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2006年10月 5日 (木)

政治が得意な中国人、政治が苦手な日本人

橋爪大三郎「隣りのチャイナ」を読んでいたらわかりやすい政治文化論があったので記録しておこう。

「政治とは、人が人を支配する現象」とした上で、かかる本質はどこでも共通だが「政治に対する態度のほうは、文化によって違いがある」とする。Photo_242
キリスト教など一神教では「人が人を支配するのは正しくない」と考える。「神が人を支配するべきであって、人は神に仕えるべきだからだ」。人による支配は「神を冒涜」することになる。そこで教会が国王に戴冠することによって支配の正統性を保証する儀式が必要になったり、「法の支配」を取り入れたりする。「神との契約=法に従う義務」を作り出すのである。
なるほど「法の支配」は一神教ならではのものであったか。人は神以外に支配されてはならず、自由は神によって与えられたのだから「法の支配」で自由を保護すべきということになるのだろう。

「中国の場合、キリスト教の神にあたるものがないので、人が人を支配することはタPhoto_243ブーでも何でもなかった。反対に、人が人を支配するのは当然のこと、正しいことだと考えるのが中国の伝統」となる。だから、「すぐれた政治家の条件」を考えてそれに適合した人物に政治を委ねることになる。有能で、道徳的に正しい人物を選び出す手続き=科挙が必要となり、政治はすぐれて世俗的なことがらとなり、儒教(仁義礼智信)がそのバックボーンとなった所以である。

「日本の場合、絶対神の考え方がないのは中国と同じだが、人が人を支配することになんとなく抵抗がある。政治があるのは仕方がないが、できればなしですまPhoto_244 せたい、とたいていの日本人は考えている」。だから、古代の中国からの律令制度輸入もうまく行かなかったし(律令制度導入時の指導者聖徳太子は「和を以って尊しとなす」と言明せざるを得なかった)、アメリカからもらった民主主義も日本流(利権と談合)になってしまった。「日本人は、政治が苦手」なのだ。

つまり、政治が終局的には信仰に帰着し法治となる一神教(アメリカもイランも同根!)と政治は極めて世俗的事柄であり人治である中国、できれば政治なしですませたい談合体質日本ということになる。わかりやすいなあ。ステレオタイプ化するのは行き過ぎだけれどこうした視点は持っていてわるくはない。人治中国(儒教国朝鮮も同じ)に対する談合日本。日中日韓首脳会談の成果や如何。

「信じられる人間を探す中国人、信じられるものを探す日本人」という対比もあり、なかなかこの本、面白かった。異なる文化を敵視する短絡的人間に読んで欲しいけれど、短絡的人間はこんな本、読まないだろうなあ。自家中毒(ナルちゃん)こそは破滅へ到る道なり。

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