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2006年11月

2006年11月30日 (木)

冬田の句

今日の二句目も耕衣の織り込みで「風狂の耕衣の背なや冬田道」。Photo_351
耕衣さん、句集を拝見していますよとの挨拶のつもりである。播州の田の畦道を行く耕衣の背中を見つつの挨拶でもある。

 家康公逃げ廻りたる冬田打つ      富安風生
 最澄の瞑目つづく冬の畦         宇佐美魚目
 爺の背に負はれて冬田何もなし     森 澄雄    

澄雄も播州網干の生まれだったか。
澄雄には初期のみずみずしき代表作「除夜の妻白鳥のごと湯浴みをり」がある。

※写真は特別展「森澄雄の世界 俳句―いのちをはこぶもの」から勝手拝借/感謝です。

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大悟一番

姑85歳との会話。Photo_23
「このごろぼけてきたわ」
「なんや、どういうこっちゃ、言うてみ」
「朝起きるやろ。昔やったら今日はこれしよう、というのがあったけど今はないねん」
「ふーん、それは何かのためになにかしようと思てたんか」
「そや、それが今はないねん」
「あかん。何かのためにいうのが間違いや」
「どういうこと?」
「つまりなあ、何かのために何かをするいうのはなあ、目的と手段や。ところがこんな風に考えると、目的がなくなってしまうとみーんな無しや。そやから手段という考え方自体が間違いやねん。玉葱と一緒や、手段という皮を剥いていったら全部無くなってしまうねん」
「ほおおぉぉ」
「そやから、あんたの人生みんな間違い。息することも目的やと思うてみ。それが大悟一番ということや」
「ふうーん、ふうふうふはああ」と息をする姑であった。

思いつきで言ってしまった大悟一番。ネット検索すると使われてはいる。よかった。しかし出典判明せず。

それはともかく、言葉はいつも天唾でわが身に降り降りてくる。
全ては目的。大悟一番せよ、只管打坐→追記:ネット検索したら、観念がんじがらめに自分を縛る、閉塞社会そのものです、仏とは何か、ほとけはほどけだと云った人がいます。自縄自縛する縄をほどくんです、ほどき終わればもと仏。とあった。読んで、意味はわかる。わかるけれどもなかなかほどけぬこの煩悩。

※写真は道元、道元禅師様から勝手拝借しようとしたけれど転載禁止としてあるのでカン トで代替する。東海大学公開講座より勝手拝借/感謝です。

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奥村晃作

このところ(正直に言って)俳句に夢中である。なぜ、こんなに夢中になったかという理由についてはウィトゲンシュタインとの出会いにありという自分なりの自己分析があるが、これはいつかまた書きたい。
それはさておき、俳句である。俳句の魅力のひとつは省略にある。簡潔なのである。

 生きがたきこの生のはてに桃植ゑて死も明かうせむその花ざかり  岡井隆
 夢の世に葱を作りて寂しさよ  永田耕衣

短歌と俳句を並べてみた。岡井隆が冗長に(申し訳ない)語っていることを、耕衣はぽんと放り出してお終いである。耕衣が「グダグタ言いなさんよ」と言っているかのようだ。
しかし、短歌には短歌の言い分がある。言葉を連ねて言いたいことがある。映像として読み手の脳に伝えたいことがある。
つまりは、短歌は具象画、俳句は抽象画ということかもしれない。この両者の世界で独りよがりに遊べる吾は幸せなりき。

さて、今日は奥村晃作。奥村晃作短歌ワールドを開設運営して元気いっぱいな歌人70歳Photo_349 である。

 次々に走りすぎ行く自動車の運転する人みな前を向く

一読、面白い歌だ。なにが面白いといって当たり前だから面白いのだ。言われてみればなるほどなのである。後ろを向いて運転する人なんてこの地球上に一人も(自信無くなってきた、ミラー使いが一人ぐらいいるかもしれぬ)いない(たぶん)。
作者にはこの手の歌が多い。いわゆる、ただごと歌である。
では、なぜ、ただごと歌を作者は好んで作るのか。

さきほど、俳句と比較して短歌は具象画と書いたけれど、この論理を延長すると具象画はただごと歌に到達するという理屈がひとつである。
もうひとつの推測は、作者の自己紹介にあるように思う。ここで作者はこう書いている。

