心の哲学(3)意味の他者
これまでの要約。
要するに、感覚と知覚は区別されるべき概念である。感覚は体性感覚(痛みとかの体内で生ずる感覚)であって主観的なものであるのに対し、知覚は五感(外界の眺望)であり 客観的実在としてモデル化するべきものであった。
ところが、ここにウサアヒル登場。右の図は何に見えるだろうか。見る人によりウサギに見えたりアヒルに見えたりするのではないだろうか。すなわち、ゲシュタルト心理学に言うところの、知覚は単に対象となる物事に由来する個別的な感覚刺激によって形成されるのではなく、それら個別的な刺激には還元出来ない全体的な枠組みによって大きく規定されるということである(図と地の関係)。
そして、図と地は対等、つまり、ウサギかアヒルかはどちらが正しいとは言えないのである。そしてまた、どちらを選ぶかは価値観による選択となることも往々にしてあるのである。
ここに意味の他者<気づき>が現れることになる。俺にはウサギに見えるけれどお前にはアヒルに見えるのか、そうかそういう見方もあるなあ、と我々は他者によって気づきを与えられるということだ。だから認識は既に社会化されていると言ってもいいだろう。すなわち、我々は意味の他者に囲まれて育ち、言語を習得し、言語情報によって生まれる前の歴史を知り、行ったことのない他国の文化に触れるのである。
以上に、意志と感情を加えれば、心は次のように概念モデル化できることになる。
価値世界 概念世界 事実世界
客観(間主観)⇔ 心 ⇔ 実在
意志 思考(理性) 経験(知覚現象)
認識(意味の他者と言語による社会的認識:悟性)
知覚(五感)
感情 感覚(体性感覚。例えば痛み)
意志と感情を価値世界寄りに配置したのは、意志が価値の実現を目指すものであり、感情が意志という力の源であるからである。
かくして、心は内界に閉ざされているものに非ず。心の中には既に意味の他者が侵入し、心のコンテンツは主として言語情報で埋められているのである。だから、我々は他者の心を言語と五感・感情の構造的共通性に基づいて知ることができる。
もっとも、最も知り難きものは他人の意志であろう。こいつ、いったい何を目論んでいるんだなどと。いや、そもそも自分の意志も知り難いのかもしれぬ。わて、どないしたらええかわかりまへんねん、と。
以上で心の哲学をとりあえず終了(まだ続きあり)とする。以下は竹内薫「物質をめぐる冒険」から若干のオマケである。
宇宙定数は真空が持っているエネルギーのことである。もちろん、世界一有名なE=mc2という公式により、質量はエネルギーと等価なのだから、物質の存在もエネルギーに換算することができる。
とあって、宇宙が持っている全エネルギーのうち、通常の物質は4%、残りの96%は正体不明だそうだ。そして96%のうち23%が暗黒物質、残りの73%が宇宙定数(暗黒エネルギー)と予測されているらしい。
なんやあ、ほとんどが正体不明やんかあ。そやのに量子トランスポーテーションとか超ヒモ理論とかスピネット理論とかを振り回すなと思いつつ理解不十分のまま読み流した。
しかしながら、質量とエネルギーの等価性はモノからコトへのパラダイムシフトをもたらした。要するに実体(モノ)から関係(コト)ということだろう。
また、色即是空の物理学(客観から間主観へ)という言葉も出てくる。これは賛成。客観とは実在に非ず、間主観で構成するものなり。ほら、俺の心の概念モデル図は始めからそうなっているだろう。
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