心の哲学(1)感覚と知覚
野矢茂樹「哲学・航海日誌」(1 他我問題 2 規範の他者 3 行為の意味 4 他者の言葉)読 了。3,4はついていきかねる所もあったが、1,2は読み応えがあった。要するに、著者は心の内外二元論を打破しようとしている。すなわち、著者は
「内」と「外」とはたんなる比喩でしかない。心臓は確かに皮膚の内側にあるが、「心が意識の皮膜の内側にある」というのは意味不明でしかない。
何を指し示しているのかは一致するのだが、見てとっている相貌が異なる場合に、その差異を吸収しようとしてわれわれが言語の内に用意してきた仕掛けこそが、「心」という概念だと思うのである。
とする。「(コミュニケーションにおいて)指示を共有しつつ、それを異なる相貌のもとに捉えている場面」に心が存在するというのである。なぜ、そんなことが言えるのか。俺なりに再構成してみよう。まずは、感覚と知覚について、である。
著者によると、感覚と知覚って別物だそうだ。えっ、と思って感覚@ウィキペディアすると、感覚は、アリストテレスなどによって古来から5種類(視覚、聴覚、触覚、味覚、臭覚)に分類されて五感と呼ばれてきたとある。
これ対して知覚は、動物が外界からの刺激を感じ取り、意味づけすることである。 視覚、聴覚、臭覚、味覚、体性感覚、平衡感覚などの感覚情報をもとに、「熱い」「重い」「固い」などという自覚的な体験として再構成する処理であると言えるとある。
そうか、刺激を感じ取るのは感覚、意味づけして再構成するのが知覚ということか。知覚は感覚の上位の働きという理解でいいんだな、と理解した。
そこで、まず最初の問題は他我問題「一体私たちは他人の心をどうやって知るのか」である(他我問題は独我論の裏返し「他人に心はあるか」というのは間違い)。ここで、知覚と感覚に著者は分けて論じる。
まず、知覚。知覚については、世界は非人称的構造をなしていると著者は言う。つまり、「世界の眺望」という概念を導入して、外界は心とは独立に実在しているのだから、外界の眺めは眺望点(眺める場所)ごとに異なるけれども、眺める人による違いは無いと言い切るのである(アスペクト問題「~として見る」は後で述べる)。
他方、感覚(たとえば痛み)。感覚は一人称的構造しかあり得ない。なぜなら、知覚は対象を持つ(複眼的構造)が、感覚は対象を持たない(単眼的構造)からである。すなわち、
知覚「見る」場合には(対象が存在するので、対象を)「よく見る」という言い方ができるが、感覚「痛む」場合には(対象が無いので、対象を)「よく痛む」という言い方はできないのである。
ほほう。とすれば、既に知覚において心は内に閉じ込められてはいない(知覚は非人称的。視覚不良等で眺望が歪められることはあっても原理的に非人称)。これに対して感覚(感情は?)は一人称すなわち心の内に生じるものとなる。
ちょっと理解しにくいな。だって心は脳の働きだろ、そして脳は「皮膚の内側」にあるじゃん。やっぱりオカシイんとちゃう?という疑問が発生する。
これに対して俺は働きと現象を区別するという理屈で対抗しよう。つまり、働きとしての心(いまの場合、知覚)は「皮膚の内側」にあるけれど、現象としての心(いまの場合、知覚という概念)は「皮膚の内側」にない、とするのである。
ここで予定紙数が尽きた。次回予告→心の概念モデル。ちょびっとだけ予告編。
価値世界 概念世界 事実世界
客観(間主観)⇔ 心 ⇔ 外界
思考(理性)
知覚(悟性)←心の内に非ず
感覚(感性)
※写真は科学哲学 - 講義紹介 - 東大の学び - UT-Lifeから勝手拝借/感謝です。
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