少年の日と同じく、あいも変わらず、本当にやりたいことが何であるのか分らない。何のために生まれてきて、どういう使命を帯びていまなお生かされているのかよく分らない。

そして「
わたくしはここにゐますと叫ばねばずるずるずるずるおち行くおもひ」他の叙情歌が引かれている。

短歌には、俳句では汲み尽くせない叙情がある。この叙情を俳句は切り捨てることによって成立する。ものにつけ、ということである。ウィトゲンシュタインの言葉を借りれば「語りえぬものについては、沈黙せねばならない」のが俳句なのである。

これに対して、奥村は叙情を切り捨てない。叙情を切り捨てるのではなく、裏側から歌いたい、それが奥村のこの歌ではないだろうか。前を向かねばならぬ運転者の切ない感情がここにはある。

※写真はクレスタ ユーザー評価 【carview】 トヨタ クレスタ - ユーザーレポートから勝手拝借/感謝です。

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冬眠の句

俳句初心者の俺の課題は、まず、季語に親しむことである。春夏秋冬、四季の季語を一Photo_348 通り回さないと一段落しないけれど、各季節の季語を頭に織り込むことが必要だと思っている。だから、暇さえあれば(と言う程でもないが)歳時記をひもといている。

そこで、今朝の句の季語は冬眠、「哲学はしばし冬眠耕衣来る」。
ちょうど哲学も少し飽きかけていた(こらえ性がない、ホント)ところに耕衣と出会った。哲学(入門)書を脇において、俳句入門書、耕衣句集を読み始めている。

では、冬眠の句をいくつか引いて季語に親しもう。
 金色の蛇の冬眠心足る      加藤楸邨
 冬眠の亀や西暦二千年      鈴木沙万沙
 獰猛と記され鰐の冬眠す      山口波津女
 冬眠の蛇をおこして蛇遣ひ    有馬朗人

あ、俺の句には冬眠する具体的な動物が出てこないなあ。これではいかん、俳句は具体につかなければならぬと反省した次第である。

※写真は「学力低下」よりも、深刻な問題はほかにある-有馬朗人さん - 学びの場.comから勝手拝借/感謝です。

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2006年11月29日 (水)

日記買ふの句

今日の二句目は「愛娘潮迎へけり日記買ふ」(「我が息子」の娘バージョン)。Photo_346
手帳も買わなくなった俺だから当然に日記も買わない。ウソばっかりの句である。
こんなウソばっかりで耕衣の足元のゴミのチリまでも近づけないだろうなあ。
それでも精進。精進すればいつか芽の出る花の咲く。

 人波のここに愉しや日記買ふ      中村汀女
 我が生は淋しからずや日記買ふ   高浜虚子 
 実朝の歌ちらと見ゆ日記買ふ     山口青邨
 すでにして己れあざむく日記買ふ   岡本 眸

さて、ブログとは己れあざむくものなりや。

※写真は岡本眸。湘南よみうり310号から勝手拝借/感謝です。

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スコア

BS2「スコア」を観た。エドワード・ノートンアンジェラ・バセットも知らんかったけど、これでPhoto_345 (名前は)覚えたぞ。

 諍ひてひとり洋画を深夜観るマーロン・ブランドああ老いにけり

これが、スーパーマン リターンズ(アーカイブ映像にて参加)を別にすれば、ブランドの最後の出演作だったようだ。2004/07/01没、享年80歳。

※写真はアンジェラ・バセットから勝手拝借/感謝です。

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賀状書くの句

城山三郎「部長の大晩年」読了。主人公、永田耕衣は郷里加古川の大先輩だ。Photo_344
そんなこともあるのか、巻置く暇もなく(この言葉、いっぺん使ってみたかった)読み通した。
ええなあ、カッコええなあ、こんなジジイになりたいなあ、と単純に憧れてしまう。耕衣に夢中(になりそう)である。ひろく深くおのがじしに生きたい。

さて、今朝の句は「我が息子毛の生えにけり賀状書く」。
もうそんな季節である。(暇はあるのに)いつもぎりぎりにならないと書かない。

 世のつねに習ふ賀状を書き疲る     富安風生
 うつし身の逢ふ日なからむ賀状書く    渡辺千枝子
 横顔の記憶ぞ慥か賀状書く        谷口小糸

「部長の大晩年」によると世間に囚われずに生きた耕衣は賀状なんて書かないと広言していたが、何人かには手書きで心をこめた賀状を書いていたそうだ。「人間、出会いは絶景」とは耕衣の言葉である。

