「知識の哲学」を読む(2)
「知識の哲学」を読む(1)の続き。前回でもリンクした戸田山「知識の哲学」ノート(講義受講ノートか?)が全体的に参考になる。
第2部 知識の哲学が生まれる現場2
(ここから→)「なぜ哲学はこんなにも長い間、知識の問題を正当化の問題と結びつけて考えてきたのか?」「なぜ正当化を認識者の心の中の問題として考えてきたのか?」という疑問に対して著者の答えは「懐疑論への応戦」。私たちは実は何も知らないのだ、あるいは、知ってると思っていることの多くをホントは知らないのだ、と言い立てる懐疑論を、何とかして払いのけようという努力が「信念の正当化」だったのだ。(←ここまで三浦俊彦の書評からコピペ)
懐疑論への応戦「信念の正当化」と、「知識現象のメカニズムを捉えようという課題とを哲学はずっとごちゃまぜにして探求してきた」と著者は言う。
第5章 「疑い」の水増し装置としての哲学的懐疑論
懐疑論の第一は培養槽の中の脳(われわれは身体をもった人間ではなく実は電気的な仕掛けにより生かされている)である。これに対しては、閉包原理の否定で反論する方法があり、詳しくはリンクを参照(知識はローカルに真であるような信念だから、閉包原理は間違っているということのようだ)。
第二は間違いからの議論(正しいと今思っていても後で間違いだとわかるかもしれない。だから我々は知っていると思っているだけで実は知らないのだ)である。これに対しては、知識の正当化における正当化プロセスが正当ならば撃退できる。
第三がヒュームの懐疑論「将来が過去に類似するという規定は、いかなる議論にも根拠づけられていず、まったく習慣から導き出されたものである」である。これは「そもそもわれわれの信念が(直接観察されないものについては)正当化を欠いている」と攻撃してくるのだから、正当な正当化プロセスでも撃退不可能である。
第6章 懐疑論への間違った対応
そこで、この第三の懐疑論への対応が問題となるが、著者は、哲学者たちはこれまで「確実で不可謬な知識を見つけてきて、その確実な知識に基づいて他の知識を正当化する路線」という間違った対応をしてきたと言い、その代表たるデカルト(「哲学原理」の項はお奨め。また、「省察」がネットで読めるんだって!)を取り上げる。
ここに方法的懐疑登場となるがその詳細はリンク参照として、問題はコギト(我思う)に辿り着いてから神の存在証明→物質の存在証明と戻ってくる際に循環的議論(デカルトの循環)があることだ。簡単に言うと、前半では欺く神によって数学的真理の正当性まで疑っているのに、後半では善なる神の存在を証明してその力で物質と観念の正当性をも証明することが循環ないし矛盾だということにある。
従って、方法的懐疑は信念ないし観念の内在的正当化に成功はしていない。ヒュームの懐疑を論駁できていないのである。もっとも、その副産物としてデカルトは自然の数学的記述という方法論を産み出した。デカルトを「なぜ自然は数理的に探求できるのかという問いについての科学哲学として読み直すことができるのではないか」と著者は言う。
第7章 懐疑論をやっつける正しいやり方
ここは言わばおまけの章。デカルトはヒュームに勝てないという決着が既についているのだから、培養槽の中の脳×閉包原理という屁理屈にノージック「考えることを考える」による知識の定義(知識はローカルに真であるような信念)屁理屈で対応しようというだけの話しになる(だから「懐疑論をやっつける正しいやり方」はミスリーディングな章名だと思う)。そしてまた、日々死滅してゆく俺の脳細胞がこの屁理屈についていくのがしんどいというのもあってパス。
以上で「知識の哲学」を読む(2)終了。要するに、懐疑論の分類と、ヒュームにデカルトは勝てない(方法的懐疑批判。でもデカルトは偉大)であった。さて、次回で最終回。乞うご期待。
第3部 知識の哲学をつくり直す
第8章 認識論の自然化に至る道
第9章 認識論を自然化することの意義と問題点
第10章 認識論にさよなら?
第11章 知識はどこにあるのか?知識の社会性
終章 認識論をつくり直す
※画像はデカルトから勝手拝借/感謝です。
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