昨日、ご近所の方の告別式で調布のセレモニーホールまで行ってきた。享年63歳。数年前に喉頭癌の手術をされて、金曜日の未明に自宅トイレで吐血し寝床に戻ってそのままだったようである。お酒の好きな方だったようで、親しく会話したことはないけれど朝ウォークの途次で毎日のようにご挨拶したお付き合いであった。
遺影の代わりに大型ディスプレーが中央に配置され、読経・焼香等伝統的儀式が済んだ 後で故人紹介のナレーション、バイオリン演奏(裕次郎「わが生涯に悔いはなし」)がなされる現代風告別式だった。献花させて頂き出棺まで見送った。人の生涯を思う一日であった。
さて、今日はスーパースター寺山修司。三沢に記念館があるようで、今でも熱烈なファンが多い句歌演劇マルチタレントである。私は肝硬変で死ぬだろう。そのことだけは、はっきりしている。だが、だからと言って墓は建てて欲しくない。私の墓は、私のことばではあれば、十分。という言葉を残して47歳で逝ってしまった。
きみが歌うクロッカスの歌も新しき家具の一つに数えむとする
寺山の歌は多様性に富み、どれが現か夢かわからぬところがあり、諧謔風刺おちょくりさえも感じられることもある。有名な「マッチ擦るつかのま海に霧ふかし身捨つるほどの祖国はありや」にしても額面通りに受け取っていいかどうか、「いや、単に裕ちゃんを気取っただけさ」と言われそうな気もする。
そんな寺山の歌の中で恋愛歌謡を選んでみた。みずみずしく鮮烈な歌であり、句跨り前衛手法を取り入れてモダンを感じさせ、それでいて歌謡性を失わないところがこの歌のいのちだ。
単独でこの歌のみを鑑賞すると、彼女と一緒の暮らしを始める青年の喜びの歌のように見えるかもしれない。しかし、寺山ワールドの中にこの歌を置くと(現代の短歌に掲載されたいくつかの歌を見渡すだけで)別の風貌が見えてくる。青春とは純粋さではない、偽悪と偽善のないまぜのような気がしてくる。ウソもマコトも全てがホントウなのだ。
だから、葬式で故人紹介なんかやってほしくない。片付けてほしくないと思う。
もっとも、死んだらなんにもないのだからどうでもいいことなのだけれど。葬式は生者のための儀式なのだから。
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