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2006年10月25日 (水)

馬場あき子

新聞投稿の話が続く(多分、これで最後)。
当時、「朝日見て左にすこし傾けて日経を読む毎日の朝」と朝日と日経を購読していた(いまは、朝日を読む時間と購読料が惜しくなって日経だけにしているが)。Photo_265
そこで、新聞投稿を始める際に標的を朝日にすべきか日経にすべきか少し考えた。結論は日経。読者層の量と質から考えて、断然、日経の方が入選確率は高いだろうからだ。
かくして日経投稿を始めたのだが、一首だけ朝日歌壇に入選した歌がある。

 リストラの風は冷たしこの宵は二合の酒に酔ひて眠らむ

日経は選者指定で投稿するが、朝日は指定不可だった。そして、この歌を採ってくれたのが馬場あき子である。「リストラに対する作者の位置取りが不分明」旨、評されていたことを覚えている。確かにその通り、当事者なのか第三者なのかはっきりさせず、当時流行りかけていたリストラ現象を定型の声調に乗せただけの歌謡曲短歌なのだ。そして、こういう傾向歌は日経より朝日の方が採られやすいだろうと踏んで朝日に投稿したのだった。

 あざとさは俺の戦術、歌謡曲短歌をひねり朝日に載れり

さて、馬場あき子。「民衆詩としての短歌」を標榜する「まひる野」に入会し窪田章一郎に師事し、その後「かりん」を主宰。能に造詣が深く新作能を作られたり、ご自身でも舞われるようである。

 さくら花幾春かけて老いゆかん身に水流の音ひびくなり

「さくら花」で起こして「幾春かけて老いゆかん」と詠嘆して切れた後の「身に水流の音ひびくなり」がこの歌の肝であろう。さくらの木の中に、清冽な水流の映像が湧く。いや、さくらを見ている作者の体内に水流はあるのだろうか。これは舞っていらっしゃる瞬間のお歌だという読みもある。様々な読みを許容しつつ「水流」は歳月を流れる。

あざとさも時に必要だけれども、身に響くぐらいの水流を懸命に流してみよ。それが出来ぬ俺は所詮歌謡曲歌人にもなれないなあ。凡と非凡との間の距離は相当のものとあらためて思う。

※画像はエリシナ-elishina- 能面 般若から勝手拝借/感謝です。

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