ことばは意味をもてるか
飯田隆「クリプキ ことばは意味をもてるか」を読了(二度目)。読書感想文を書こうかどうしようか考えつつ、ネット検索。
そうや、迷っているときは他人様の力を借りようとリンクを張ることにする。
すなわち、「グルー」や「クワス算」といった奇妙な色や計算法が例に取られて前半部分で説明されている。その結果私の心の中をいかに捜してみてもことばの意味という観念をきちんとくくり出すことができないという信じられない結論に至るというのがこの本である。
言い換えると、観察やデータによっては、対立する理論の中から一つの理論を選び出すことができない、つまり理論を決定することができない(決定不全性)から「ことばは事実世界に意味をもてない」という結論になるということだ←これじゃあ、まだわからんなあ。
そこで、わかりやすくするために、例をつくってみよう。
俺が事実世界において観察を繰り返した結果、「三角形の内角の和は180度」という結論を出したとしよう。ところがここで懐疑論者登場。彼は言う。
「おまえは有限回の観察しかしてへんやろ。そやのになんで内角の和は180度という規則が正しいと断言できるねん。過去から未来を帰納することなんかできへんぞ。ウィトゲンシュタインもそう言うとるわ」
論理的には彼の言うとおりである。ここから更に、そもそも三角形というコトバに事実世界との対応(すなわち意味)があるのか→ことばは意味をもてるかという議論にまで発展させたのがクリプキである。有限回しか三角形を観察していないのだから、三角形自体を定義する規則はいくらでも考えられるやんか、そんなんおまえの心の中にだけあるのとちゃうか、と言われてしまうのである。
屁理屈である。瑣末な議論である。
一般人はこんな議論に深入りしない。みんなが三角形やと思てることで大体意味が通じてるやないか、そやったらそれでええ、三角形に意味はあるんや。
これが一般人にも受け入れられる懐疑論的解決である。コトバに意味を与えるのは発話者ではない、受話者である、ということだ。
そして言いたかったことは、これから。
コトバの意味は事実世界にあるのではない。コトバは論理空間の対象を指示しているということだ。
すなわち、三角形の例で言えば、三角形は論理空間(この場合ユークリッド空間)の対象を指示している。そしてユークリッド幾何学では「三角形の内角の和は180度」は観察結果ではなく論理的に証明できる定理であるから正しいのだ。
公理系(法則)→ 理論モデル →事実世界
ユークリッド幾何学→ユークリッド空間→(指示対象なし:厳密には)
そして、理論モデルは事実世界から抽象化・理想化された雛型であって、重要な点で類似している(おおむねユークリッド空間と同一視してよい)。だから、三角形も事実世界に意味を持つと考えてよいし、事実世界に三角形は実在すると言ってよい。
だから飯田隆の言う懐疑論的解決は、世界の三層構造モデルによる解決と同じことだと俺は言いたい。逆に言うと、ことばは意味をもてないから理論モデル(論理空間)が必要となるのである。
※画像は色彩から勝手拝借/感謝です。
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