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2006年10月31日 (火)

高嶋健一

久しぶりの「一人一首」である。Photo_273

前回(馬場あき子)で歌謡曲短歌について触れたが、もう少し考えてみた。

歌謡曲短歌とは、詩になっていない通俗的短歌をいう。前回、引用した俺の歌

 リストラの風は冷たしこの宵は二合の酒に酔ひて眠らむ

が、その一例だ。

では、歌謡曲短歌か否かを判定する基準は何か。
音楽の三要素に倣って、短歌の三要素を(以前にも考えたが)考えてみた。
声調・韻律(リズム)、思想・主張(メロディ。以前はこれを措辞としていた)、メタファー(ハーモニー。以前は言葉の響き合いとしていた)が短歌の三要素と考える。

まず、声調・韻律は、声に出して歌を読んだ場合の調子すなわちリズムである。定型を守っていればこれは自然に伴うものだ。上の例で言えば2句切れ(3句切れよりこちらの方が心地よいリズムをつくる。音楽で言えば下の句が弱起の調子になるからだ)で声調よく、ほとんどこれだけで点を稼いでいる。ちなみに、前衛短歌では意識的に句割れ・句跨りを作り出し晦渋なリズムを生み出す技法がとられている。

次に、思想・主張は、歌の内容、つまり、歌が言いたいことである。どんな文章でも意味をなす以上はなんらかの主張がある。短歌も文章である以上、なんらかの主張があるはずだ(無内容を売りにする短歌もあるけれど、それは無内容を主張にしているのだ)。
上の例で言えば、作者のリストラに対する位置取りが不分明ではあるが、リストラについての思想表現はなされている。メロディも聞こえるのである。

そして最後はメタファー(広く、喩。隠喩に加えて直喩も含むと俺は考える)である。これが詩の本質であり、短歌の味噌である。これがなければ歌ではない。作者は思想・主張をより鋭く深く読者の胸に切り込ませるために愉に最大の工夫を払い、読者は、意外で新鮮なメタファーに遭遇すれば言葉と世界について新しい見方を開かれる思いになる。
上の例で言えば「二合の酒」にほんのちょっぴりの愉はうかがえるが、何か新しいものが見えるわけではない。つまり、歌謡曲(酒よ涙よつらい切ない別れよ)と同じく、手垢の付いた言葉ばかりが並んでいるだけなのだ。愉がない歌、それが歌謡曲短歌である。

そこで、白秋の名歌を引く。後朝の別れという主張はありふれているとしても、この歌の何度繰り返して読んでもくみつくせない愉を味わって頂きたい。

 君かへす朝の舗石さくさくと雪よ林檎の香のごとくふれ

さて、今日は高嶋健一。紹介文(たぶん歌人自身の文章だろう)には「具象と抽象のあわいに漂う世界を表現したい」とある。歌人の根本旋律(思想)であり通奏和音(愉)である。

 てのひらのくぼみにかこふ草蛍移さむとしてひかりをこぼす

愉は一方で、読みをかなりの部分で読者に任せる。読者は連想を広げて、あるいは、記憶を遡ったりして自由に歌を鑑賞すればいい。読者は「てのひらのくぼみ」「草蛍」「ひかり」に何を思うか、この歌を読むとき、具象と抽象のあわいに漂う音楽が聞こえては来ないか。詠みと読みとを音楽がつなぐのである。ちなみに、草蛍の歌の歌碑が 清水市の船越堤公園にあるとのことだ

とはいえ、歌を詠むためにはまず伝えたい思想がなければならぬ。

 我が歌の泉は涸れて凡作を転がし遊ぶ夏の夕暮

泉から思想を湧かせることができるのは作者だけ。深く生きよ、歌謡曲歌人よ。

※画像は旅の写真館_フランス編から勝手拝借/感謝です。

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