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2006年10月 9日 (月)

世界的微小「グルーのパラドックス」入門

博識な鏡像さんが「自分もよくわからない」というコメントを寄せてくれたので、もう一度ネット検索→やっぱり、ぴたっとくる記事見つからず。そこでネタ本(戸田山和久「科学哲学の冒険」)を基に自分で書いてみることにする。

まず問題の背景。帰納に合理的根拠があるかという疑問が背景だ。
ひとつは、ヒュームが提出した懐疑論。昨日まで太陽が朝、のぼってきたから今日も朝、のぼるのかという懐疑である。因果律はわれわれの習慣にすぎないとするヒュームからは当然、出てくる懐疑である。
もうひとつが、グルーのパラドックス(グッドマンという人が考案)。ヒュームの懐疑をなんとか握りつぶしたとしても、言語の曖昧さ・恣意性(分節の恣意性)に発するパラドックスだ。

袋の中に入っている宝石エメラルドの色を毎日一個ずつ調べてエメラルドの色を帰納→結論しようとしているとしよう。エメラルドの色ってけっこう分類しづらい。緑(グリーン)なのか青(ブルー)なのか(脱線:そういえば交通信号の青もそうだなあ。緑と表現する人がいるけど、俺には違和感あり)。
袋から一個ずつ取り出して、今日まで調べたものが全て緑だったら緑、青だったら青と(ヒュームに沈黙を強いて)帰納→結論する場面である。

さて、ある時点(例えば2006年10月9日)まで調べて全部が緑だったから次に調べるのも緑と帰納してよいかどうかが問題だ。ヒュームに沈黙を強いればこれは緑だと帰納→結論してよいことになる。
しかし、ここで新たにグルーという色を「ある時点2006年10月9日までの緑の色、次の日からは青の色」と定義しよう。そうすると、エメラルドの色は前者の見方では今日まで緑だったから明日も緑、後者(グルー定義導入)では今日まで緑だったからグルー、すなわち、明日は青ということになる。エメラルドの色は緑、かつ、青と両立しない結論になりパラドックス成立となってしまう。

批判の第一。グルーなどという今晩から意味が変わっちゃう言葉を使うのはインチキや!
反論。いや、グルーの意味は変わっていない。グルーを「今日までは緑、明日からは青」と定義しなかったろう。「今日まで緑のものと明日からの青のものをグルー」としているのだから今晩で意味は変わっていない。グルーは今日も明日も同じ意味だ。

批判の第二。意味は変わっていないとしても指示される対象が変わってしまうやんか、やっぱりインチキや。
反論。指示される対象が変わる言葉は他にもある。たとえば「こども」。こどもが当てはまる人間の集団は毎日代わっているではないか。指示される対象は変化しても意味は変わらない。グルーもそれと同じ。

という理屈で、ヒュームの懐疑(帰納の合理的根拠の問題)は解決したとしても、述語(緑とか青とか)の問題は残る。グルーのような指示される対象が変化するような言葉を述語とするような場合には帰納が成り立たないという問題である。ちなみに、帰納してよい述語を投射可能な述語と呼ぶそうだが、ここで投射可能か不可能かを区別する基準は何かが問題となるのだ。例えば「調査済み」という述語も投射不可能。「これまで調べたエメラルドは全て調査済み」が正しいからといって「次に調べるエメラルドも調査済み」とは言えないだろう。

さて、世界的微小科学哲学入門の前戯として世界的微小グルーのパラドックス入Photo_6門。成り立っているだろうか。ようく考えてみると「グルー」の例はパラドックスではないようにも思う。緑と青とグルーは全て両立するのだから。これに対して「調査済み」の方は確かに帰納は成立しない。というか、これは自己言及のパラドックス(ラッセル)の一部ではなかろうか。グルーも調査済みも自己に言及して自己を限定する述語なのだから。

以上、この文章は正しくありません。→左記が正しいとすると、正しくないから正しい。
                       正しくないとすると、正しいから正しくない。

※画像はessay about Interfaceから勝手拝借/感謝です。

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コメント

ふらっと寄って、読ませていただきました。
質問です。

>緑と青とグルーは全て両立する

というのは、

袋から出したエメラルドがずっと緑
     ↓
1.エメラルドは、そもそも緑だ
2.エメラルドは、グルーなんだ

このふたつが両立するのは、人それぞれ。
ある人は1、ある人は2だから。

グルーとは、
>自己に言及して自己を限定する述語
ということは、
各個人が、自分の信じた解釈でいいんだ。

という意味で書かれているんでしょうか。

>「グルー」の例はパラドックスではないようにも思う
以上のような意味で書かれているのなら、パラドックスではないですよね。

では、なぜ「パラドックス」と言われるのでしょう。

投稿: 職場から休み時間 | 2007年2月22日 (木) 午後 01時22分

ご質問、ありがとうございます。
まず、訂正。グルーのパラドクスを自己言及のパラドクス(ラッセルのパラドクス)に含まれるように書いていますが、これは間違いだと現在では考えています。というのは、グルーのパラドクスは、規則は後付けでどのようにでも作れるというウィトゲンシュタインのパラドクスに含まれるからです。この点は、http://doyoubi.cocolog-nifty.com/blog/2006/10/post_d566.htmlを読んでやって下さい。
ですから、ご質問に対する答えは「グルーは後付けで付けた名前(規則)だから緑ともブルーとも矛盾しない」です。
そして、これをパラドクスと呼ぶのは「後付けは卑怯だ」と言いたい人の言い方だと思います。

要するに、(1)帰納には合理的根拠が無い(ヒューム)(2)理論は後付けでいくらでもひねり出せる(ウィトゲンシュタイン)ということかと考えます。お陰で勉強になりました。

投稿: 土曜日の各駅停車 | 2007年2月22日 (木) 午後 02時02分

追記です。
ウィトゲンシュタインのパラドクス(後付けの規則)はアスペクト論から他者の心の問題にまでつながっています。現象だけからは彼の心の中にどのような規則、規範があるかはわからないということです。
http://doyoubi.cocolog-nifty.com/blog/2006/10/post_c4da.htmlを参照してください。

投稿: 土曜日の各駅停車 | 2007年2月22日 (木) 午後 02時11分

お返事ありがとうございました。

自分は単純に、
帰納が、観測結果から普遍的法則を導くことができる、
と仮定した場合のパラドックスだと考えています。
(つまり、帰納は問題がある、と言いたいわけです)
その場合は、緑とグルーどちらの斉一性も取りうるのは、パラドックスとなりますが、
そもそも帰納には問題があるという立場で見れば、当たり前の結果です。
そして、述語。投影可能かどうかの定義付けもすることなく、投影可能な述語が果たして、帰納に使用できるかも検討されることもなく・・・
ビジネスの世界では当たり前にやっていて、
こわいですよね・・・


返事がもらえるとも思っていなかったのに、
こんなにすぐに返事をもらえて、びっくりしています。感謝。
なるほど、ウィトゲンシュタイン、後付けですか。
こちらこそ、いい勉強になりました。
また寄らせてもらいます。(よければ、ですが)

投稿: 職場から休み時間 | 2007年2月26日 (月) 午後 12時50分

何をおっしゃいますか、どうぞご遠慮なく。大歓迎でございます。

投稿: 土曜日の各駅停車 | 2007年2月26日 (月) 午後 03時52分

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