大西民子
「論考を読む」をもう一度読んでいる。そこで、「幸福に生きよ」に関して重要な追加。
6.41 世界の意義は世界の外になければならない。世界の中ではすべてはあるようにあり、すべては起るように起こる。世界の中には価値は存在しない。
ここに世界とは、事実世界(俺の造語:主客未分・座標系未導入ののっぺらぼうの世界)と論理空間(時間空間座標系が導入済で対象と論理形式により分節された世界)のことである。この二つの世界には意義はない。世界の意義は「私の意志」によって齎される。
ここで、野矢茂樹は「草稿」のウィトゲンシュタインから引用する。
善と悪とは主体によってはじめて登場する。そして主体は世界に属さない。それは世界の限界である。
(ショーペンハウエルのように)こう述べることもできる。表象の世界は善でも悪でもない。善であったり悪であったりするのは意志する主体である。
そうか、「意志と表象の世界」はそういう意味だったのか。表象の世界(事実世界と論理空間)に対して、意志が善悪すなわち価値を齎し、価値の世界が形成されるのである。
すなわち、思想=形而上学(価値観)+哲学。価値観は哲学の対象ではなく形而上学の対象。そして価値観の根源をなすのは、あなたと私のそれぞれの意志である。野矢茂樹の文章を引く。
世界の事実を事実ありのままに受け取る純粋に観想的な主体には幸福も不幸もない。幸福や不幸を生み出すのは、生きる意志である。生きる意志に満たされた世界、それが善き生であり、幸福な世界である。生きる意志を奪い取る世界、それが悪しき生であり、不幸な世界である。あるいは、ここで美との通底点を見出すならば、美とは私に生きる意志を呼び覚ます力のことであるだろう。
かくして世界は三つの層から構成される→意志と表象の世界=事実世界と論理空間と価値世界。そして人生は世間と社会と魂であり、こころは思い(揺れ動くこころ)と心(対自)と情(対他)である。以上、3×3×3=27。ああ、アタマがイタクなってもた。
さて、今日は大西民子。前川佐美雄に学び、後に木俣修に師事したとある。
かたはらにおく幻の椅子一つあくがれて待つ夜もなし今は
初句「かたはらに」2句「おく幻の」と句跨りの晦渋声調が3句「椅子一つ」で切れ落ち着いて、下の句「あくがれて待つ夜もなし今は」の嘆く倒置詠嘆につながる。
「あくがれて待つ」のは帰って来ない夫である。「かたはらにおく幻の椅子一つ」が大きな空白として作者の価値世界に存在する。
なぜ、椅子一つごときが大きな空白なのか。それは、作者が夫との暮らしを意志しているからである。意志して得られないもの、それを人は希望ないし絶望と呼ぶのである。
妻を得てユトレヒトに今は住むといふユトレヒトにも雨降るらむか
あまりに切なくてもう一首引いてしまった。過去は言語的制作物であるから、人が意志すればいつまでも現在である。そして空間も言語的制作物であるからユトレヒトも日本も同じく「ここ」なのであろう。野矢茂樹はこう書いている。
私の人生がかくもみじめである、あるいは満ち足りているのも、それは私の人生の世俗的なエピソードのためではない。ひとえに私の生きる意志にかかっている。
大西民子には申し訳ないけど、夫との別離は人生の世俗的エピソードにすぎない。しかし彼女は少なくとも別離を忘れないことを意志した。だから彼女の人生において夫との別離は世俗的エピソードに止まらず、かくも美しい歌として結晶した。
まさに人生は「意志と表象の世界」である。「生の器」を生きる意志で満たすこと。ウィトゲンシュタインはそれを「幸福に生きよ!」の一言に集約したのである。
※ネット検索で大西民子を透かしてみればに遭遇。大部な論稿です。ちょっと拝読したけれど大部な論稿。拝読完了までもう少し時間が必要。
※画像は映画の心理プロファイル 『トーマス・クラウン・アフェアー』(1999 米)から勝手拝借/感謝です。『ヤマアラシのジレンマ』(byショーペンハウエル)というものがあるそうな。
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コメント
大西民子は私の敬愛する歌人です。
私は、歌作りは苦になりませんが、評論の分野は、苦手です。
思考回路がまったく別で、そのあたりが私の脳から欠落しているようなのです。
けれども、大好きな大西民子のことは、どうしても書きたかったのです。
ですから、小学生の読書感想文の、域を脱していません。
その、小論を、お読みくださいまして、本当にありがとうございました。感謝にたえません。
投稿: ひみ子こと鶴野佳子 | 2006年10月 2日 (月) 午前 08時11分
こちらこそ、ご挨拶頂きありがとうございます。
遥かなる近畿の山にいだかれて思慕清らけく白き船あり
短歌絵手紙、拝見しました。「思慕清らけく」にぐっと来ました。今後ともよろしくお願いいたします。
投稿: 土曜日の各駅停車 | 2006年10月 2日 (月) 午前 10時26分
ウィトゲンシュタインはこうも言っています。「命題は事実の像である」。歌人にとって命題は短歌、作歌ですよ。抄出の第1首目
かたはらにおく幻の椅子一つあくがれて待つ夜もなし今は
はゴッホの「ゴーギャンの椅子」がモチーフです。
そして第2首目の
妻を得てユトレヒトに今は住むといふユトレヒトにも雨降るらむか
ゴッホの弟テオの狂死がユトレヒトです。
今頃コメントを書き込んでも返事はあるのかな。
投稿: 石川 朗 | 2009年6月20日 (土) 午前 10時07分
コメントありがとうございます。ブログも拝見しました。「大西民子は短歌に絵画を持ち込んで、絵画を詠い誰にもそれを知られずにきた。それをひとは夢といい幻想と呼んだのである。時々画家の実名が出てきても、ひとは気づかなかった」とは驚きでした。いい勉強になりました。まずは御礼まで。
投稿: 土曜日 | 2009年6月21日 (日) 午前 06時31分