→価値世界(量子力学):概念世界(電子の粒子モデル、波動モデル):事実世界(原子核を取り巻く雲)。

・概念モデルは実在(事実世界)を抽象化(捨象。例えば、我々が暮らしている空間をユークリッド空間と想定する)と理想化(例えば、摩擦係数を無視する)して得られるもの。こうすることによって、実在との対応が二段構えとなり、実在とモデルとの類似性、モデルと理論の整合性に分別して理論の正当性を議論することができるようになり、柔軟な理論構築が可能となる。真理とは、モデルが重要な点で実在と極めて類似していて、かつ、モデルを説明する理論に整合性があることである。

・また、概念世界に情報を明示的に配置することによって、情報が実在と並ぶ我々のモデル・理論構築の際の重要な情報源である事実を反映する。

・かくして、信念の正当化問題及び信念の真理性問題は、理論・モデルを構築する際の価値観・目的に応じた、抽象化・理想化プロセス及び使用情報の信頼性の問題にプラグマティックに還元できることとなる。要するに、普通の人々が普通の暮らしをしている際に発生する世間的社会的事象における正当性・真理性問題と変わりがないのである。逆に言うと、哲学がこうした問題において確立する方法論は暮らしに役立つ方法論であるはずなのだ。万人のための哲学を。

以上、素人の戯言。ぼけ防止のための考える練習であった。

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2006年10月29日 (日)

分析水泳ことはじめ

プールの基本メニューは、水中ウォーク10分、平泳ぎ@ビート板×25m往復×3、サウナ10分、水中ウォーク5分、平泳ぎ@ビート板×25m往復×1、サウナ5分だが、問題は平泳ぎキックの基本がなっていないため25m泳いだだけで、ハアハアゼエゼエになってしまうことだ。
そこで以前からの懸案はネットでスタディ情報を入手することだっだ。ついつい忘れてしまい今朝ようやく発見→Dartfish - Performance Analysis→動画でキック練習方法を教えてくれている。

さて、果たして上達するだろうか。俺の自己分析及び矯正能力が試されている。

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2006年10月28日 (土)

知識の哲学を読む(3)

「知識の哲学」を読む(2)の続き。懐疑論への応戦「信念の正当化」デカルトの試みは残念ながら成功しなかった。デカルトの「木」;根(形而上学)-幹(自然学)-枝(機械学・医学・道徳)参照。
そこで、ラディカルな外在主義者たる著者は「知識の哲学をつくり直す」という課題に着手する。Photo_270

第3部 知識の哲学をつくり直す
第8章 認識論の自然化に至る道

ああ、やっぱりクワイン登場→「つくり直す」手がかりは認識論の自然化である。そして、クワインと来たらその前史たる論理実証主義カルナップである。

まず、「二十世紀はじめに数学は論理学と集合論に還元され」これが「基礎づけ」の模範例にされたと著者は言う。
ここで、俺の最近の勉強の成果を披露すると、数学を論理学で基礎づけようとしたのがフレーゲ、ところがラッセルのパラドクスが炸裂して論理学だけでは無理だということが判明して、論理学+集合論による還元となったのである。フレーゲのGrundgesetze der Arithmetik(「算術の基本法則」)は自然数論および実数論を論理から導こうとする企てであった。しかし、ラッセルが『算術の基本法則』の公理系が矛盾を引き起こすこと(いわゆるラッセルの逆理を発見して指摘し、+集合論による還元とならざるを得なかった。+集合論による還元というのがわかりにくいが、乗法公理(またはそれと同値な選択公理)、還元公理、そして無限公理の導入のことだ(と思う)。

そして、数学で基礎づけが可能ならば他の分野でも論理学と集合論への還元による基礎づけが可能だと主張したのが、マッハ流の還元主義的現象論に従って、中立の直接的経験から知識体系を構築しようと試みたカルナップであった。
要するに、デカルトの内在的基礎づけは不可能だったが、フレーゲ(反心理主義=観念から意味への転換、文脈原理→「文脈的定義(再帰的定義に近い意味かなあ?と俺は思う)を用いて理論語を含む文全体をセンスデータ語を含む文に置き換えればよい」)とウィトゲンシュタイン論理哲学論考)と集合論(「物体をたんに印象ではなく、印象から集合論的に構成される何らかの対象と同一視すれば、ヒュームの困難を乗りこえられる」と論理実証主義者は考えたと著者は言うが、具体的にどんなことか俺にはわからず)を援用しての再チャレンジであると俺は思う(どこかの国の宰相が言うところの再チャレンジとは違います)。

しかし、カルナップはクワインによって粉砕される。著者は、クワインの粉砕について様々に説明しているが若干判りにくいところ(概念的側面、学説的側面って何?)もあり。従ってここでは、経験によって検証されるのは、独立の言明でなく、体系全体である(ホーリズム)。このことはまず科学と非科学の境界を霧散させ、更には分析命題/綜合命題の区別も解消と押さえておこう。ホーリズムについてもう少し詳しくは、「理論を経験的部分と理論的部分に分けて、或る言明を他の言明から独立させて、対応するとされる経験の反証や確証に付すことはできない」参照。
※この章(言うならばカルナップ×クワイン)、長くなった。いつか、クワイン「論理的観点から」言語哲学大全2を読みます、キッパリ。

第9章 認識論を自然化することの意義と問題点
そこで、クワイン提唱の「認識論の自然化」をどう具体化するかが問題となる。
まず、「自然化された認識論はいったい、何についての主張なのか」。これを著者は、コーンプリスを援用して、
1.われわれはいかにして信念に達するべきか(規範の問題)
2.われわれはどのようにして信念に達しているか(事実の問題)
3.われわれが信念に達するプロセスは、達するべきプロセスと一致しているか
に分類する。
伝統的には 1 は哲学者の仕事(いわゆる第一哲学=現象を超越し、またはその背後にある真の本質、存在の根本原理、絶対的存在を純粋思惟によりまたは直観によって探求しようとする学問)で、2 は心理学者(ないし脳科学者と俺は思う)の仕事。
しかし、 1 は 2 と独立ではあり得ないというテーゼが「自然化された認識論」(∵分析的命題と総合的命題は判然区別不可能)。 だから、規範(哲学)と事実(科学)は、上位の目的さえ特定されたら「世界についての事実的な知識に基づいて白黒つけられる工学的な問い」になる(科学、いや我々の普段の仕事においても、いかに事実に到達するかという問題は、到達方法はいかにあるべきかという問題と切り離せないことを想起せよ)。
ここでクワインは、上位目的は真なる知識の獲得であり、我々にそれが可能であるのは進化論が示す歴史的証明(自然淘汰)により明らかとした。しかし、著者は「真理もそれじたいでは認識論上の価値をもたない」として、認識の目標は多様であり、そうした多様な目標にどれだけ役立っているかを評価軸とするプラグマティックな認識論(スティッチ)を持ち出す。
第10章 認識論にさよなら?
さなよらするのは、概念分析を方法論とする伝統的分析的認識論。
なぜなら、概念分析は「自分たちのやり方を自分たちの基準で概念分析するにすぎない」から「われわれはどのような認知プロセスを用いるべきかという規範的認識論が突きつけてくる問題」に答えられないからだ。
デカルト(方法的懐疑)が、この問題を神の存在証明で切り抜けようとしたことを想起すれば問題の難しさがわかる。クワインの進化論的証明もヤワである。そして、スティッチも解釈関数なんちゃらとムツカシイ議論を経て結局はプラグマティックな解決にすがるようである(と俺は思う)。脳の情報処理は文という単位で行われていないから、そもそも真理という概念が重要でない(チャーチランド)という議論さえもがある。

第11章 知識はどこにあるのか?知識の社会性
認識論の自然化という方向があるのならば、当然、認識論の社会化もある。俺は社会化の方が自然化に先立つべきであるように思う。個人→社会→自然というベクトルが自然であるからだ。
著者の言う「認識論の個人主義的バイアス」は、知識の実現についての個人主義(知識はひとりひとりの個人の心に宿る心的状態=信念の一種として実現される)と正当化についての個人主義(それが知識であるための正当化も各個人が 所有していなければならない)とから構成される。
しかし、これは当時の情勢(教会等の伝統的権力に対する個人の悲劇的闘い→ガリレオ、モーツァルトを想え)によるものであるし、実際のところ現在の科学は科学者の分業的営みである。
だから、「そもそも認識論は心の中の話なのか?」という話しにならざるを得ないのだ。例えば我々が地動説を信じているのは学校で習ったからであり、心の中に、天動説から地動説への転換というセンスデータを得たからではない。   

終章    認識論をつくり直す
ということで、著者の結論は
1.自然化された認識論
2.どのように知識を 獲得すべきかという問題を問う。←これが最大の難問!
3.新しい認識論の研究手法としてのコンピュータ
4.社会化された認識論
5.新しい認識論は「信念」を中心概念にしない
信念は、知識の実現の仕方の一つ。データベースや図書館も 知識の倉庫の一つ。「情報」が信念に代わるキーワードになるだろう。 ←情報科学という自然科学!
6.新しい認識論は「真理」を中心概念としなくなる(かもしれない)
となる。さて、認識論はいついかにしてつくり直されるだろうか。
所感:
・知識の古典的定義を理解しました。
・デカルトの困難と偉大を認識しました。偉大さは、客観と主観のインターフェースとして観念を据えたことである。
・カルナップ×クワインの理解が進みました。
そして最大の収穫は、観念(イデア)が形而上学の中核であることを認識したことである。だから、フレーゲは観念から意味へと言語論的展開の舵を切ったし、ウィトゲンシュタインは形而上学を哲学と分離して論理哲学論考を著したのだと理解できたことでありました。

参考までに、戸田山氏の主張は以下のような穏健な基礎付け主義・非個人主義的内在主義・非自然主義の立場(って、私の立場なんですが)の成立可能性を十分に考慮していないとする伊勢田哲治氏のコメントをリンクしておきます。

※写真はクワイン@京都賞から勝手拝借/感謝です。ちなみに京都賞でのワークショップの模様についてリンクしておきます。

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2006年10月27日 (金)

プリティ・ウーマン→永久保存

BS2放送プリティ・ウーマンを昨夜ようやく鑑賞終了。2週間ぐらいかかったかなア。まとまった時間を取れない取らないのでこうなる。そして大抵は早送りで終了ないし途中放棄とPhoto_269 なるのだ。
ところが、この映画はなんとか最後まで観ることができた。リチャード・ギアのあの朴訥そうな風貌の所為かなあ。ジュリア・ロバーツの完璧な肢体も理由に挙げられるかもしれないけれど。

ところでこのシンデレラ・ストーリーを観ながらカントの言葉を思い出そうとしたのだけれど、出てこない。そこで「カント 目的 手段」でネット検索して発見。

「人間性それ自体が尊厳である。なぜなら,人間はいかなる人からも(他人によっても,また自己自身によってさえも)単に手段としてだけ必要とされることはできず,常に同時に目的として必要とされねばならないからである。そしてこの点にこそまさに人間の尊厳(人格性)が存するのであり,そのことによって人間は……すべての物件を越えている。」

ということで、十年後この映画をもう一度観てもカントを思い出すかどうか自分自身に興味があるのでDVDに永久保存した。男はつらいよ 第35作 寅次郎恋愛塾(←台詞満載が凄いブログ)と一緒に。

※写真はJIJIGAHO 社団法人 時事画報社から勝手拝借/感謝です。

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「知識の哲学」を読む(2)

「知識の哲学」を読む(1)の続き。前回でもリンクした戸田山「知識の哲学」ノート(講義受講ノートか?)が全体的に参考になる。Photo_268

第2部 知識の哲学が生まれる現場2
(ここから→)「なぜ哲学はこんなにも長い間、知識の問題を正当化の問題と結びつけて考えてきたのか?」「なぜ正当化を認識者の心の中の問題として考えてきたのか?」という疑問に対して著者の答えは「懐疑論への応戦」。私たちは実は何も知らないのだ、あるいは、知ってると思っていることの多くをホントは知らないのだ、と言い立てる懐疑論を、何とかして払いのけようという努力が「信念の正当化」だったのだ。(←ここまで三浦俊彦の書評からコピペ)
懐疑論への応戦「信念の正当化」と、「知識現象のメカニズムを捉えようという課題とを哲学はずっとごちゃまぜにして探求してきた」と著者は言う。


