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2006年10月24日 (火)

分析哲学ことはじめ

俺の分析哲学ことはじめは、図書館から本を仕入れて来ることに始まった。Photo_264

大庭健「はじめての分析哲学」→文体が気に入らない、読みにくい。とはいえ、論理実証主義vsプラグマティズム(まえがき piii)を中心とした「見取り図」はなるほどと思う。丹治信春「クワイン」の副読本として読書中。

竹尾治一郎「分析哲学入門」→総論的解説書の故か、読解不可箇所多々あり。もっとも、フレーゲの三つの原理(反心理主義文脈原理、概念と対象との区別)は整理と記憶の道標となった。

飯田隆「言語哲学大全」→フレーゲに関する章を理解しつつ読了。ただし、論理と観念の違いについてはいまいち消化不良。概念は公共的、観念は私的ということだろうが、観念は反心理主義により哲学から追放したとして、概念は哲学でその後どうなったのか?ひょっとして概念はコト、対象はモノ、すなわちコトとモノの区別ということか?
引き続きラッセルに入ったけれど、着いて行けず中断中。

そして最後は丹治信春「クワイン」→これは納得しつつ読了。ネット検索して、「アメリカ哲学はこんなに面白いのだ、カッコいいのだ!」と大声で布教したい私と宣伝する書評発見、三浦俊彦のサイトであった。文脈主義からホーリズムに至る流れは「モノからコトへ」ということではないだろうか。いつか駄文をまとめたい。
また、存在論(存在するとは、変項の値となることである)、認識論の自然化も出て来る(戸山田科学哲学の源流はクワインであったか)。言葉の意味論は、認識論→存在論にまで行き着かなければならないということに思い至った。ここらあたり、いつか駄文をまとめたい。

※画像は貴重書コレクション 拡大画面(解体新書(全5巻)から勝手拝借/感謝です。

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