※写真は耕衣。兵庫文学館から勝手拝借/感謝です。

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2006年11月28日 (火)

熱燗の句

亡父に続き、亡母の句である。「熱燗や喉骨太き母拾ふ」。
享年75歳で一昨年、他界した。東京に呼んで五年間、トライアングルで暮らした。濃密な時間だった。墓はつくらず、和田堀廟所に納骨した(俺もここに入る)。絶対に、母の齢をPhoto_343 抜いてやると毎日、母を思っている。

 熱燗に舌を焼きつつ談笑す      高浜虚子
 熱燗の舌にやきつく別れ哉      村上鬼城
 熱燗や食ひちぎりたる章魚の足   鈴木真砂女

 熱燗やいつも無口の独り客        仝

真砂女の「来てみれば花野の果ては海なりし」が辞世の句ではないかと察せられるとのことである。死と、愛こそが句歌の究極的なテーマのような気がしている。
 祖父の骨父母の骨拾ひしは仕合せなりと南無阿弥陀仏

※写真は鈴木真砂女。チャートの王様から勝手拝借/感謝です。

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陰の主役、すま・けい

寅40作は「サラダ記念日」。当時、爆発的なブームを起こした俵万智の歌集にちなんだ題名の作品だ。知らない人のために歌を引いておこう。
 「この味がいいね」と君が言ったから七月六日はサラダ記念日Photo_342

マドンナは三田佳子。ちょっとセンチにすぎる女医役がぴったりだった。寅に対するカンドンはマドンナ共通だからこれは許す。
そして、三田の上司である病院長(一人暮らしであることが映画結末部でさりげなく描かれている)がすま・けい。これが実は陰の主役なのだ。

というのは、すま・けいのセリフ(ようちゃん、流石。冒頭で引いてくれました)が理由だ。

いいですか。この病院はあなたを必要としている。それが何よりも大事な事で、あなたが抱えている問題は大したことじゃない。子供と会いたければ、呼び寄せれば良い。え、悩み事があれば、働きながら解決すれば良い。そうやって苦しみながらですね、この土地で医者を続けていくことが、自分の人生だということが、あなた、どうしてそれが確信を持てな・・ないんですか。東京の郊外のお母さんの家で、花でも眺めながら休息の日々を送る。その内、縁談があって、瀟洒な病院の奥様に納まる。そんな人生があなたにとって幸せなんですか。ちっとも幸せなんかじゃない。

これはもうほとんど愛の告白である。「瀟洒な病院の奥様」などは嫉妬の表明である。このセリフを映画は、すま・けいの後姿のみを映して表現する。すま・けいの背中の名演技に俺は唸ったのだ。
そして映画の結末部、新年、忙しく働いている三田佳子(東京に戻ることを諦めたようだ)と一人ぼっちのお屠蘇で酔っ払ったすま・けいを映し、画面一転、恒例の寅の正月バイで終わらせる。

どうした、すま・けい。おまえも寅になりたいか。
欲しいのなら「センチな医者は不要。俺の女になれ」と迫れ。愛は惜しみなく奪うものなりき。

※写真はすまけい -プロフィール-から勝手拝借/感謝です。

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枯木立の句

亡父、亡母の句を得た。句集「妾宅の木戸」に並べて載せて、供養にしたい。Photo_341
そこで、まずは亡父の句「亡き父の夢になほ出づ枯木立」。
たまに亡父の夢を見る。縁薄く、還暦前に他界した父の人生を思う。

 三井寺や狂女もあらず枯木立     高浜虚子
 今日の日の空を支へて枯木立     星野立子
 枯木立月光棒のごときかな       川端茅舎

立子は虚子の次女。「大佛の冬日は山に移りけり」がある。
花鳥諷詠(

「花鳥風月を諷詠することで、一層細密に云へば、春夏秋冬四時の移り変りに依つて起る自然界の現象、並にそれに伴ふ人事界の現象を諷詠するの謂であります」と虚子は言う)の見本といえようか。

