山中智恵子
振り返れば、思い出の1999年、忘れ得ぬ1995年など記憶に残る年がある。
1968年もそんな年である。当時、まだ学生だったけれど、この年はプラハの春、パリの5月、テト攻勢の年として今でも記憶に残る年である。学園紛争から新宿騒乱事件(これも1968年)へといわゆる70年安保闘争が街頭行動に発展し盛り上がった騒然とした年だった。
今にして思えば熱病である(俺は熱病から身を遠ざけて名曲喫茶とパチンコの日々だったが)。学生だけではなく世間一般に造反有理の雰囲気があった。新聞に毎日、今日の反日共系全学連の動きというコーナーが掲載され、街頭行動を肯定しないまでも面白がる空気があった(特に讀賣新聞)。北京、チェコ、パリ、ベトナムそしてアメリカ(ベトナム反戦運動)と世界中で反権力、強いものに対する抵抗があり、日本のメディア(今も昔も)がこうした世界の動きを材料に世間を煽り、煽られた人々が踊るという構図である。
ベトナムの戦火を止めよ、世の中を変えたい、変わってほしいという大衆の思いは正当であるとしても、マスは極端に振れるものである(株式相場を思え)。新宿駅で電車を止めたり投石などせずにもっと着実な行動が継続する道があったかもしれないのに、最後は浅間山荘事件で幕を閉じる。学生たちの多くは長い髪を切ってネクタイを締めるようになる。熱病は潮が引くように消失した。
われら鬱憂の時代を生きて恋せしと碑銘に書かむ世紀更けたり
初句「われら鬱」と起こして「憂の時代を生きて恋せしと」で継なぎ、「碑銘に書かむ」で転じ「世紀更けたり」と閉じる。起承転結のお手本のような歌だ(そうか、起承転結を意識して作歌するというのも技法だなあ)。
憂鬱を倒置して「鬱憂」。しかも初句2句に跨らせ重い声調を作る。そしてこれが「恋」と対置され「碑銘」(死を暗示)へと発展し、「世紀」も我も「更け」るという感慨に到る。
たしかに20世紀は鬱憂の時代である。いやそれどころか戦争と革命の悲惨な世紀であった。いったい何千万何億の人が戦争と革命(圧制:収容所群島ソ連と餓死数千万中国を思え)の下で生命を落としたことだろう。
そんな世紀の中葉に俺は幸運にもこの列島に生まれ(あの半島に大陸に生まれていなくてよかった)、ベルリンの壁崩壊をテレビで眺め今はネットで毎日相場を見ている。まことに時間と空間の幸運に恵まれたものだ。
だから、人を煽ることもせず煽られもせず安穏に暮らし続けたい。愛国心とグローバルマネーの亀裂を横目に市井の生活を守りたい。それが我が林住期である。
穏やかなニヒリストあり絶望も希望も持たず悦楽に生く
※写真は京都発ー安全保護具屋:ヘルメットのページですー作業服・安全靴・ヘルメットの事ならわくわくワールド ようこそ働く人の世界へから勝手拝借/感謝です。
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