第5章 「疑い」の水増し装置としての哲学的懐疑論
懐疑論の第一は培養槽の中の脳(われわれは身体をもった人間ではなく実は電気的な仕掛けにより生かされている)である。これに対しては、閉包原理の否定で反論する方法があり、詳しくはリンクを参照(知識はローカルに真であるような信念だから、閉包原理は間違っているということのようだ)。
第二は間違いからの議論(正しいと今思っていても後で間違いだとわかるかもしれない。だから我々は知っていると思っているだけで実は知らないのだ)である。これに対しては、知識の正当化における正当化プロセスが正当ならば撃退できる。
第三がヒュームの懐疑論「将来が過去に類似するという規定は、いかなる議論にも根拠づけられていず、まったく習慣から導き出されたものである」である。これは「そもそもわれわれの信念が(直接観察されないものについては)正当化を欠いている」と攻撃してくるのだから、正当な正当化プロセスでも撃退不可能である。

第6章 懐疑論への間違った対応
そこで、この第三の懐疑論への対応が問題となるが、著者は、哲学者たちはこれまで「確実で不可謬な知識を見つけてきて、その確実な知識に基づいて他の知識を正当化する路線」という間違った対応をしてきたと言い、その代表たるデカルト(「哲学原理」の項はお奨め。また、「省察」がネットで読めるんだって!)を取り上げる。
ここに方法的懐疑登場となるがその詳細はリンク参照として、問題はコギト(我思う)に辿り着いてから神の存在証明→物質の存在証明と戻ってくる際に循環的議論(デカルトの循環)があることだ。簡単に言うと、前半では欺く神によって数学的真理の正当性まで疑っているのに、後半では善なる神の存在を証明してその力で物質と観念の正当性をも証明することが循環ないし矛盾だということにある。
従って、方法的懐疑は信念ないし観念の内在的正当化に成功はしていない。ヒュームの懐疑を論駁できていないのである。もっとも、その副産物としてデカルトは自然の数学的記述という方法論を産み出した。デカルトを「なぜ自然は数理的に探求できるのかという問いについての科学哲学として読み直すことができるのではないか」と著者は言う。

第7章 懐疑論をやっつける正しいやり方
ここは言わばおまけの章。デカルトはヒュームに勝てないという決着が既についているのだから、培養槽の中の脳×閉包原理という屁理屈にノージック考えることを考える」による知識の定義(知識はローカルに真であるような信念)屁理屈で対応しようというだけの話しになる(だから「懐疑論をやっつける正しいやり方」はミスリーディングな章名だと思う)。そしてまた、日々死滅してゆく俺の脳細胞がこの屁理屈についていくのがしんどいというのもあってパス。

以上で「知識の哲学」を読む(2)終了。要するに、懐疑論の分類と、ヒュームにデカルトは勝てない(方法的懐疑批判。でもデカルトは偉大)であった。さて、次回で最終回。乞うご期待。

第3部 知識の哲学をつくり直す
第8章 認識論の自然化に至る道
第9章 認識論を自然化することの意義と問題点
第10章 認識論にさよなら?
第11章 知識はどこにあるのか?知識の社会性
終章    認識論をつくり直す


※画像はデカルトから勝手拝借/感謝です。

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2006年10月26日 (木)

「知識の哲学」を読む(1)

昨日、図書館から入手して知識の哲学を読み始めた。まだ途中だけれどスリルと発見にPhoto_267 満ちた哲学教科書である。そこで、復習(理解の確認→記憶の強化→表現による定着と知識の外化)を図るべく、駄文を連ねることにする。

まず、ブックレビューをリンクしておこう。一つは、内在主義、外在主義、正当化などの概念解説しつつ分析的にレビューしているもの、もう一つは三浦俊彦によるもので、この本の問題意識は、「なぜ哲学はこんなにも長い間、知識の問題を正当化の問題と結びつけて考えてきたのか?」「なぜ正当化を認識者の心の中の問題として考えてきたのか?」とするものである。
それから、認識論@ウィキペディア中の現代英米の認識論も予備知識ないし復習リンクとして役立つ。

では、目次ベースでアウトラインへの復元を図るという形で、紐解いてみよう。本書は、大きくは3部構成である。

第1部 知識の哲学が生まれる現場1
第1章 なにが知識の哲学の課題だったのか

知識の古典的な定義「知識とは正当化された真なる信念である」から始めて、正当化(信ずることに理由があること)の基準と更にその基準のメタ基準(基準が、真理への接近という目的に照らして正当であること)を確定することが哲学の課題であったことを示す。
俺は永年、哲学入門書ばかりを読んできたけれど、こんなこと考えもしなかったなア。

第2章 知識に基礎づけが必要だと思いたくなるわけ
「たいていの認識論的正当化は一種の推論である」しかも帰納的推論だから、帰納の正当化の問題@ヒューム(確証性の原理をとるにせよ、斉一性の原理をとるにせよ、帰納法で仮説を正当化する企ては、なんらかの壁にぶつかる)とか、決定不全性の問題(観察やデータによっては、対立する理論の中から一つの理論を選び出すことができない、つまり理論を決定することができない)が生ずる。
そこで、基礎づけ主義(命題の確実さは、絶対確実な疑い得ない根拠「基礎的信念」から正当化の連鎖によって派生的に与えられるものである)が主張される。つまり、なんでやなんでやと疑問を遡らせてこれ以上、疑問は起こらない固い岩盤に到達するべきだという考え方だ。
ところが、基礎づけ主義はうまく行かない。実際に基礎として働くような信念は絶対確実からはほど遠く、あるいは絶対確実だと思われるような信念は非常に無内容なトートロジーであって他の信念の基礎として働かないからだ。また、基礎的信念(岩盤)を「それ自体で非常に確からしい」といった程度のものに緩和しても、推論としても演繹的推論だけでなく、帰納的推論も認めることが多いから結局は循環してしまい基礎づけ主義は成功しない。

第3章 基礎づけ主義から外在主義へ
では、と゜うしたらいいか。
ここで外在主義登場。基礎づけ主義における正当化は、なんらかの信頼できるプロセスによる正当化を意味するが、これを信念を持つ認知者自身が認知できるものであることを要件とするのが内在主義、これに対して、認知者自身の認知を不要とするのが外在主義である。
外在主義にしたがえば、主体Sが内容Pを知っているというとき、Pという正しい情報をSが獲得したというだけではなくて、常に正しい情報を獲得する何らかのプロセスにSが習熟していることを意味する。つまり、知識は常に知識を生み出す習慣的プロセスの存在を含意するのである。私が妻の帰宅を知っていると言えるのは、車の音から妻の帰宅を予想するという習慣的プロセスが存在しているからである。逆にそうした習慣的プロセスが不在なままに得られた情報は、それが正しくても、知識ではない。また、そうした習慣的プロセスが単に内的に正しい(正当化できる)ものであり、外的に正しい(信頼できる)ものでないときにも、それは知識を生み出さない。

では、こうした習慣的プロセスが正当化(外的に正しい)され、信念が真ならば、「知識」としてよいか。
ここで、ゲティアが反例を提出する。ゲティア問題というのは、知識の古典的定義「正当化された真なる信念」に反例があるというものだ。それは、正当化され真であっても、 その正当化の理由があとで嘘だとわかってしまったような場合である。 理由が嘘であったため当該命題がそれで嘘になるなら良いが、 その命題自体は依然として真であるような場合がある(偶然の一致)。 このような命題はどうみてもとても知識とは言えないが、知識の 古典的定義にはあてはまるので、その意味では知識ということになる。具体例等はこちらを参照(鏡の例がわかりやすい)。
これを解決するべく、外在主義でも穏健な路線(知識の因果説、反事実的な分析など)が提唱された。

第4章 知っているかどうかということは心の中だけで決まることなのだろうか
しかし、穏健な路線は内在主義からの「情報の信頼性が本人に分かっていないんぢゃあ おかしいぢゃないか」との批判に耐えられない。
そこで、著者はラディカルな外在主義「正当化は知識の構成要件ではない(知識の古典的定義の変更)」を支持する。「知識じたいには外在的な説明を与えておき」(偶然の一致も知識だ!)「正当化を求めることが知識を獲得する道具として時として有効なのはなぜかを別に説明するという路線を選択」する。
つまり、知っているかどうかは心の外で決めて、知識としての有効性は別途考えるということだ。
これを言うならば、知識を正当化されていない信念に格下げするということ、換言すれば「信念がさらにいかなる条件を満たせば知識という尊称を獲得するのか、つまり、信念に何を足せば知識になるかではなく、人間にも動物にも備わっている知識獲得のメカニズムがいかに誤作動すると間違った信念が生み出されるのかを調べるべきだ」「知識は情報の一コマ」「生物が行っている他の情報処理」と並列して捉えようという自然主義宣言である。

以上で「知識の哲学」を読む(1)終了。以下は続編へ→乞うご期待(期待される方にはきっといいことがあります)。

第2部 知識の哲学が生まれる現場2
第5章 「疑い」の水増し装置としての哲学的懐疑論
第6章 懐疑論への間違った対応
第7章 懐疑論をやっつける正しいやり方


第3部 知識の哲学をつくり直す
第8章 認識論の自然化に至る道
第9章 認識論を自然化することの意義と問題点
第10章 認識論にさよなら?
第11章 知識はどこにあるのか?知識の社会性
終章    認識論をつくり直す

※画像は理論の発展に尽くした人々から勝手拝借/感謝です。

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2006年10月25日 (水)

規則のパラドクスからアスペクトへ

理解するとはわかること、だけでは足りない。他人に説明できてはじめて理解が足りていることになるのである。つまり、理解するとは①わかった上で②記憶して③表現まで出来るということである。
ところが、凡人は大抵、①で留まりそのうち記憶は朧になり結局「理解したのだ」ラベルしか残らないのが精々である。
そこで、②の補強手段及び③の手段として俺はネットを活用することを心がけている(つもり)。具体的には、ネット検索して様々なWEBに遭遇/ブックマークして何度も読み返して記憶を補強、更には別の見方(アスペクト)を知るのである。そして、こうやって表現することによって理解がより深まると信じている。

そんなブックマークのうちのひとつが勝手に哲学史入門だ。さきほどウィトゲンシュタインの項を読んで論理的原子論、写像理論などの記憶補強ないし別アスペクトを知ったが、気になったのは、このような規則に従うことの難問は,「帰納に関する難問」とは異なるとされている点である。
というのも、大人のための科学哲学入門で俺は
なぜ「正しい」に弱いかというと、「帰納にはまったく合理的根拠はない」ヒューム懐疑論グルーのパラドクスという二つの弱点があるからである。
この弱点を言い換えると、観察やデータによっては、対立する理論の中から一つの理論を選び出すことができない、つまり理論を決定することができない(決定不全性)ということになる。ちなみに、ウィトゲンシュタインのパラドックスクワス算もこの決定不全性に含まれるように俺は思う。
と書いたけれど、これは正しいだろうかということがずっと気になっていたからである。

そこで勝手に哲学史入門ウィトゲンシュタインを熟読すると、ウサアヒルの図を引いてアスペクトの概念を導入した上で

さて,このような概念を導入することによって何がわかるだろうか. (3)において,われわれは規則のパラドクスを見た.そこで示されたことは,われわれには,他者がどのような規則にしたがっているのかが決してわからない,ということであった.

同様に,ある一つのものを見ても,個人個人でそれが何に見えるかは,他者にはわからない.哲学探求において,第I部で規則論が展開され,第II部でアスペクト論が展開されるのにはこのようなつながりがあるのであろう(野矢茂樹『心と他者』).そして,野矢はここに「他者の心」を見る.

