« 岡井隆 | トップページ | 分析哲学ことはじめ »

2006年10月22日 (日)

島田修二

前回に日経歌壇を出したので、もう少し続けさせてもらう。
投稿を始めたのは1995年。当時の選者は岡井隆と高野公彦。投稿第一作(仕事とはものつくることの喜びぞ流れ流されるな「秀才」の君)を岡井隆に採ってもらって、気をよくして、この歌は岡井向け、こちらは高野向けなどと自分なりに振り分けて毎週投稿を続けた。

こうして高野公彦に採ってもらったうちの一首が次の歌である。

 我が眉に白毛一本見つけたり悲しき器ししむらの老ゆ

実は、「悲しき器」は大昔に読んだ高橋和己「悲の器」から借りた。また、「白毛一本」は茂吉の「Munchenにわが居りしとき夜ふけて陰の白毛を切りて棄てにき」が意識下にあっPhoto_263たかもしれない。まあ、選者はそんなこと先刻ご承知だったろうが。

さて、今日は島田修二。宮柊二に師事して、昭和63年に歌誌「青藍」を創刊したと「現代の短歌」にある。朝日歌壇の選者を永く務めて米国刑務所終身囚郷隼人の歌を多く選歌した。一昨年76歳での逝去に郷は追悼文を寄せている。

 ただ一度生まれ来しなり「さくらさくら」歌うベラフォンテも我も悲しき

ベラフォンテはハリー・ベラフォンテというアメリカの歌手(反体制的とは知らなかった)。この歌手の歌う「さくらさくら」を聴いての作者の感慨の歌である。
この歌の読み方は様々で、小馬鹿にされたような感覚が島田氏のなかにあったかもしれないという読み方もあるが、他方、アメリカに隷属する日本人として、ともに選択肢のない存在を悲しむというのもある。俺は平たく、ベラフォンテも作者も、人は全て「悲しみの器」、「さくらさくら」を聴けばその思い切なり、と読みたい。

ところで、ネット検索で短歌結社の光と影--島田修二の死--甦った母と子の絆に遭遇した。重い複雑な事情があったようである。利害関係の無い他者には介入できない事柄で、また、当事者の一方が死亡した以上、最早争いは継続不可能ではあるが、「悲の器」を再認識した思いを表したくて、敢えてリンクした。また、大岡信「折々の歌」を引くブログもリンクする。
            
 生きがたきこの生のはてに桃植ゑて死も明かうせむその花ざかり  岡井隆

※画像は1957年の異色ヒット・ソングから勝手拝借/感謝です。

|

« 岡井隆 | トップページ | 分析哲学ことはじめ »

短歌」カテゴリの記事

コメント

トラックバックありがとうございました。
以前「ベラフォンテとさくら」もUPしたことがあります。
http://blogs.yahoo.co.jp/namaste_my/30426862.html

投稿: 横浜ヒマ吉 | 2006年10月22日 (日) 午前 05時52分

懇切にコメント頂き、ありがとうございました。ご健勝をお祈りいたします。今後ともどうかよろしくお願いいたします。

投稿: 土曜日の各駅停車 | 2006年10月24日 (火) 午前 06時01分

この記事へのコメントは終了しました。

« 岡井隆 | トップページ | 分析哲学ことはじめ »