聡明で健気な貴女に捧げる哲学史(4)言語論的転回
西洋哲学はギリシアにおける存在論(ほんとうに存在するものは何か)に始まった。
そんなん、決まってるやん、物質やんかあと物質文明全盛の今では答えるのがフツーだ(かもしれない)。
しかし、プラトンはイデア(「美」や「正義」という普通名詞に対する<美そのもの>や<正義そのもの>という抽象的実在←門脇俊介「現代哲学」<自然主義vs反自然主義を軸にした現代哲学教科書>から引用。以下斜体はここからの引用)が真に存在するものだとして、これが西洋哲学の主流となっていた。
ところが、デカルトが反旗を翻す。彼は方法的懐疑により物心二元論に直観的に到達し、イデアに対して物質の独立性を対抗した。もっとも、このデカルトの抵抗は物質に限定されたもので、プラトンのイデアは観念(心の中の表象)として生き残った。だから、物質を数学的に記述・分析したとしてもそれによって心にもたらされる観念が知識の究極的な要素とされざるを得なかった。知識の正当性は知識を持つ人の心の中の観念の正当性と同一視されたのである。
ここにフレーゲ登場。フレーゲは言葉の意味から観念の牙城を突き崩そうとした。すなわち、言語を単なる伝達の道具としてしか見なかったデカルト・ロック・カントなど近代観念論者たちは意味の観念説「言葉の意味は観念である」を取っていたが、フレーゲは、言葉の意味を人間の心の状態に関係づけるこうした心理主義=意味の観念説に反対した。言葉の意味を意義(言葉が公共的に使用され理解されるあり方)とイミ(言葉が指示する対象)に分解し、意義もイミも公共的に使用される文脈の中で定まってくるという文脈原理を主張したのである。
なあんかムツカシそうに聞こえるけれど要するに、知識は心の中だけに観念としてあるのんとちゃいます、ということだ。知識は言葉によって伝達され蓄積され更には深化(思考)される。そやのに、おまえエラソーに知識を振り回しとるけど知識はおまえ一人のもんか、ちゃうやろ、学校の先生に習ったやろ、本を読んだやろ、ネットでパクッたやろ。知識は公共的なもんや、公共の財産や。
そして、ウィトゲンシュタインは言葉の意味は言語におけるその使用形態なりと喝破したのである。将棋の駒に意味は無い。将棋というゲームにおいて駒が使われることが駒の意味である。
以上を要するに、言語論的転回は心の中から観念を追放し言語を哲学の主対象として取り上げる動きのことである。もっとも、存在論から認識論へという認識論的転回の枠組みの下でという制約がついているのだが。この点は次回最終回に乞うご期待。
※写真はフレーゲとは - はてなダイアリーから勝手拝借/感謝です。
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