と書いておられる。これを読んで俺は理解した。
そうか、規則のパラドクスはアスペクト論につながり、更には「他者の心」問題にいたるのか。やはり、規則のパラドクスを全て決定不全性に押し込めるのは間違いだなあ、と理解したのであった。ネットのおかげである。

ちなみに、帰納の正当化問題に関して丹治信春「クワイン」に面白いこと(帰納を自然科学的に説明する)が書いてある。帰納は論理的に正当化できないが、帰納が多くの場合成功するのも事実。それは何故かという問いに対して

このような問いに対してクワインが有望だと考える考え方は、帰納を、期待・習慣の形成(と解釈される行動パターン)という、動物にも見られる現象との連続性で捉えることである。

つまり、人間における帰納は動物における学習の延長線上にあり、更にはその有用性はPhoto_266 進化論でいう自然淘汰によって歴史的に証明されているというのである。こういう考え方を自然主義といい、これが認識論の自然化の一端だと理解した次第である。

さて、図書館にリクエストしていた「知識の哲学」が届いているようだ。取りに行かなくっちゃ。

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馬場あき子

新聞投稿の話が続く(多分、これで最後)。
当時、「朝日見て左にすこし傾けて日経を読む毎日の朝」と朝日と日経を購読していた(いまは、朝日を読む時間と購読料が惜しくなって日経だけにしているが)。Photo_265
そこで、新聞投稿を始める際に標的を朝日にすべきか日経にすべきか少し考えた。結論は日経。読者層の量と質から考えて、断然、日経の方が入選確率は高いだろうからだ。
かくして日経投稿を始めたのだが、一首だけ朝日歌壇に入選した歌がある。

 リストラの風は冷たしこの宵は二合の酒に酔ひて眠らむ

日経は選者指定で投稿するが、朝日は指定不可だった。そして、この歌を採ってくれたのが馬場あき子である。「リストラに対する作者の位置取りが不分明」旨、評されていたことを覚えている。確かにその通り、当事者なのか第三者なのかはっきりさせず、当時流行りかけていたリストラ現象を定型の声調に乗せただけの歌謡曲短歌なのだ。そして、こういう傾向歌は日経より朝日の方が採られやすいだろうと踏んで朝日に投稿したのだった。

 あざとさは俺の戦術、歌謡曲短歌をひねり朝日に載れり

さて、馬場あき子。「民衆詩としての短歌」を標榜する「まひる野」に入会し窪田章一郎に師事し、その後「かりん」を主宰。能に造詣が深く新作能を作られたり、ご自身でも舞われるようである。

 さくら花幾春かけて老いゆかん身に水流の音ひびくなり

「さくら花」で起こして「幾春かけて老いゆかん」と詠嘆して切れた後の「身に水流の音ひびくなり」がこの歌の肝であろう。さくらの木の中に、清冽な水流の映像が湧く。いや、さくらを見ている作者の体内に水流はあるのだろうか。これは舞っていらっしゃる瞬間のお歌だという読みもある。様々な読みを許容しつつ「水流」は歳月を流れる。

あざとさも時に必要だけれども、身に響くぐらいの水流を懸命に流してみよ。それが出来ぬ俺は所詮歌謡曲歌人にもなれないなあ。凡と非凡との間の距離は相当のものとあらためて思う。

※画像はエリシナ-elishina- 能面 般若から勝手拝借/感謝です。

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2006年10月24日 (火)

分析哲学ことはじめ

俺の分析哲学ことはじめは、図書館から本を仕入れて来ることに始まった。Photo_264

大庭健「はじめての分析哲学」→文体が気に入らない、読みにくい。とはいえ、論理実証主義vsプラグマティズム(まえがき piii)を中心とした「見取り図」はなるほどと思う。丹治信春「クワイン」の副読本として読書中。

竹尾治一郎「分析哲学入門」→総論的解説書の故か、読解不可箇所多々あり。もっとも、フレーゲの三つの原理(反心理主義文脈原理、概念と対象との区別)は整理と記憶の道標となった。

飯田隆「言語哲学大全」→フレーゲに関する章を理解しつつ読了。ただし、論理と観念の違いについてはいまいち消化不良。概念は公共的、観念は私的ということだろうが、観念は反心理主義により哲学から追放したとして、概念は哲学でその後どうなったのか?ひょっとして概念はコト、対象はモノ、すなわちコトとモノの区別ということか?
引き続きラッセルに入ったけれど、着いて行けず中断中。

そして最後は丹治信春「クワイン」→これは納得しつつ読了。ネット検索して、「アメリカ哲学はこんなに面白いのだ、カッコいいのだ!」と大声で布教したい私と宣伝する書評発見、三浦俊彦のサイトであった。文脈主義からホーリズムに至る流れは「モノからコトへ」ということではないだろうか。いつか駄文をまとめたい。
また、存在論(存在するとは、変項の値となることである)、認識論の自然化も出て来る(戸山田科学哲学の源流はクワインであったか)。言葉の意味論は、認識論→存在論にまで行き着かなければならないということに思い至った。ここらあたり、いつか駄文をまとめたい。

※画像は貴重書コレクション 拡大画面(解体新書(全5巻)から勝手拝借/感謝です。

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2006年10月22日 (日)

島田修二

前回に日経歌壇を出したので、もう少し続けさせてもらう。
投稿を始めたのは1995年。当時の選者は岡井隆と高野公彦。投稿第一作(仕事とはものつくることの喜びぞ流れ流されるな「秀才」の君)を岡井隆に採ってもらって、気をよくして、この歌は岡井向け、こちらは高野向けなどと自分なりに振り分けて毎週投稿を続けた。

こうして高野公彦に採ってもらったうちの一首が次の歌である。

 我が眉に白毛一本見つけたり悲しき器ししむらの老ゆ

実は、「悲しき器」は大昔に読んだ高橋和己「悲の器」から借りた。また、「白毛一本」は茂吉の「Munchenにわが居りしとき夜ふけて陰の白毛を切りて棄てにき」が意識下にあっPhoto_263たかもしれない。まあ、選者はそんなこと先刻ご承知だったろうが。

さて、今日は島田修二。宮柊二に師事して、昭和63年に歌誌「青藍」を創刊したと「現代の短歌」にある。朝日歌壇の選者を永く務めて米国刑務所終身囚郷隼人の歌を多く選歌した。一昨年76歳での逝去に郷は追悼文を寄せている。

 ただ一度生まれ来しなり「さくらさくら」歌うベラフォンテも我も悲しき

ベラフォンテはハリー・ベラフォンテというアメリカの歌手(反体制的とは知らなかった)。この歌手の歌う「さくらさくら」を聴いての作者の感慨の歌である。
この歌の読み方は様々で、小馬鹿にされたような感覚が島田氏のなかにあったかもしれないという読み方もあるが、他方、アメリカに隷属する日本人として、ともに選択肢のない存在を悲しむというのもある。俺は平たく、ベラフォンテも作者も、人は全て「悲しみの器」、「さくらさくら」を聴けばその思い切なり、と読みたい。

ところで、ネット検索で短歌結社の光と影--島田修二の死--甦った母と子の絆に遭遇した。重い複雑な事情があったようである。利害関係の無い他者には介入できない事柄で、また、当事者の一方が死亡した以上、最早争いは継続不可能ではあるが、「悲の器」を再認識した思いを表したくて、敢えてリンクした。また、大岡信「折々の歌」を引くブログもリンクする。
            
 生きがたきこの生のはてに桃植ゑて死も明かうせむその花ざかり  岡井隆

※画像は1957年の異色ヒット・ソングから勝手拝借/感謝です。

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2006年10月21日 (土)

岡井隆

朝ドラ「芋たこなんきん」をビデオで毎日欠かさず見ている。藤山直美扮する主人公37歳(史上最年長の朝ドラヒロイン)が文学賞を得て作家として一家をなす一方で、町医者と結婚し、現在のところは作家業を成立させるために別居結婚生活というストーリーなのだが、俺の当面の興味の焦点は町医者の妹との嫁小姑対決でありそれを期待していたのが、昨日の放送では期待はずれにに終わった。というのも、主人公の人柄がよすぎて、真心から公正に小姑と接していたからである(具体的詳細はNHK朝ドラ「芋たこなんきん」日記参照)。
これじゃあ、ハナシにならへん。こんな人、ホントにおるんやろか。大抵、他人の不幸とか苦労は歓迎しないまでも(特にドラマの場合は)ある程度期待するものだけれど、この主人公はその種の邪心・邪気がまったく無いなア。ちょっとやりすぎ、と思うのは俺の邪心であることよと思いつつ昨夜寝床についた。Photo_262

さて、今日は岡井隆。前衛短歌(作品の主人公と作者が異なる、虚構を詠っている点が最大の特徴といわれている)の旗手であり、我が思い出の日経歌壇選者である。

 蒼穹は蜜かたむけてゐたりけり時こそはわがしづけき伴侶

一読、意味がとりづらい(かもしれない)。「蒼穹(おほぞら)は蜜かたむけて」とはいったいなんのこっちや、と思うのだけれど、ここはルネ・マグリット(「目に見える思考」)でも思い浮かべて深く考えずイメージとして受け止めればいい。青空に蜜(これがエロチック)である。
この上の句に対して下の句「時こそはわがしづけき伴侶」はわかりやすく、詩句そのままである。痛みも哀しみも不幸も時が解消する、時間はおまえの最大の味方なり、である。
とすると、この歌の意味は「青空に蜜、時間はおまえの味方」ということになる。矢張り「青空に蜜」が不思議として残る(その不思議さがこの歌の魅力ではあるが)。

そこで、夢の中であれこれ思考していたら、「芋たこなんきん」と今朝、結合した。
「蒼穹は蜜かたむけて」とは、心の比喩ではないか。心に蜜(エロス、色気更には欲望)を抱きながらも邪(よこしま)ではない心、それが蜜かたむけている蒼穹ではないか。

人間が人間である限り、欲望は捨てられぬ(腹が減ったら飯を食いたい)。だから、武士は食わねど高楊枝とか聖人君子は無理。
しかし、邪心は持たないことはできる。事実を正しく認識し心を公正に保って暮らしていたら、いつかええことがあるよ、ええことなくても不幸にはならないよ、とこの歌は教えてくれているように思う。「幸福に生きよ」の歌なり。

※画像はマグリット空から勝手拝借/感謝。このサイトには「マグリットは普通の暮らしを、せいいっぱいの嘘をついて維持しています」という言葉がある。
またちなみに、水燿通信70号には岡井隆の歌を鑑賞して「それ以上に私たちを感動させるのは、ひとりの人間がいろいろ苦しんだ末に、開き直って大きな決断をした、その後に訪れた、人生に対する見方の深まり」とある。不幸と虚構とは幸福のためのビタミンかもしれない。

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2006年10月20日 (金)

私の哲学半目次

ブログ開設してぼちぼち三か月。読書とネット検索と駄文ハイパーテキストのスタイルも確Photo_261 立できた。
そこで、「一人一首」半目次があるのなら、「私の哲学」半目次があってもいいなと思いつき、半目次哲学編をつくることにした。ちょうど、分析哲学入門の下地が整いつつあるから適切タイミングなり、とひとりよがりするのであった。

まずは、カント。時間・空間という色眼鏡を通してしか我々は世界を認識できない。だから、物自体は認識不可能というのがやっぱり俺の出発点である。

そして次は、ツチヤ教授との出会い。これがウィトゲンシュタインと言語論的転回への道を開いてくれた。すなわち、哲学は形而上学を語るものではないということだ。


これと符節を合わせたかのように、思想=形而上学+哲学という等式を捏造したのも出会いであった。いま思えばこれが俺の哲学解体への第一歩であった。
ちなみに、疑似科学と科学の哲学の序章に「哲学の問題領域は大きく論理学、認識論、形而上学、価値理論(倫理学)の四つに分けることができるとされている」とある。とすれば、言語論的展開は形而上学を哲学から追放し、言語分析を中心にした論理学と認識論を哲学の主要領域とするものと言えるだろう。更には、認識論を自然科学の一部に埋め込んじゃえという「認識論の自然化プロジェクト」というアプローチもあるようで、これが成功すれば、認識論も哲学から追放されることになり、ここに目出度く哲学は解体されるのである。

さて本論に戻って次なる出会いは、論理哲学論考。野矢茂樹のおかげで、事実世界(のっぺらぼうの事実)は論理空間(俺の脳内モデル)に映し撮られてはじめて構造(対象・性質・関係+時間・空間)化されるという理解に達することができた。
もっとも、論理空間(俺の脳内モデル)というのは俺流デフォルメであった。語の意味を全ての可能な文(論理形式に従った文)の中で捉えると、語の指示対象は、全ての可能な事実ということになる。この可能な事実(世界)の集合は、論理空間と呼ばれる。というのが論理空間の標準的な理解のようなので、論理空間は個人の脳内モデルを超えた言語的(間主観的)なものとなるからである。

