長澤一作
先日、BSでオランダ運河コンサートを放送していた。運河の上に特設ステージをこしらえて無料で開放的な雰囲気で音楽を聴かせるコンサートだ。私語でざわざわしているのだが、それにも関わらず演奏者は熱演し聴衆も思い思いそれぞれの聴き方で聴いている。音楽そのものも楽しいが、ぴったりくっつき合っているカップルや、昔日を想い起こしているのだろうか涙ぐんでいる老人などカメラが意識的に映し出す聴衆を見るのが面白い。西洋には西洋音楽が根付いているのだなあと実感した。
ところで、西洋近代音楽(いわゆるクラシック)は何故ヨーロッパで発生・開花したのだろうか。前からそんな疑問を持ち続けているのだが、このコンサートを見ていて疑問が氷解した(つもり独断)。
理由の一つは、音楽は神への捧げものという信仰にある。思い思いのポーズで演奏を聴く聴衆ではあるが、そこには共通して神を思う心があるように感じた。原罪を背負わされた人間が神に音楽を捧げることによって救いを乞う。だからクラシック音楽のような理知的でかつ情念に溢れた音楽になったのではないか。
もう一つは舞踊。我ら農耕民族の二拍子盆踊りと異なって、ヨーロッパ狩猟民族の舞踊は三拍子ワルツにある。二拍子が、農民が上から下にくわを振り下ろす永続的なリズムであるのに対し、三拍子は土地や現世のしがらみから一時的にでも抜け出そうとする現世否定享楽のリズム。かように、クラシック音楽には信仰と享楽の一見相反する要素があるのだが、それがかえって普遍性を齎した原因となっているように思うのである。
さて、生煮え一知半解の音楽論はそれぐらいにして、今日は長澤一作。佐藤佐太郎に師事した歌人である。
轟々として夜の海荒れゐたり貧も願ひも思へばかすか
上の句「轟々として夜の海荒れゐたり」は一首の背景をなすものにすぎず、この歌の根幹は下の句「貧も願ひも思へばかすか」にある。だからこの歌は叙景歌ではなく叙情歌である。
轟々と音轟かし荒れている海を見つめていれば、人の貧乏も希望も微かなものよ。だからといってそれがどうでもいいのではない。だからこそ大切に生きよ、幸福になれ。
人の惨めさ卑小さを知るほどに、神の偉大を思い世界があることの不思議を歌い(詠いではない)たくなる。神に捧げる一首「貧も願ひも思へばかすか」。ほら、バッハが聞こえてくるではないか。
※画像はセブンアンドワイ - 本 - グレン・グールドの生涯から勝手拝借/感謝です。
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