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2006年11月 7日 (火)

心の哲学(2)知覚因果説(内外二元論)の否定

前回の続き→課題は他我問題「いったい、私たちは他人の心をどうやって知るか」であっPhoto_289 た。そこで、心とは何かを究明しなければならないが、まず、心の下層の部分である感覚と知覚を問題にした。すなわち、感覚と知覚とは違う(ぎょっ、としたけど)、更にはどのように区別するかが問題となった。

ここで著者は知覚因果説「実在が原因となって知覚が生じる」(←我々の常識的な見方)は誤りであると主張する。ほんとうにそうなの?
では、その論理を追ってみよう。

知覚因果説は実在の世界と知覚の世界の二元論をとる。しかも、私が生きているのはその一方の知覚の世界だけでしかない。

こんな、心の内外二元論(対象=外、働き=内)はオカシイと著者は主張する。

リンゴを見て、手にとり、かじる。そこに現れるのは視覚的、聴覚的、触覚的、味覚的に知覚されたリンゴである。見回しても、指先をはわせても、すべては知覚でしかないのである。

心の内外二元論は、ロック以来の伝統的考え方(経験論+観念のベール)に由来している。すなわち、
ロックは,それゆえ,「自然(物体)」が存在しないと考えたわけではなく,「自然そのもの」をわれわれが認識できるわけではないということをいおうとした.われわれ(精神)が客体(物体)を認識するとき,その物体そのものを認識するのではなく,経験を通じて得られた感覚,もしくは,感覚によって得られた観念によって認識するのである
われわれは対象(自然)を経験を通じて認識するのだが、対象(自然)と観念(心)の間には観念のベールが存在するので自然そのものを認識するのではない、とする。

これを著者は否定する(大森先生譲りである)。
否定の根拠の第一は上に引用した言わば開き直り→人間原理「この世界がこのような姿をしているのは人間がいるからだという考え方」(→すべては知覚でしかないと言うのは言い過ぎで、知覚からしか出発不可能ということ)である。
そして、第二に(これが面白い)「因果関係を言い立てることには原理的な困難がある」ことを挙げるのである。

一般に、因果関係を認識するとき、それは原因と結果の相関関係の観察に基づいている。例えば、喫煙と肺癌の因果関係を知るには、喫煙者と肺癌患者をそれぞれ調べ、その相関を確認するわけである。しかし、知覚因果の場合にはこのような可能性は完全に断ち切られている。私は知覚の原因に出会ったことなどないし、その可能性もない。このような場合、そこに因果関係を言い立てることには原理的な困難がある。

まあ、これも知覚における人間原理だろうなあ。知覚においては原因と結果とを別々独立に観察不可能やんかあ、だから、観念のベールなんかあらへんぞ。例えば色彩、人間に見える色が色彩そのものやんか、それ以外に色なんか無い。と、デカルト原理(物体の本質は延長、心の本質は精神=観念)の修正を迫るのである。

さて、この理屈に納得できるか。
いくら時代遅れの二元論などと言われても、われわれは机や本のような「対象」と、それを見ている「人の状態」を区別して理解しているという反対意見もあるが、対象・状態の区別は認識論の問題、ここでは認識以前の知覚(五感)を問題にしていると限定すればよかろう(野矢教授の言葉遣いが不適切なのだ!)。
すなわち、心の構造を次のように概念モデル化するのである。

価値世界    概念世界   事実世界
客観(間主観)⇔  心   ⇔  外界
          思考(理性)    経験知覚という現象を含む)
          認識悟性←知覚を意味づける(概念化)
          知覚の働き(五感)
          感覚(体性感覚。例えば痛み)←外界に働きの対象は無い。

前回述べたように、知覚を働きと現象に区分して、知覚現象は経験の一部として外界に実在し、知覚働きは心の機能と考えるのである。
かくすれば、観念を心から追放でき(知覚現象として外化)、更には、認識論の自然化プロジェクトにもつながるのではないか。

ところで、上の心の概念モデルには重要な要素が欠落している。それは、意志と感情である。これについては、次回(たぶん最終回)に回すとしよう。

ブログランキング(前回よりは出来がいいでしょう)

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コメント

知覚と感覚の違いが前からよくわからなかったんですが、ヒントをいただきました。自分でも考えてみます。

投稿: 鏡像 | 2006年11月 7日 (火) 午後 03時27分

ヒントになりましたか。それは喜ばしい。お返し、待ってます。

投稿: 土曜日の各駅停車 | 2006年11月 8日 (水) 午前 05時43分

感覚は、自分の体に関する内部的な把握。
知覚は、自分の体を通した、外界の把握。
感覚の対象は、感覚じしんがつくりだし、感覚がなくなれば対象もなくなる。
知覚の対象は、知覚とは独立に存在し、感官を閉じても対象はなくならない。
感覚は、主観的。
知覚は、間主観的。

投稿: 鏡像 | 2006年11月 9日 (木) 午前 12時52分

そうなんですよ、知覚は実在だと野矢教授はおっしゃるんですよ(師匠の大森教授譲り)。
実はも一度、哲学・航海日誌を読み返してみようかと思っています。言語哲学大全2にやっぱりついていけそうにないみたいだから。

投稿: 土曜日の各駅停車 | 2006年11月 9日 (木) 午前 04時02分

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