それはさておき、かくして世界は三つの層から構成される。事実世界と論理空間と価値世界。事実世界と論理空間には主体=私は存在しない。私は事実世界と論理空間の前提なのだから。
言い換えると、
善と悪とは主体によってはじめて登場する。そして主体は世界に属さない。それは世界の限界であり、善であったり悪であったりするのは意志する主体である。だから、善悪(価値観)や美醜(芸術)は価値世界からはじめて出発するのである。価値世界は意志、事実世界と論理空間は表象、これを合わせて意志と表象の世界となる。

以上が俺の言語論的転回であるが、これとは別に、科学哲学への道筋もできた。言語論的展開が事実世界→論理空間→価値世界という三層構造をもたらすのと同様に、戸田山科学哲学も実在世界→理論モデル→公理系(法則)という三層構造を主張する。果たして、論理空間と理論モデルは同じものなのか違うものなのか、ないし、言葉は意味をもてるか、が今後の思索課題となっている。→論理空間は公共的だから、異なるものであることが判明し、価値世界⇔概念世界⇔事実世界というネーミングに俺の三層構造を修正した。かくして我が分析哲学ことはじめが始まった。

こうして考えてみると、俺の年来の宿題である「人生=損得+好き嫌い(価値観)+?」の答えも出てくるやもしれぬ。人生=損得+好き嫌い+正しい事実認識(哲学=表象の世界)のような気がしてきたなあ。

最後まで読んで頂いて感謝です。あなたにはきっといいことがあります。

※画像はsweet summer avenue. (甘夏通り) 美食の国素晴らしきベルギー その1から勝手拝借/感謝です。

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2006年10月17日 (火)

ことばは意味をもてるか

飯田隆「クリプキ ことばは意味をもてるか」を読了(二度目)。読書感想文を書こうかどうしようか考えつつ、ネット検索。Photo_260

そうや、迷っているときは他人様の力を借りようとリンクを張ることにする。
すなわち、「グルー」や「クワス算」といった奇妙な色や計算法が例に取られて前半部分で説明されている。その結果私の心の中をいかに捜してみてもことばの意味という観念をきちんとくくり出すことができないという信じられない結論に至るというのがこの本である。
言い換えると、観察やデータによっては、対立する理論の中から一つの理論を選び出すことができない、つまり理論を決定することができない(決定不全性)から「ことばは事実世界に意味をもてない」という結論になるということだ←これじゃあ、まだわからんなあ。

そこで、わかりやすくするために、例をつくってみよう。
俺が事実世界において観察を繰り返した結果、「三角形の内角の和は180度」という結論を出したとしよう。ところがここで懐疑論者登場。彼は言う。
「おまえは有限回の観察しかしてへんやろ。そやのになんで内角の和は180度という規則が正しいと断言できるねん。過去から未来を帰納することなんかできへんぞ。ウィトゲンシュタインもそう言うとるわ」
論理的には彼の言うとおりである。ここから更に、そもそも三角形というコトバに事実世界との対応(すなわち意味)があるのか→ことばは意味をもてるかという議論にまで発展させたのがクリプキである。有限回しか三角形を観察していないのだから、三角形自体を定義する規則はいくらでも考えられるやんか、そんなんおまえの心の中にだけあるのとちゃうか、と言われてしまうのである。

屁理屈である。瑣末な議論である。
一般人はこんな議論に深入りしない。みんなが三角形やと思てることで大体意味が通じてるやないか、そやったらそれでええ、三角形に意味はあるんや。
これが一般人にも受け入れられる懐疑論的解決である。コトバに意味を与えるのは発話者ではない、受話者である、ということだ。

そして言いたかったことは、これから。
コトバの意味は事実世界にあるのではない。コトバは論理空間の対象を指示しているということだ。
すなわち、三角形の例で言えば、三角形は論理空間(この場合ユークリッド空間)の対象を指示している。そしてユークリッド幾何学では「三角形の内角の和は180度」は観察結果ではなく論理的に証明できる定理であるから正しいのだ。

公理系(法則)→   理論モデル   →事実世界
ユークリッド幾何学→ユークリッド空間→(指示対象なし:厳密には)

そして、理論モデルは事実世界から抽象化・理想化された雛型であって、重要な点で類似している(おおむねユークリッド空間と同一視してよい)。だから、三角形も事実世界に意味を持つと考えてよいし、事実世界に三角形は実在すると言ってよい。

だから飯田隆の言う懐疑論的解決は、世界の三層構造モデルによる解決と同じことだと俺は言いたい。逆に言うと、ことばは意味をもてないから理論モデル(論理空間)が必要となるのである。

※画像は色彩から勝手拝借/感謝です。

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2006年10月16日 (月)

株取引謹慎宣言

いましがた肩の荷を降ろしました。
自分のアホウが身に沁みてわかりました。
株取引はしばらく永遠に行いません。

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日本の役割

Japan Mail Mediaメルマガで冷泉彰彦さんが冷静な議論を展開している。
アメリカの世論は「北朝鮮は許せないが朝鮮半島での戦争は絶対に困る」で止まっている。

なるほど、だから、石油に無関係な北朝鮮問題にアメリカは現在の立場(中国と韓国とロシアと日本とでなんとかしてよ→だから米朝直接協議は行わない)が精一杯かもしれないなあ。
そして日本は拉致問題解決し核廃棄すれば日朝国交樹立できる(カネを出せる)。
とすると、日本としては、核廃棄は中国・韓国・ロシアでなんとかしてよ、となる。

だから、核廃棄の方向を中国・韓国・ロシア中心で出してくれれば、拉致問題解決を条件に日本は交渉のテーブルにつくことができるのではないか。

カネで兵器を買うよりは永続的な平和を買う方がいい。結局はカネと外交力で北朝鮮を穏やかに崩壊させ南北統一をもたらすということだろう。この方向で日韓共同歩調をとれればいいのだけれど。

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クマと人間

テレビでクマ射殺の映像を見て、(時節柄)クマの報復は無いのだろうかと反射的に考えPhoto_259 てしまった。そんなんあるわけないのに!

無い理由1:クマには現在しかない。だから恨みに思って未来に報復するはずが無い。
    その2:クマにはカネがない。だからカネを守るために増やすために前もって攻撃するはずが無い。

してみると、時間(神の一突き)とカネとが戦争の根本原因か。なるほど、時は金なり。

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尾崎左永子

司会者に嫌気がさして見るのを止めていたサンデープロジェクト。ところが、先週、今週とビデオ録画して見ている。
昨日の放送で気になったのはクーデター噂話。司会者が、CIAがこれまでも北朝鮮内でクーデターをしかけたことはご存じですねってもちかけたとき、麻生外相と森本さんはニタニタとなかば肯定するような表情だった。現役外相がテレビカメラの前でこのような「演技」をするのは、関係各国特にアメリカに対して問題にならないのかなあ、と思う。

それから日本核武装論。「核保有、議論はあっていい」…中川・自民政調会長なんて場面があった。たしかに議論はあっていいけど、憲法9条・日米安保(核の傘)・自衛隊はセットだと思う。アメリカが頼りにならないから核武装するのかアメリカを補完するために核武装するのか、ここから議論するべきだろう。安易な核抑止力論は無事に終わる保証のないチキンレースに参加するかどうかを検討しよう、ということのように思う。

さて、今日は尾崎左永子。佐藤佐太郎門下だったが、短歌からいったん離れまた戻ったと紹介文にある。合唱組曲の作詞も多いとのことだ。Photo_258

 戦争に失ひしもののひとつにてリボンの長き麦藁帽子

2句「失ひしものの」を字余りに(多分、意識的に)して結句「麦藁帽子」は体言止めで強調する。そして4句「リボンの長き」が、失ったものの大切さと、喪失感の埋められない長い時間を暗示する。
作者は昭和2年生まれ(俺の母は3年生まれ)。「麦藁帽子」は戦争で否応無く変えられてしまった世代の人生の象徴である。

大東亜戦争は一部軍国主義者が無理矢理に国民を引きずり込んだ戦争ではない。国民のほとんどは、勝利に感激し戦争を支持し協力し遂行した。
そして、戦後日本はアメリカに民主主義を貰ったけれど、民主主義は多数決で物事を決めることである。だから、国民の多数が9条を変えて核武装するのをよしとするなら、少数は「麦藁帽子」を脱いで従うのも民主主義である。民主主義と平和と自由は(ひょっとしたら)両立しないのかもしれない。あ、アメリカが既に具体例をつくってくれていたか。

 いつまでも戦後でありたし戦ひを始める前は戦前と言ふ

※写真はかんちゃんの趣味のページ ~菜園道具から勝手拝借/感謝です。また、ぼやきくっくりFC2版 安保理で対北朝鮮制裁決議採択…韓国はやっぱダメねは、一連の状況を丹念にまとめていらっしゃる。敬服です。

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2006年10月15日 (日)

富小路禎子

本の存在を知る(新聞書評、ネット、図書館)→読む→書名・著者・キーワードでネット検索→ハイパーテキストを駆使(?)して読書感想文を紡ぐ。
こんなパターンが出来上がってしもうたなあ。今日も「ラッセルのパラドクス―世界を読み換える哲学」を読み終わったのでネット検索。さしたる収穫なかったので「戸田山和久」に切り替えて検索したら認識論を自然科学の一部に埋め込んじゃえという「認識論の自然化プロジェクト」を発見。面白そう→解体せよ哲学なあんちゃって。
ちなみに、このサイトに戸田山さんの写真があるが、山口百恵が同居しているのPhoto_8がなんとも嬉しい気分になった。

さて、今日は富小路禎子。俵万智が書評の中で歌人紹介している。

 処女にて身に深く持つ浄き卵秋の日吾の心熱くす

上の句「処女(おとめ)にて身に深く持つ浄き卵(らん)」で軽い衝撃を与えながら立ち上がり、下の句「秋の日吾の心熱くす」が文字通り熱い共感(女性読者は更に熱くだろうなあ)を呼び起こす。この共感は、体内奥深くから湧き上がる情感というべきか。また、季節は「秋の日」でなければならない。生命が芽吹く春過ぎて夏を経て紅葉落葉する秋だからこそ、このような感情が湧くのである。
俵万智は、一人の女性歌人が何を見、何をとらえ、何を歌おうとしたのかという軌跡を、私自身も追体験するような感覚を持ったと書いている。若干の境遇の違いはあるが、同じくシングルとして生き抜く「身に深く持つ浄き卵」の持ち主=女性の心意気ないし執念というべきか、と卵を持たないオトコは思うのである。

ユーミンに「男は最初の恋人でいたい、女は最後の愛人でいたい」なんて歌詞があった。
女は生命を育み、男は理屈を(例えば認識論の自然化)を紡ぐ、と小声で呟いておこう。

 春たけて女系家族の饒舌の絶ゆることなし一日は暮れぬ

※画像はOHARA MUSEUM of ARTから勝手拝借/感謝です。

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2006年10月14日 (土)

大人のための科学哲学入門

「世界的微小科学哲学入門」の準備体操で今朝はネット逍遥。
以下は、準備メモのつもりで書き始めたけれどそれなりにまとまったと思うので決定稿とする。

1.唯物論と観念論について
デカルトの方法的懐疑に見られる様に感覚は時に誤る。だから、感覚通りの世界がそのままに実在する(客観が主観を規定する)という素朴実在論(唯物論)は維持できない。そこで主観が客観を規定するという反実在論(観念論)が登場する。代表選手は、「存在することは知覚されることである」と主張したバークレー僧正である。

