規則のパラドクスからアスペクトへ
理解するとはわかること、だけでは足りない。他人に説明できてはじめて理解が足りていることになるのである。つまり、理解するとは①わかった上で②記憶して③表現まで出来るということである。
ところが、凡人は大抵、①で留まりそのうち記憶は朧になり結局「理解したのだ」ラベルしか残らないのが精々である。
そこで、②の補強手段及び③の手段として俺はネットを活用することを心がけている(つもり)。具体的には、ネット検索して様々なWEBに遭遇/ブックマークして何度も読み返して記憶を補強、更には別の見方(アスペクト)を知るのである。そして、こうやって表現することによって理解がより深まると信じている。
そんなブックマークのうちのひとつが勝手に哲学史入門だ。さきほどウィトゲンシュタインの項を読んで論理的原子論、写像理論などの記憶補強ないし別アスペクトを知ったが、気になったのは、このような規則に従うことの難問は,「帰納に関する難問」とは異なるとされている点である。
というのも、大人のための科学哲学入門で俺は
なぜ「正しい」に弱いかというと、「帰納にはまったく合理的根拠はない」ヒューム懐疑論とグルーのパラドクスという二つの弱点があるからである。
この弱点を言い換えると、観察やデータによっては、対立する理論の中から一つの理論を選び出すことができない、つまり理論を決定することができない(決定不全性)ということになる。ちなみに、ウィトゲンシュタインのパラドックスもクワス算もこの決定不全性に含まれるように俺は思う。
と書いたけれど、これは正しいだろうかということがずっと気になっていたからである。
そこで勝手に哲学史入門ウィトゲンシュタインを熟読すると、ウサアヒルの図を引いてアスペクトの概念を導入した上で
さて,このような概念を導入することによって何がわかるだろうか. (3)において,われわれは規則のパラドクスを見た.そこで示されたことは,われわれには,他者がどのような規則にしたがっているのかが決してわからない,ということであった.
同様に,ある一つのものを見ても,個人個人でそれが何に見えるかは,他者にはわからない.哲学探求において,第I部で規則論が展開され,第II部でアスペクト論が展開されるのにはこのようなつながりがあるのであろう(野矢茂樹『心と他者』).そして,野矢はここに「他者の心」を見る.
と書いておられる。これを読んで俺は理解した。
そうか、規則のパラドクスはアスペクト論につながり、更には「他者の心」問題にいたるのか。やはり、規則のパラドクスを全て決定不全性に押し込めるのは間違いだなあ、と理解したのであった。ネットのおかげである。
ちなみに、帰納の正当化問題に関して丹治信春「クワイン」に面白いこと(帰納を自然科学的に説明する)が書いてある。帰納は論理的に正当化できないが、帰納が多くの場合成功するのも事実。それは何故かという問いに対して
このような問いに対してクワインが有望だと考える考え方は、帰納を、期待・習慣の形成(と解釈される行動パターン)という、動物にも見られる現象との連続性で捉えることである。
つまり、人間における帰納は動物における学習の延長線上にあり、更にはその有用性は 進化論でいう自然淘汰によって歴史的に証明されているというのである。こういう考え方を自然主義といい、これが認識論の自然化の一端だと理解した次第である。
さて、図書館にリクエストしていた「知識の哲学」が届いているようだ。取りに行かなくっちゃ。
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