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2006年10月26日 (木)

「知識の哲学」を読む(1)

昨日、図書館から入手して知識の哲学を読み始めた。まだ途中だけれどスリルと発見にPhoto_267 満ちた哲学教科書である。そこで、復習(理解の確認→記憶の強化→表現による定着と知識の外化)を図るべく、駄文を連ねることにする。

まず、ブックレビューをリンクしておこう。一つは、内在主義、外在主義、正当化などの概念解説しつつ分析的にレビューしているもの、もう一つは三浦俊彦によるもので、この本の問題意識は、「なぜ哲学はこんなにも長い間、知識の問題を正当化の問題と結びつけて考えてきたのか?」「なぜ正当化を認識者の心の中の問題として考えてきたのか?」とするものである。
それから、認識論@ウィキペディア中の現代英米の認識論も予備知識ないし復習リンクとして役立つ。

では、目次ベースでアウトラインへの復元を図るという形で、紐解いてみよう。本書は、大きくは3部構成である。

第1部 知識の哲学が生まれる現場1
第1章 なにが知識の哲学の課題だったのか

知識の古典的な定義「知識とは正当化された真なる信念である」から始めて、正当化(信ずることに理由があること)の基準と更にその基準のメタ基準(基準が、真理への接近という目的に照らして正当であること)を確定することが哲学の課題であったことを示す。
俺は永年、哲学入門書ばかりを読んできたけれど、こんなこと考えもしなかったなア。

第2章 知識に基礎づけが必要だと思いたくなるわけ
「たいていの認識論的正当化は一種の推論である」しかも帰納的推論だから、帰納の正当化の問題@ヒューム(確証性の原理をとるにせよ、斉一性の原理をとるにせよ、帰納法で仮説を正当化する企ては、なんらかの壁にぶつかる)とか、決定不全性の問題(観察やデータによっては、対立する理論の中から一つの理論を選び出すことができない、つまり理論を決定することができない)が生ずる。
そこで、基礎づけ主義(命題の確実さは、絶対確実な疑い得ない根拠「基礎的信念」から正当化の連鎖によって派生的に与えられるものである)が主張される。つまり、なんでやなんでやと疑問を遡らせてこれ以上、疑問は起こらない固い岩盤に到達するべきだという考え方だ。
ところが、基礎づけ主義はうまく行かない。実際に基礎として働くような信念は絶対確実からはほど遠く、あるいは絶対確実だと思われるような信念は非常に無内容なトートロジーであって他の信念の基礎として働かないからだ。また、基礎的信念(岩盤)を「それ自体で非常に確からしい」といった程度のものに緩和しても、推論としても演繹的推論だけでなく、帰納的推論も認めることが多いから結局は循環してしまい基礎づけ主義は成功しない。

第3章 基礎づけ主義から外在主義へ
では、と゜うしたらいいか。
ここで外在主義登場。基礎づけ主義における正当化は、なんらかの信頼できるプロセスによる正当化を意味するが、これを信念を持つ認知者自身が認知できるものであることを要件とするのが内在主義、これに対して、認知者自身の認知を不要とするのが外在主義である。
外在主義にしたがえば、主体Sが内容Pを知っているというとき、Pという正しい情報をSが獲得したというだけではなくて、常に正しい情報を獲得する何らかのプロセスにSが習熟していることを意味する。つまり、知識は常に知識を生み出す習慣的プロセスの存在を含意するのである。私が妻の帰宅を知っていると言えるのは、車の音から妻の帰宅を予想するという習慣的プロセスが存在しているからである。逆にそうした習慣的プロセスが不在なままに得られた情報は、それが正しくても、知識ではない。また、そうした習慣的プロセスが単に内的に正しい(正当化できる)ものであり、外的に正しい(信頼できる)ものでないときにも、それは知識を生み出さない。

では、こうした習慣的プロセスが正当化(外的に正しい)され、信念が真ならば、「知識」としてよいか。
ここで、ゲティアが反例を提出する。ゲティア問題というのは、知識の古典的定義「正当化された真なる信念」に反例があるというものだ。それは、正当化され真であっても、 その正当化の理由があとで嘘だとわかってしまったような場合である。 理由が嘘であったため当該命題がそれで嘘になるなら良いが、 その命題自体は依然として真であるような場合がある(偶然の一致)。 このような命題はどうみてもとても知識とは言えないが、知識の 古典的定義にはあてはまるので、その意味では知識ということになる。具体例等はこちらを参照(鏡の例がわかりやすい)。
これを解決するべく、外在主義でも穏健な路線(知識の因果説、反事実的な分析など)が提唱された。

第4章 知っているかどうかということは心の中だけで決まることなのだろうか
しかし、穏健な路線は内在主義からの「情報の信頼性が本人に分かっていないんぢゃあ おかしいぢゃないか」との批判に耐えられない。
そこで、著者はラディカルな外在主義「正当化は知識の構成要件ではない(知識の古典的定義の変更)」を支持する。「知識じたいには外在的な説明を与えておき」(偶然の一致も知識だ!)「正当化を求めることが知識を獲得する道具として時として有効なのはなぜかを別に説明するという路線を選択」する。
つまり、知っているかどうかは心の外で決めて、知識としての有効性は別途考えるということだ。
これを言うならば、知識を正当化されていない信念に格下げするということ、換言すれば「信念がさらにいかなる条件を満たせば知識という尊称を獲得するのか、つまり、信念に何を足せば知識になるかではなく、人間にも動物にも備わっている知識獲得のメカニズムがいかに誤作動すると間違った信念が生み出されるのかを調べるべきだ」「知識は情報の一コマ」「生物が行っている他の情報処理」と並列して捉えようという自然主義宣言である。

以上で「知識の哲学」を読む(1)終了。以下は続編へ→乞うご期待(期待される方にはきっといいことがあります)。

第2部 知識の哲学が生まれる現場2
第5章 「疑い」の水増し装置としての哲学的懐疑論
第6章 懐疑論への間違った対応
第7章 懐疑論をやっつける正しいやり方


第3部 知識の哲学をつくり直す
第8章 認識論の自然化に至る道
第9章 認識論を自然化することの意義と問題点
第10章 認識論にさよなら?
第11章 知識はどこにあるのか?知識の社会性
終章    認識論をつくり直す

※画像は理論の発展に尽くした人々から勝手拝借/感謝です。

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コメント

知識を獲得したり、自分のもっている信念を知識にしたりするのは大変なんですねえ。
今回「ゲティア問題」というのをはじめて知りました。たしかに古典的定義は満たすけど、知識とはいいにくい。……哲学者って好きだなあ。知を愛する人でないと、とてもそんなこと思いつかない。
また土曜日さんも入門者の謙虚さを何年たっても失わず、尊敬します。飄々と分け入りながら、専門家たちの息吹にふれるとこまでひょいと行ってしまう。続編期待しています。

投稿: 鏡像 | 2006年10月26日 (木) 午後 02時01分

ネットとハイパーテキストのおかげです。
パソコン通信の時代はこんな駄文を書けなかったなアといつも思いながらカキコしています。

投稿: 土曜日の各駅停車 | 2006年10月26日 (木) 午後 02時25分

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