2.しかし、極端な観念論は受け入れられない
Photo_2 しかし、哲学といっても所詮、人間の平凡な営みの一つ。だから常Photo_3識に極端に反する哲学は人間の実感に合わず社会に受け入れられない。そこで、素朴実在論をいかに擁護するかが問題となる。素朴な実在論を擁護するべく、反実在論を取り入れるのが大人の考え方とネタ本「科学哲学の冒険」の著者(戸田山和久)は語る。いったん左(観念論)に振ってまた右(唯物論)に戻そうとPhoto_4する中庸の立場である。
例:我々の主観とは独立な客観的世界(物自体)は実在する。
  しかし、物自体は知り得ない(カント)
そして、このカントの立場を一歩進めて、対象の実在は認め(独立性テーゼ)、法則の実在は否定する(知識テーゼ)のが科学哲学でいうところの反実在論である。このあたりちょっとややこしいので、科学的実在論、観念論、反実在論(不可知論が伝統的な呼称か。左翼的な説明はこちら)について独立性テーゼ、知Photo_5識テーゼの肯否の関係を整理したのが右下の表である。また、マルクス主義(唯物論)の立場からネタ本を評した興味深いブログあり。
(参考)猫だっていろいろ考えているんです  われわれはマトリックスの住人かでは、もう少し広い意味で反実在論を論じていて面白い。

3.なぜ、法則の実在を否定するか
現象から法則を定立するのが科学という営みの一般的理解だが、法則定立は(演繹ではなく)帰納に頼らざるを得ない。演繹は、真理保存性は高いが、情報量は増えないからである。帰納はその逆、すなわち、帰納は「新しい」には強いが、「正しい」には弱い推論である。
なぜ「正しい」に弱いかというと、「帰納にはまったく合理的根拠はない」ヒューム懐疑論グルーのパラドクスという二つの弱点があるからである。
この弱点を言い換えると、観察やデータによっては、対立する理論の中から一つの理論を選び出すことができない、つまり理論を決定することができない(決定不全性)ということになる。ちなみに、ウィトゲンシュタインのパラドックスクワス算もこの決定不全性に含まれるように俺は思う。

4.世界は三層構造をなしている
そこで、ネタ本著者(戸田山和久)は次のような世界の三層構造を提唱し「科学の目的は実在システムに重要な点でよく似たモデルを作ること」と主張する。
実在世界→理論モデル→公理系(法則)
実在世界から、抽象化・理想化したモデルを作り出し、そのモデルと法則の対応付けを演繹を駆使して行う。実在世界→ユークリッド空間→ユークリッド幾何学を想起するとわかりやすいだろう。
とすれば、この三層構造は俺の三層構造に対応する(これが言いたくてここまで長く書いてきたのだ)。
実在世界→理論モデル→公理系(法則)
事実世界→論理空間 →価値世界

論理空間の形成において多かれ少なかれ価値観のバイアスがかかることは否定できないが、できれば論理空間(理論モデル)は価値中立に(右も左も、国家主義者も個人主義者も)作りたい。その上に多様な価値観が共存する。それが大人の社会である(ありたいなあ)。

追記:科学哲学の冒険 サイエンスの目的と方法をさぐる  戸田山和久著 NHKブックス】 三余亭-ウェブリブログが丁寧にネタ本の書評をされている。忘却の彼方から立ち戻り、復習する際にはここを読もう。あ、無限論の教室も書評されているではないか。ブラウアーの直観主義/排中律の否定もわかりやすく紹介されています。

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2006年10月13日 (金)

長澤一作

先日、BSでオランダ運河コンサートを放送していた。運河の上に特設ステージをこしらえて無料で開放的な雰囲気で音楽を聴かせるコンサートだ。私語でざわざわしているのだが、それにも関わらず演奏者は熱演し聴衆も思い思いそれぞれの聴き方で聴いている。音楽そのものも楽しいが、ぴったりくっつき合っているカップルや、昔日を想い起こしているのだろうか涙ぐんでいる老人などカメラが意識的に映し出す聴衆を見るのが面白い。西洋には西洋音楽が根付いているのだなあと実感した。
ところで、西洋近代音楽(いわゆるクラシック)は何故ヨーロッパで発生・開花したのだろうか。前からそんな疑問を持ち続けているのだが、このコンサートを見ていて疑問が氷解した(つもり独断)。
理由の一つは、音楽は神への捧げものという信仰にある。思い思いのポーズで演奏を聴く聴衆ではあるが、そこには共通して神を思う心があるように感じた。原罪を背負わされた人間が神に音楽を捧げることによって救いを乞う。だからクラシック音楽のような理知的でかつ情念に溢れた音楽になったのではないか。
もう一つは舞踊。我ら農耕民族の二拍子盆踊りと異なって、ヨーロッパ狩猟民族の舞踊は三拍子ワルツにある。二拍子が、農民が上から下にくわを振り下ろす永続的なリズムであるのに対し、三拍子は土地や現世のしがらみから一時的にでも抜け出そうとする現世否定享楽のリズム。かように、クラシック音楽には信仰と享楽の一見相反する要素があるのだが、それがかえって普遍性を齎した原因となっているように思うのである。

さて、生煮え一知半解の音楽論はそれぐらいにして、今日は長澤一作。佐藤佐太郎に師事した歌人である。Photo_257

 轟々として夜の海荒れゐたり貧も願ひも思へばかすか

上の句「轟々として夜の海荒れゐたり」は一首の背景をなすものにすぎず、この歌の根幹は下の句「貧も願ひも思へばかすか」にある。だからこの歌は叙景歌ではなく叙情歌である。
轟々と音轟かし荒れている海を見つめていれば、人の貧乏も希望も微かなものよ。だからといってそれがどうでもいいのではない。だからこそ大切に生きよ、幸福になれ。
人の惨めさ卑小さを知るほどに、神の偉大を思い世界があることの不思議を歌い(詠いではない)たくなる。神に捧げる一首「貧も願ひも思へばかすか」。ほら、バッハが聞こえてくるではないか。

※画像はセブンアンドワイ - 本 - グレン・グールドの生涯から勝手拝借/感謝です。

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2006年10月12日 (木)

臨検参加の是非

もし、国連決議に「臨検」が盛り込まれたら、日本はどうするか。

案1:「日本には憲法9条があるから、公海上で武力衝突につながるような行動には参加できません。臨検は日本以外の国がやって下さい」と憲法9条を楯に参加を断る案。
「自分たちの安全を守るために外国人だけに血を流せというのか、卑怯者」と言われても「憲法9条は押し付け憲法。連合国というかアメリカが押し付けたんでしょ」と小声で反論して非難を耐え抜く。
案2:周辺事態法を発動して臨検に参加する。日米共同で臨検にあたっているときに米兵が攻撃されたら日本は助勢して戦闘に参加する。これは正当防衛行為であって集団的自衛権行使とはレベルが異なるから憲法9条に抵触しない。

さて、どっちを選ぶか。まだあんまり考えていないけどイタイのキライな俺は案1かなあ。憲法9条の具体的解釈と国際貢献義務の問題が目前に突きつけられている。

あと、臨検実施した場合に北朝鮮がどう出るかの読みも関係する。臨検で武力衝突が発生しても北は軍事行動を起こさないと読めば、案2支持か。

以上、「臨検」でブログ検索して考え込んでしまった。

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独自制裁、なぜ夜間決定だったのか?

昨日の夜、政府は北に対する追加制裁を決めたが、不思議に思うのは何故夜間決定だったのか、ということである。新聞から昨日の首相動静を転記する。

17:06 参院本会議
17:30 艦艇で安全・安心なまちづくり関係功労者表彰式。この後、塩崎官房長官、安藤官房長官補。
18:20 皇居で昭恵夫人とともに天皇・皇后両陛下と夕食
20:40 官邸着
21:03 安全保障会議
22:17 富ヶ谷の自宅着

核実験の真偽を確認するまでは独自制裁決定しないとの政府姿勢だったのに、何故急遽態度変更したのか。日本の21時はNYの8時。アメリカの指示があったのではないかと下衆の勘繰りを招く。だから政府は態度変更の理由を発表すべきだったし、メディアは報道すべきである。説明責任を政府もメディアも果たすことこそが独裁国家との大きな違いなり。

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トラバ攻撃

このところ、横文字無意味トラバ攻撃を受けている。Photo_256
ブログを開くたびに多いときには20個以上トラバされていて、その都度ゴミ掃除をさせられる。
いったい、誰がこんな無駄なことをやっているんだろう。トラバを受け付けているブログは何処もこんな目に遭うのだろうか。俺だけなんやろか。

とりあえず毎回ゴミ掃除を継続するけど、攻撃がもう一桁増えるとタマランなあ。
まことに人生は苦難である。

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2006年10月11日 (水)

合理性=論理性+目的の健全性+手段の相当性

北の論理にコメントを書いたお陰で標題に思い至った。
思考・行動は論理的か、目的は健全か、手段は相当か、が合理性の判定基準である。

だから、今日の日経「核実験識者座談会」での武貞秀士発言末尾「合理的な戦略家」の部分は間違いである。

彼らは大きなデザインで核戦略をとらえている。米国をくぎ付けにし震え上がった韓国民をすべて取れば、主体思想による(南北)統一ができあがる。そう考えてテポドン2号を実験し今後テポドンXを完成しようとしているとみれば、金総書記は極めて合理的な戦略家だ。

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臨検のお勉強

参院予算委で舛添要一議員が「自衛隊が米軍と一緒に船舶臨検したときに相手船舶かPhoto_255 ら攻撃された場合、どう対処するか」と質問していた(周辺事態法は今回のケースでは適用できないと防衛庁長官答弁)。
そして、福島みずほ議員が「現行憲法下で集団的自衛権行使も可能とするのか」と安倍総理に食い下がると、総理は上の舛添質問事例を例に挙げてぐにゅぐにゅと質問をはぐらかしていた。

そこで「臨検」をネット検索したら、公海上で行うもの(領海ならば何の問題も無く反撃できると思う)で国債慣習法上認められているとあった。

現在米国提案中の制裁案が通れば、自衛隊は臨検活動を行うのだろうか?
行うのなら早く法律をつくらなくっちゃ。やる気があるのか、日本国政府。

※写真は岩手日報ニュースから勝手拝借/感謝です。

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5月急落を思い出す

昨日、今日の日経高値(16600前後)は5月急落の始まりであった5/12と同じ水準。512
株式祇園精舎のバックナンバーをひもとくと「昨晩のNY市場はWTI原油先物相場が上昇し、ダウが141ドル安、ナスダックが48ポイント安となりました。金利上昇懸念が嫌気されている感じ」とある。米金利上昇懸念、ドル不安、原油上昇の三拍子揃った急落であったと今更のように思うのであった。

ところで、西岡武夫議員が予算委員会で鋭くねちっこく質問中。Photo_7
「日韓首脳会談で韓国側から竹島は議題にしないと提案があり、我が総理は了承したそうだが、領土は国の基本。なぜすんなり了承したのか」とか
「経済財政諮問会議メンバーに、外国人が株主の半分以上を占める企業会長が就任したのは国策に外国の影響をもたらすことになるのではないか」など。

観念論(歴史認識等)ではなく具体論の大切さをこれまた今更のように思うのであった。

※写真は西岡武夫ホームページから勝手拝借/感謝です。

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2006年10月10日 (火)

今朝もネット逍遥←核実験

3時半起床。テレビを点けて1.5hほどをかけてネット逍遥。話題のほとんどが核実験だった。
今後の状況注視のポイントは以下4点。
1.核実験は成功だったのか失敗だったのか
「科学研究部門ではこれから安全性が徹底的に保証された核実験」という北の声明通りの実験だったとすると成功ということになる。もっと大規模の実験を意図したが失敗したとの見方もできるけれど、さてどうかな。そして日本国政府がいつ実験成否について公式発表するかという問題もある。ミサイルのときは相当後だったように記憶している。
2.後続実験の有無
北は後続実験を取引材料にしたいだろう。だから、数週間は無いと見るけど。
3.アメリカの態度
国連中心の解決を図ろうとしているように現時点では見えるけれど。
イラクを抱えつつ軍事行動というのはリスクが大きすぎるだろう。
それにしても、イラクでは大量破壊兵器存在の疑い濃厚というだけで侵攻した。北朝鮮は核実験されても軍事行動を起こさない。ドル帝国虎の尾を踏んだフセインは許せなかったということか。
4.中国はどこまで事前共謀していたか
事前共謀の疑い濃厚と俺は見るけど。石油パイプライン停止とか援助停止とか非軍事手段で実験を阻止することは出来たはずだ。Photo_254

北は南北統一に窮状打開策を求めているように思う。とすると、韓国の対応が最大のポ イントということになる。としても韓国一国ではなんともならない。だから、韓米、韓中関係が最大の焦点。属国日本はアメリカの掌の上でのみ踊ることになる。しようがないか。

以上、エラソーな情勢分析(ぼけ防止アタマの体操)。とはいえ切実深刻な問題である。

※画像はPUSH-PULL  これが今の日本ですから勝手拝借/感謝です。

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2006年10月 9日 (月)

宵の明星、明けの明星

「グルーのパラドックス」で言葉の意味、指示される対象について書いた後、はたと気付いた。そうか、これが意味と意義(フレーゲ)か。Photo_253

意味とは表現関係、意義とは指示関係(フレーゲは反対の使い方をしたようだ←自信ないけど)
すなわち、「宵の明星」も「明けの明星」も指示する対象(意義)は同じく金星だけれど、表現関係(意味)は異なる。
これに対して、「こども」は意義(指示関係)は常時変動しているけれど、意味(表現関係)は変わらず動かない。

これを世界との関係で考えると(世界的微小科学哲学入門予告編)、
文(公理系)⇔モデル(理論)⇔実在世界という三層構造において、
意味(表現関係)は文⇔モデルの対応、意義(指示関係)は文⇔実在世界の対応ということになる。これが俺の発見(と自慢するものではない)。

※画像はエミーリエ_フレーゲから勝手借用/感謝です。

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北朝鮮核実験に関する妄想

昨日の日本テレビTheサンデーでの李英和助教授の見通しに納得。
「北は確実に実験する。テポドン等失敗続きの先軍政治の失点挽回し国内を引き締めるために核実験は不可欠。こうして国内体制を再構築した上で六カ国協議に復帰したいのではないか。核廃棄の代償を求めたいのだろう。安倍訪朝の要請も来年出てくる」。
中国は金王朝朝鮮のチャウシェスク型崩壊は是非とも避けたい。中国の共産党独裁体制への跳ね返りを恐れるからだ。
そして、金王朝を緩やかに着陸させて出来れば中国の影響力の下に南北統一を図りたい。経済的にも軍事的にも半島への影響力拡大になるし、台湾併合への重要なマイルストーンとなるからだ。
そこで、期待したいのは日本のカネ。日朝国交樹立により北に支払われる賠償金が重要Photo_252 となる。このカネで北経済を離陸させ金王朝軟着陸も出来れば中国にとっては一石二鳥どころではない。
だから安倍総理を北京で熱烈歓迎したということだ。北京では、靖国でも核実験阻止でもなく、核実験以降が話されたと俺は妄想推理する。

さて、問題はこの中国シナリオに日米が同意するか否かだ。アメリカは、核拡散が防止できて半島への中国影響力が過大にならなければこの話に乗る。拉致全面解決に結びつくのならば日本も乗るだろう、アメリカの指示に従って。

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世界的微小「グルーのパラドックス」入門

博識な鏡像さんが「自分もよくわからない」というコメントを寄せてくれたので、もう一度ネット検索→やっぱり、ぴたっとくる記事見つからず。そこでネタ本(戸田山和久「科学哲学の冒険」)を基に自分で書いてみることにする。

まず問題の背景。帰納に合理的根拠があるかという疑問が背景だ。
ひとつは、ヒュームが提出した懐疑論。昨日まで太陽が朝、のぼってきたから今日も朝、のぼるのかという懐疑である。因果律はわれわれの習慣にすぎないとするヒュームからは当然、出てくる懐疑である。
もうひとつが、グルーのパラドックス(グッドマンという人が考案)。ヒュームの懐疑をなんとか握りつぶしたとしても、言語の曖昧さ・恣意性(分節の恣意性)に発するパラドックスだ。

袋の中に入っている宝石エメラルドの色を毎日一個ずつ調べてエメラルドの色を帰納→結論しようとしているとしよう。エメラルドの色ってけっこう分類しづらい。緑(グリーン)なのか青(ブルー)なのか(脱線:そういえば交通信号の青もそうだなあ。緑と表現する人がいるけど、俺には違和感あり)。
袋から一個ずつ取り出して、今日まで調べたものが全て緑だったら緑、青だったら青と(ヒュームに沈黙を強いて)帰納→結論する場面である。

さて、ある時点(例えば2006年10月9日)まで調べて全部が緑だったから次に調べるのも緑と帰納してよいかどうかが問題だ。ヒュームに沈黙を強いればこれは緑だと帰納→結論してよいことになる。
しかし、ここで新たにグルーという色を「ある時点2006年10月9日までの緑の色、次の日からは青の色」と定義しよう。そうすると、エメラルドの色は前者の見方では今日まで緑だったから明日も緑、後者(グルー定義導入)では今日まで緑だったからグルー、すなわち、明日は青ということになる。エメラルドの色は緑、かつ、青と両立しない結論になりパラドックス成立となってしまう。

批判の第一。グルーなどという今晩から意味が変わっちゃう言葉を使うのはインチキや!
反論。いや、グルーの意味は変わっていない。グルーを「今日までは緑、明日からは青」と定義しなかったろう。「今日まで緑のものと明日からの青のものをグルー」としているのだから今晩で意味は変わっていない。グルーは今日も明日も同じ意味だ。

批判の第二。意味は変わっていないとしても指示される対象が変わってしまうやんか、やっぱりインチキや。
反論。指示される対象が変わる言葉は他にもある。たとえば「こども」。こどもが当てはまる人間の集団は毎日代わっているではないか。指示される対象は変化しても意味は変わらない。グルーもそれと同じ。

という理屈で、ヒュームの懐疑(帰納の合理的根拠の問題)は解決したとしても、述語(緑とか青とか)の問題は残る。グルーのような指示される対象が変化するような言葉を述語とするような場合には帰納が成り立たないという問題である。ちなみに、帰納してよい述語を投射可能な述語と呼ぶそうだが、ここで投射可能か不可能かを区別する基準は何かが問題となるのだ。例えば「調査済み」という述語も投射不可能。「これまで調べたエメラルドは全て調査済み」が正しいからといって「次に調べるエメラルドも調査済み」とは言えないだろう。

さて、世界的微小科学哲学入門の前戯として世界的微小グルーのパラドックス入Photo_6門。成り立っているだろうか。ようく考えてみると「グルー」の例はパラドックスではないようにも思う。緑と青とグルーは全て両立するのだから。これに対して「調査済み」の方は確かに帰納は成立しない。というか、これは自己言及のパラドックス(ラッセル)の一部ではなかろうか。グルーも調査済みも自己に言及して自己を限定する述語なのだから。

以上、この文章は正しくありません。→左記が正しいとすると、正しくないから正しい。
                       正しくないとすると、正しいから正しくない。

※画像はessay about Interfaceから勝手拝借/感謝です。

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2006年10月 8日 (日)

今朝のネット逍遥

いま一番の関心は北の核実験と日中・日韓首脳会談。いったい、どちらが先なんだろう。Photo_251
短く斬れ 北朝鮮の核実験声明と今後の半島情勢・・もはや北崩壊は時間の問題は、日中首脳会談に愕然とした北が実験予告声明を出したとの見方だけれども、中朝共同謀議→日中首脳会談実施決定→実験予告声明という流れも考え得る。核実験後にアメリカのピンポイント爆撃があるかどうかを見極める一手段としての首脳会談、更には、樹立間もない安倍政権を利用した日米離間工作という見方もあり得るだろう。
Trend Review  拉致問題を食いものにする安倍首相などという週刊誌情報もあるので気になるところではある。

ひとわたり北がらみを逍遥したところで、「枝野幸男」で検索→ほほう、皆さん、ちゃんと観ていらっしゃる。枝野議員の質問に対する評価が高い(例:南部義典の国民投票つれづれBlog)。枝野議員のブログがあれば上げ潮路線、いかに具体化するかをトラバしようと思って検索したのだけれどHPしかないようなので、しようがない面倒くさいけれど、この記事URLをメールしておこう。

最後は、グルーのパラドックス。これを簡素明快に紹介している記事はないかと検索したら、科学哲学の冒険:サイエンスの目的と方法をさぐるにぶち当たってしまった。こちらで書評されている本をネタ本に世界的微小科学哲学入門を構想中。

※写真は衆議院議員枝野幸男の公式政策発信サイトから拝借。自民党との対立軸明確化を切に望む。

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2006年10月 7日 (土)

茂吉の蛍の歌

居眠りしてて思い出した茂吉の歌。Photo_250

 草づたふ朝の蛍よみじかかるわれのいのちを死なしむなゆめ

茂吉は、生涯に全17冊の歌集を発表し全17907首の歌を詠み、70歳で永眠した。
前登志夫は茂吉のこの歌を当然に意識して「暗道の」を詠んだのではないか。

※画像はhttp://www.kitte.go.jp/mado-han-menu.htmから勝手拝借/感謝です。

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上げ潮路線、いかに具体化するか

昨日の衆院予算委代表質問。枝野幸男議員が障害者自立支援法に関して質問しているPhoto_249 際に感極まって涙ぐむ場面があった。
それはさておき、枝野議員の質問でよかったのは「ほんとうに景気はよくなっているのか、円安と賃下げ下請け工賃下げで大企業がよくなっているだけではないのか、内需を喚起して底上げにつなげるべきだ」とした点だ。以上、今朝の新聞質疑概要にはいずれも無い。

ところで、生活保護世帯数、初の100万突破・05年度、保護費予算は国と地方合わせて2兆7千億円とのこと(日経朝刊)。同じく日経朝刊経済面コラム「底流」に「経済政策、司令塔は幹事長」とある。上げ潮路線の具体化期待、中川実質総理殿

※画像は2000年総選挙・選挙ポスター集から勝手拝借/感謝です。

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前登志夫

哲学に独我論なる考え方がある。この世界に確実に存在するのはこの私だけ。この机とか本とかあるいは他人とかの実在は、私が認識するからこそ存在する、すなわち、実在は私の脳内の存在とするのである。
普通の実在論的考え方(実在が先行。実在を我が認識する)を全てひっくり返した極端な認識論(我が先行。我が実在を作出する)である。
ここまで極端に走らなくとも、例えばカントは「認識が存在に依存するのではなく、存在が認識に依存する」(コペルニクス的転回)ともっと常識に近く、更には常識よりも健全な見方を提供している。事実は立体的、すなわち、丸いものでも見方によっては四角、見方を変えれば違う姿が見えてくるという健全な認識論である。
つまり、独我論はカントの健全な認識論を更に一歩進めた(後退させた?)認識論ということになる。ウィトゲンシュタイン「論理哲学論考」は、俺に言わせれば、各人がそれぞれの論理空間を世界の存在論的経験を基に構成するが(ここが独我論)、論理と言語(各人に共有可能な論理形式)によって世界は相互理解可能とするものである。
すなわち、世界の内容は独我論だが、論理と言語によって世界の形式は実在論といえよう。今のところの俺には、これがぴったりくる考え方である。

さて、今日は前登志夫現代の短歌の歌人紹介に「柳田・折口の民俗学を学び、郷里の先人・前川佐美雄を知り日本の定型歌人としての短歌を作る」とある。Photo_248

 暗道のわれの歩みにまつはれる蛍ありわれはいかなる河か

初句・2句「暗道のわれの歩みに」で起こして、3句・4句前半「まつはれる蛍あり」と詠う。4句が句割れ、4.5句切れとでも言おうか、4句後半・結句「われはいかなる河か」と問いかけて歌は終わる。
「暗道のわれの歩み」とは、手探りで歩む我が人生であろうか。そこにまといつく「蛍」。「蛍」がなにものかわからないけれどいつも私につきまとう、右に行ったり左に振れたり少し距離を置いたり近づいたり。そして更なる疑問は「われはいかなる河か」。いったい「われ」は何だろう。「蛍」と「河」が響き合って、世界を(我を)問いかけるのである。

私は私。あなたはあなた。世界の内容は異なるけれど、いつかはわかりあえる。論理と言語がつながっている限り。あ、蛍のいのちは短きか。

※写真はONE NOTE  salvia 蛍を見に行くから勝手拝借/感謝です。

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2006年10月 5日 (木)

後場:沈思黙考

言うべき言葉なし。Photo_149

※大引けの株式祇園精舎→大幅反発・・・抱き線を否定

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前場:属国相場を越えず

上値が重い。しかし、昨日と違うのは高値株が多いということだ。だから期待が持てるといPhoto_148 う見方あり。
国会中継、ストボ、CD作成並行処理しつつ相場を見てをり。

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中国に一回でも行けばマスコミは黙る

標題は今朝の日経「首相中韓歴訪へ タカ派払拭狙う」にあった安倍首相が周辺に話した言葉。
「マスコミは黙る」ということは「国民も黙る」ということか。なんでこんな不用意な発言が新聞に掲載されるんや。

中国首脳と個人的信頼関係確立を、中朝に楔を打ち込めとエールを送るつもりだったのに。
安倍ちゃん、もっと謙虚に慎重にそして大胆に。国民はあなたの人格を見定めようとしているのだ。

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グールドの再来!?

BS2放送録画のゴールドベルク@シュタットフェルトをもう一度聴いている。Photo_247
音楽こそは我が鎮魂歌。そしてゴールドベルクは神に捧げた魂(バッハ)が生んだ名曲であり、このビデオは我が永久保存DVDなり。

※画像はフラメンコ超緩色系:シュタットフェルト [065]から勝手拝借。当日コンサートの詳細記録及び分析あり。感謝です。

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今日の戦闘旗:歴史は繰り返す

歴史は繰り返す。一度目は悲劇として、二度目は喜劇として。Photo_246
今日は昨日と同じ動きを再現するはずがない。市場参加者が昨日で学習しているからである。
すなわち、一度目は悲劇(存在論的経験だから)。二度目は喜劇(学習効果が表れなければ)。

寄り付きは昨日より高くCMEより低く始まるだろう。しばらく様子見の後が問題だ。
悲劇か喜劇か。果たして俺の運命や如何。なす術もなく傍観する吾なり。

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ぎゃお!CME16355

NY連騰(特にナスダック+2.11%)。ああ、今日も苦難の日が続く。Photo_245
しかし、需給の悪さ(買わない外人、買えない個人)は変わってないし外部材料(北朝鮮核問題)にも変化はない。アメリカが原油安にはしゃいでいるだけ、としておこう。

もっとも、北が先物売り・空売りを仕掛けていて昨日で利益確定・戦線離脱し、今日は国内機関投資家と一部の金持ち個人が現物を本腰で買って来るのだったら16400もあるかも。そうなったら耐えられぬなあ。もっと光を。
どこまで信頼できるか否かわからぬが「寄付き前外国証券経由売買高」が注目材料(情報操作なのに)。

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政治が得意な中国人、政治が苦手な日本人

橋爪大三郎「隣りのチャイナ」を読んでいたらわかりやすい政治文化論があったので記録しておこう。

「政治とは、人が人を支配する現象」とした上で、かかる本質はどこでも共通だが「政治に対する態度のほうは、文化によって違いがある」とする。Photo_242
キリスト教など一神教では「人が人を支配するのは正しくない」と考える。「神が人を支配するべきであって、人は神に仕えるべきだからだ」。人による支配は「神を冒涜」することになる。そこで教会が国王に戴冠することによって支配の正統性を保証する儀式が必要になったり、「法の支配」を取り入れたりする。「神との契約=法に従う義務」を作り出すのである。
なるほど「法の支配」は一神教ならではのものであったか。人は神以外に支配されてはならず、自由は神によって与えられたのだから「法の支配」で自由を保護すべきということになるのだろう。

「中国の場合、キリスト教の神にあたるものがないので、人が人を支配することはタPhoto_243ブーでも何でもなかった。反対に、人が人を支配するのは当然のこと、正しいことだと考えるのが中国の伝統」となる。だから、「すぐれた政治家の条件」を考えてそれに適合した人物に政治を委ねることになる。有能で、道徳的に正しい人物を選び出す手続き=科挙が必要となり、政治はすぐれて世俗的なことがらとなり、儒教(仁義礼智信)がそのバックボーンとなった所以である。

「日本の場合、絶対神の考え方がないのは中国と同じだが、人が人を支配することになんとなく抵抗がある。政治があるのは仕方がないが、できればなしですまPhoto_244 せたい、とたいていの日本人は考えている」。だから、古代の中国からの律令制度輸入もうまく行かなかったし(律令制度導入時の指導者聖徳太子は「和を以って尊しとなす」と言明せざるを得なかった)、アメリカからもらった民主主義も日本流(利権と談合)になってしまった。「日本人は、政治が苦手」なのだ。

つまり、政治が終局的には信仰に帰着し法治となる一神教(アメリカもイランも同根!)と政治は極めて世俗的事柄であり人治である中国、できれば政治なしですませたい談合体質日本ということになる。わかりやすいなあ。ステレオタイプ化するのは行き過ぎだけれどこうした視点は持っていてわるくはない。人治中国(儒教国朝鮮も同じ)に対する談合日本。日中日韓首脳会談の成果や如何。

「信じられる人間を探す中国人、信じられるものを探す日本人」という対比もあり、なかなかこの本、面白かった。異なる文化を敵視する短絡的人間に読んで欲しいけれど、短絡的人間はこんな本、読まないだろうなあ。自家中毒(ナルちゃん)こそは破滅へ到る道なり。

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2006年10月 4日 (水)

後場:金曜に戻る

金曜日の「最後のナンピン」の水準に戻した。Photo_147
ようやく相撲になってきた。

※大引けの株式祇園精舎→高値波乱・・・包み足出現

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前場:引け直前の下落

な、なんだ。この下げは。Photo_146
と、びっくりするほどのことではないかもしれないが。
取引も謹慎。ポジショントークも謹慎。

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北が真面目に統一を目論んでいるとしたら

ゆすりたかりではなく、統一の手段として核兵器を利用しようとしているのなら、最悪のシPhoto_241 ナリオである。

しかし、このタイミングで核実験予告声明を出したということは、日中・日韓会談にぶつけて日中韓がアメリカに譲歩を迫ってくれるのではないかという甘い読みが北にあるのかもしれない。
とすると、いい荷物を背負わせてくれたと安倍総理は微笑しつつ北京、ソウルに行きなはれ。

外交力のまずは試金石である。日中韓共同声明「核実験は自滅行為だ」を出せ。

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今日の戦闘旗:核兵器の廃絶を

今日のモーサテ予想(岡三・松本氏)は16200~16350と強気。Photo_240
ダウ最高値は原油58ドルが要因のようだから、強気にも相当理由あり。
しかし、原油安はオイルダラー萎縮要因、また、北ゆすりたかり野郎の核実験脅迫は地政学的リスクだ、とポジショントークしておこう。

いずれにせよ、世界から核兵器廃絶を(俺の生きてる間は絶望的だが)。

※写真はラッセル・アインシュタイン宣言-日本パグウォッシュ会議から勝手拝借/感謝です。

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米ダウ史上最高値終値突破

慶賀である。しかし、ナスダックは△6.05とダウ程の上昇ではなく、CMEは16250と控え目Oda である。これは何を意味しているのであろうか。
今日の東京市場が注目される(と他人事みたいに書いてみる)。

※写真は外務省 ODA・情けは他人のためならずから勝手拝借。このオッサン、いいこと言っています。失言癖が無ければもっといいんだけどなア。

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山中智恵子

振り返れば、思い出の1999年忘れ得ぬ1995年など記憶に残る年がある。
1968年もそんな年である。当時、まだ学生だったけれど、この年はプラハの春パリの5月テト攻勢の年として今でも記憶に残る年である。学園紛争から新宿騒乱事件(これも1968年)へといわゆる70年安保闘争が街頭行動に発展し盛り上がった騒然とした年だった。Photo_239
今にして思えば熱病である(俺は熱病から身を遠ざけて名曲喫茶とパチンコの日々だったが)。学生だけではなく世間一般に造反有理の雰囲気があった。新聞に毎日、今日の反日共系全学連の動きというコーナーが掲載され、街頭行動を肯定しないまでも面白がる空気があった(特に讀賣新聞)。北京、チェコ、パリ、ベトナムそしてアメリカ(ベトナム反戦運動)と世界中で反権力、強いものに対する抵抗があり、日本のメディア(今も昔も)がこうした世界の動きを材料に世間を煽り、煽られた人々が踊るという構図である。

ベトナムの戦火を止めよ、世の中を変えたい、変わってほしいという大衆の思いは正当であるとしても、マスは極端に振れるものである(株式相場を思え)。新宿駅で電車を止めたり投石などせずにもっと着実な行動が継続する道があったかもしれないのに、最後は浅間山荘事件で幕を閉じる。学生たちの多くは長い髪を切ってネクタイを締めるようになる。熱病は潮が引くように消失した。

さて、今日は山中智恵子前川佐美雄に師事した歌人である。

 われら鬱憂の時代を生きて恋せしと碑銘に書かむ世紀更けたり

初句「われら鬱」と起こして「憂の時代を生きて恋せしと」で継なぎ、「碑銘に書かむ」で転じ「世紀更けたり」と閉じる。起承転結のお手本のような歌だ(そうか、起承転結を意識して作歌するというのも技法だなあ)。
憂鬱を倒置して「鬱憂」。しかも初句2句に跨らせ重い声調を作る。そしてこれが「恋」と対置され「碑銘」(死を暗示)へと発展し、「世紀」も我も「更け」るという感慨に到る。

たしかに20世紀は鬱憂の時代である。いやそれどころか戦争と革命の悲惨な世紀であった。いったい何千万何億の人が戦争と革命(圧制:収容所群島ソ連と餓死数千万中国を思え)の下で生命を落としたことだろう。
そんな世紀の中葉に俺は幸運にもこの列島に生まれ(あの半島に大陸に生まれていなくてよかった)、ベルリンの壁崩壊をテレビで眺め今はネットで毎日相場を見ている。まことに時間と空間の幸運に恵まれたものだ。
だから、人を煽ることもせず煽られもせず安穏に暮らし続けたい。愛国心とグローバルマネーの亀裂を横目に市井の生活を守りたい。それが我が林住期である。

 穏やかなニヒリストあり絶望も希望も持たず悦楽に生く

※写真は京都発ー安全保護具屋:ヘルメットのページですー作業服・安全靴・ヘルメットの事ならわくわくワールド ようこそ働く人の世界へから勝手拝借/感謝です。

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2006年10月 3日 (火)

後場:買い方強し

売り方、崩そうとする動きあれど買い方防戦に崩せず。Photo_145
もっとも、プラ転ならず。
やはり、相場は夜つくられるか。

※大引けの株式祇園精舎→小反落・・・押し目買い意欲の強い相場

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戦争経済のマネジメント

ブログ村新着記事で日本経済の行く末と戦争/きっこの日記/サラリーマン人生戦略日記116 と遭遇。内容の当否は別にして「戦争経済のマネジメント」という言葉が印象に残った。

カネの運用先として、戦争経済部門を考えているヤツがNYにロンドンに(東京にも)いるのは確実であろう。

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前場:退屈な午前

代表質問中継をBGMに板を時々眺めながら、「安倍 訪中」でブログ検索→突起情報なPhoto_144 し。
そうそう、突起情報といえば1兆円小泉、2兆円竹中などという悪質なデマが流されているのを昨日発見(コメントに「飛ばし記事は、相手を利する」なる名言あり、同感)。

ブログで誰でも情報発信、黴菌も情報発信。健全な社会には黴菌も棲むなり。

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愛国心とカネ

人は(一般大衆は)国境を越えられないが、カネは(資本は)易々と国境を越え、カネの意Photo_236 志と価値観を実現しようとする。だから、世界は多極化する。つまり、アメリカ一極体制はいつか崩壊する。事実、ネオコンと称されるホワイトハウスの一部の人たちはイラク戦争でアメリカという国を弱体化させようとしているのではないかとの憶測もある。こうした憶測者からすると最近の 原油安はネオコンと国際協調派と産油国の妥協の産物となる。
Photo_238

ここに、愛国心とカネとの抜きがたい亀裂がある。そしてまたドル帝国軟着陸に向けて日中米呉越同舟協調の芽もある。

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人口の多い国

米国の人口が3億を越えたと日経朝刊にあり。世界の人口上位10カ国ランキングもPhoto_235あり、 記録しておきたいなと思い検索したら世界の人口を発見。
ロシアの人口は1.4億。減少に悩んでいるそうな。

むかし、教科書で習った頃と人口構成が変わりつつある。
しかしながら、根本的な価値は人間ひとりひとりであることは変わらない。国境がその邪魔をしていると思う。

※画像はAmnesty_Booksから勝手拝借/感謝です。

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今日の戦闘旗:色即是空

Photo_233 今朝のモーサテコメンテータはブル田中勝博氏。予想レンジ下限15900(クリップ)を口頭で16100に修正していた。強気コメント内容との整合性を重視したものか。
そして、俺は今日は空で望む。だから色即是空のみ。空即是色は削除。

 薄氷を踏む思ひして先物をなにゆえ売るか誰も頼まずにPhoto_234

ということで、今日の戦闘旗は名優藤山寛美と直美。芋たこなんきん第一回鑑賞快感したけど直美ねえ、随分太めになってもたんとちゃう?

※写真はart random - 人生のセイムスケール - age 60プロフィールから勝手拝借/感謝です。

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ところでアメブロ

アメーバブログが午前2時 →午前7時までメンテ中。
メンテ時間も長いし、頻度も高いように思う。よかったあ、ココログにしてて。

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日記

目覚める。何時かなあ。3時前だとちっとヤバイなあ。Photo_232
トイレに行く。3時40分か。上等上等。もう起きることにしよう。
PC電源ONしてお茶を冷蔵庫から。着替える。
お茶を飲みつつPC立ち上がりを待つ。量販店で一番安いのにしたからメモリ貧乏。立ち上がりが遅い。「現代の短歌」山中智恵子の項を眺める。まだ一首未決定。
PC立ち上がる。即ナスダウチェック。よかったあ、下げてる。ダウは史上最高値を一旦抜いたようだが下げてる。何があったのかなあ。NIKKEI、ロイターを見るけど情報なし。

さて、一首決めないといけないけどどうしようか。と思いつつその他ニュースをチェック。安倍訪中確定したみたい。何か交換条件あるだろうなあ、それとも中国が無条件受諾するほど追い込まれているのか、いや安倍政権側が補選サプライズ欲しさでおねだりしたのではないかなどと思いは揺れる。

もう一度読み直して、一首決定。しかし、マクラが思いつかぬ。今日はパスして穴埋めに何か書こう。日記がいい。

かくして我の朝は始まりにけり。昨夜プール体重:84.6→84.2。前場後場ともに85を切ったのは初めてではなかったか。決して心労の所為で体重が減ったのではない。

さて、どんな画像をネットから検索・調達しようぞ。

※画像はいづつやの文化記号 レンブラントのダナエ勝手拝借。ダナエのお話、認識しました。感謝です。

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2006年10月 2日 (月)

後場:一段高←なんで?

総理中韓訪問が効いているのかなあ。Photo_142 Photo_143
オイルダラーが買ってるとか、機関投資家が本腰を入れたとか情報が流れるけれど。
NY下げたらどっと下げるだろう、と悔し紛れしつつ証拠金の心配をする。

ん、引け間際に日経現物急落←ハイテク株が下げたそうだ。

※大引けの株式祇園精舎→下半期相場入り・・・短観を好感・アイランド解消

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前場:短観上げ→ノートレード

強い。強すぎるほど強い。Photo_141
下げればミニ買い参戦も考えられるけど、下げない。
では、売りかといえばラージもミニもこれ以上俺は心理的に売れない。
ということで、ノー・トレード。NYが冷やしてくれるのを待つしかないなあ。

現物も買う気がしない。ヤフーの押し目を待っているのだけれど。

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今日の戦闘旗:芋たこなんきん観音

Photo_230 Photo_231 今週は16000台固めの週だけれども、15900に一旦は落ちてくれないと困るのよね、オレ。
しかしそれは俺の意志→価値観の問題であって、表象の世界(事実世界と論理空間)は俺の意志とは独立に推移するのである。

そこで、独立推移する表象世界に向けて二人観音に登場願おう。外形的に対照的な、いしだあゆみと田辺聖子。おせいさんの写真は有鄰 No.437 P5 人と作品 「田辺聖子と 『残花亭日録』」から勝手拝借/感謝です。ここには

「連れ合いに先立たれると男はガクッとくるけど、女は“やっぱり、あなたみたいな人はいなかったわ”なんて、うまいこといいながら元気なものです。 意気消沈せず、あらまほしき(ありたい)自分というのを文章にしてみるといいかもしれない。 おっちゃん、きっと見ていてくれてる、って思っているんです。」

おせいさんの言葉あり。人生は、あはれ且つをかし、であります。

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耳学問

こころは思い(揺れ動くこころ)と情(対他)と心(対自)。そして俺が忘れていたのがPhoto_229意志。
とすれば、こころは意志と思いと情と心になるのだろうか。
いやいや、こころは知(心)と情(思い・情)と意(意志)。つまり、知情意という昔から言われていることと一致するのである。

ところで、耳の形と知情意とが対応するのをご存知か。
 上方の形は知。狐などは知が発達している。
 中部は意。意志が強い方は中ほどがしっかりしている。
 下方の形が情。耳たぶの立派な方(福耳)は情に厚いないし強い(こわい)。
以上を称して耳学問。酒席で女性に話すと受けること請け合い(実績あり)。

※画像は耳つぼダイエット(耳ツボダイエット)なら東京都(練馬区,板橋区)の山口鍼灸接骨院から勝手拝借/感謝です。

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大西民子

「論考を読む」をもう一度読んでいる。そこで、「幸福に生きよ」に関して重要な追加。Photo_228

6.41 世界の意義は世界の外になければならない。世界の中ではすべてはあるようにあり、すべては起るように起こる。世界の中には価値は存在しない。

ここに世界とは、事実世界(俺の造語:主客未分・座標系未導入ののっぺらぼうの世界)と論理空間(時間空間座標系が導入済で対象と論理形式により分節された世界)のことである。この二つの世界には意義はない。世界の意義は「私の意志」によって齎される。

ここで、野矢茂樹は「草稿」のウィトゲンシュタインから引用する。

善と悪とは主体によってはじめて登場する。そして主体は世界に属さない。それは世界の限界である。
(ショーペンハウエルのように)こう述べることもできる。表象の世界は善でも悪でもない。善であったり悪であったりするのは意志する主体である。

そうか、「意志と表象の世界」はそういう意味だったのか。表象の世界(事実世界と論理空間)に対して、意志が善悪すなわち価値を齎し、価値の世界が形成されるのである。
すなわち、思想=形而上学(価値観)+哲学。価値観は哲学の対象ではなく形而上学の対象。そして価値観の根源をなすのは、あなたと私のそれぞれの意志である。野矢茂樹の文章を引く。

世界の事実を事実ありのままに受け取る純粋に観想的な主体には幸福も不幸もない。幸福や不幸を生み出すのは、生きる意志である。生きる意志に満たされた世界、それが善き生であり、幸福な世界である。生きる意志を奪い取る世界、それが悪しき生であり、不幸な世界である。あるいは、ここで美との通底点を見出すならば、美とは私に生きる意志を呼び覚ます力のことであるだろう。

かくして世界は三つの層から構成される→意志と表象の世界=事実世界と論理空間と価値世界。そして人生は世間と社会と魂であり、こころは思い(揺れ動くこころ)と心(対自)と情(対他)である。以上、3×3×3=27。ああ、アタマがイタクなってもた。

さて、今日は大西民子前川佐美雄に学び、後に木俣修に師事したとある。

 かたはらにおく幻の椅子一つあくがれて待つ夜もなし今は

初句「かたはらに」2句「おく幻の」と句跨りの晦渋声調が3句「椅子一つ」で切れ落ち着いて、下の句「あくがれて待つ夜もなし今は」の嘆く倒置詠嘆につながる。
「あくがれて待つ」のは帰って来ない夫である。「かたはらにおく幻の椅子一つ」が大きな空白として作者の価値世界に存在する。
なぜ、椅子一つごときが大きな空白なのか。それは、作者が夫との暮らしを意志しているからである。意志して得られないもの、それを人は希望ないし絶望と呼ぶのである。

 妻を得てユトレヒトに今は住むといふユトレヒトにも雨降るらむか

あまりに切なくてもう一首引いてしまった。過去は言語的制作物であるから、人が意志すればいつまでも現在である。そして空間も言語的制作物であるからユトレヒトも日本も同じく「ここ」なのであろう。野矢茂樹はこう書いている。

私の人生がかくもみじめである、あるいは満ち足りているのも、それは私の人生の世俗的なエピソードのためではない。ひとえに私の生きる意志にかかっている。

大西民子には申し訳ないけど、夫との別離は人生の世俗的エピソードにすぎない。しかし彼女は少なくとも別離を忘れないことを意志した。だから彼女の人生において夫との別離は世俗的エピソードに止まらず、かくも美しい歌として結晶した。

まさに人生は「意志と表象の世界」である。「生の器」を生きる意志で満たすこと。ウィトゲンシュタインはそれを「幸福に生きよ!」の一言に集約したのである。

※ネット検索で大西民子を透かしてみればに遭遇。大部な論稿です。ちょっと拝読したけれど大部な論稿。拝読完了までもう少し時間が必要。
※画像は映画の心理プロファイル  『トーマス・クラウン・アフェアー』(1999 米)から勝手拝借/感謝です。『ヤマアラシのジレンマ』(byショーペンハウエル)というものがあるそうな。

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2006年10月 1日 (日)

雨天のため中止

勝ったときのための歌を用意しておったに。Photo_227

 首の皮一枚残し希望あり虎応援も先物売りも

※写真は刺青 日本の伝統芸術 「櫻虎至誠」 虎(とら)から勝手拝借/感謝です。

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ユーミン、みゆき、真弓

Photo_225 俺の三大女声である。
ユーミンは情、みゆきは思い、真弓は心。なあんちって。

ところで先発福原乱調→逆転を許してしもうた。 Photo_226

 

 露とおち露と消えにしわが身かな難波のことも夢のまた夢

この歌、いい歌だ。しかしまだ希望はある。辞世は早いぞ。

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岡野弘彦

今日は趣向を変えていきなり歌人、岡野弘彦。「折口信夫の家にあって薫育を受ける」とPhoto_224 ネタ本「現代の短歌」にある。

 ひたぶるに人を恋ほしみし日の夕べ萩ひとむらに火を放ちゆく

3句切れの歌。「恋ほしみし」は「恋し」を「沁み」(沁み沁み)と強調した措辞であろうか。この2句字余りが初句「ひたぶるに」を受けて激しい恋愛感情の形容となり、3句「日の夕べ」で一旦は抑える。しかし激しい感情は、下の句「萩ひとむらに火を放ちゆく」と果敢な行為に遂には結晶せざるを得ない。ここに、放火の客体は「萩ひとむら(一叢)」でなければならず、「ひたぶる」「恋ほしみし」「萩ひとむら」がこの歌の連なる山脈を形成しているのである。

恋愛感情とはかくなるものなのであろう(多分。昔日の我が初恋を想い起こして)。そこで問題としたいのはふたりごころとの関係である。ふたりごころとは、こころを心(内を向くこころ)と情(外に向かうこころ)に二分して理解する考え方であるが、この歌の「萩ひとむらに火を放ちゆく」は心なのか情なのか、いずれであろうか。
心(対自)ではないな。心は自己を見つめる分析的なこころだから、かかる果敢な行為に反射的に走るはずがない。
また、情(対他)でもない。情ならば恋の相手に訴えかけねばならず、「萩ひとむら」に放火するのはお門違いである。
しかし、「恋ほしみ」て(それが通じず)そのあまり激烈な行為に走るようなこころは実在する(ワイドショー話題を想起せよ)。つまり、こころには心(内)と情(外)以外になにものかがあるのである。

思うにそれは、内を向くこころでも外に向かうこころでもなく、喜怒哀楽(思い乱れるこころ)ではなかろうか。つまり、こころは心と情と思いに三分して理解すべきである。言い換えると思いが原初的なこころ(爬虫類脳→旧哺乳類脳)、そこから対自(心)と対他(情)とが派生したと考えるべきなのである。

かくしてこころは「みたりこころ」。人は、三つの世界(世間、社会、魂)を三つのこころ(思い、情、心)で生きているのである。

 我が思ひ母に届けと意地張りて口論の果て煙草を断てり

禁煙してから五年近く、母が他界してからも二年余となりにけるかも。

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