写生は俳句の基本。子規にも、草花の一枝を枕元に置いて、それを正直に写生して居ると造化の秘密が段々分って来るやうな気がする。という言葉あり。眼を凝らして見つめることを忘れてはならぬと自戒するものなり。

※写真は星野立子。星野立子 かまくら GreenNetから勝手拝借/感謝です。

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2006年11月27日 (月)

落葉の句

言語論的転回の駄文を弄して、ウィーンフィル@アーノンクールのモーツァルト三大交響Photo_340 曲(昨夜NHK教育放送)を聴いている。ノリントン@ピリオド奏法viaN響はあんまり感じなかったけれど、アーノンクールは感じる。ヴィブラートかけずとも、音が輝いている。うっ、ウィーンフィルだから当たり前か。

そんなこんなで哲学脳・俳句脳・短歌脳・音楽脳を持てる心の嬉しさよ。

 短歌脳哲学脳に俳句脳能なしなれど脳三個あり(三個しか織り込めず)

さて、今日の二句目は「落ち葉には落ち葉の言ひ分愛は愛」。
ああ遂に俺は無意味句の領域にまで乗り入れてしまった。流れ流れて網走のおいらの行く先番外地なり。

そこで、落葉の句をいくつか引く。
 落葉踏みさだかに二人音違ふ      殿村莵絲子
 白き手の病者ばかりの落葉焚      石田波郷
 夫恋へば落葉音なくわが前に       桂信子

桂信子には「ゆるやかに着てひとと逢ふ蛍の夜」という美しい句がある。美しさはやはり美徳なのであろうか。

※写真は桂信子、art random - 人生のセイムスケール - age 90から勝手拝借/感謝です。

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聡明で健気な貴女に捧げる哲学史(4)言語論的転回

西洋哲学はギリシアにおける存在論(ほんとうに存在するものは何か)に始まった。Photo_22
そんなん、決まってるやん、物質やんかあと物質文明全盛の今では答えるのがフツーだ(かもしれない)。
しかし、プラトンはイデア(「美」や「正義」という普通名詞に対する<美そのもの>や<正義そのもの>という抽象的実在門脇俊介「現代哲学」<自然主義vs反自然主義を軸にした現代哲学教科書>から引用。以下斜体はここからの引用)が真に存在するものだとして、これが西洋哲学の主流となっていた。
ところが、デカルトが反旗を翻す。彼は方法的懐疑により物心二元論に直観的に到達し、イデアに対して物質の独立性を対抗した。もっとも、このデカルトの抵抗は物質に限定されたもので、プラトンのイデアは観念(心の中の表象)として生き残った。だから、物質を数学的に記述・分析したとしてもそれによって心にもたらされる観念が知識の究極的な要素とされざるを得なかった。知識の正当性は知識を持つ人の心の中の観念の正当性と同一視されたのである。

ここにフレーゲ登場。フレーゲは言葉の意味から観念の牙城を突き崩そうとした。すなわち、言語を単なる伝達の道具としてしか見なかったデカルト・ロック・カントなど近代観念論者たちは意味の観念説「言葉の意味は観念である」を取っていたが、フレーゲは、言葉の意味を人間の心の状態に関係づけるこうした心理主義=意味の観念説に反対した。言葉の意味を意義言葉が公共的に使用され理解されるあり方)とイミ(言葉が指示する対象)に分解し、意義もイミも公共的に使用される文脈の中で定まってくるという文脈原理を主張したのである。

なあんかムツカシそうに聞こえるけれど要するに、知識は心の中だけに観念としてあるのんとちゃいます、ということだ。知識は言葉によって伝達され蓄積され更には深化(思考)される。そやのに、おまえエラソーに知識を振り回しとるけど知識はおまえ一人のもんか、ちゃうやろ、学校の先生に習ったやろ、本を読んだやろ、ネットでパクッたやろ。知識は公共的なもんや、公共の財産や
そして、ウィトゲンシュタインは言葉の意味は言語におけるその使用形態なりと喝破したのである。将棋の駒に意味は無い。将棋というゲームにおいて駒が使われることが駒の意味である。

以上を要するに、言語論的転回は心の中から観念を追放し言語を哲学の主対象として取り上げる動きのことである。もっとも、存在論から認識論へという認識論的転回の枠組みの下でという制約がついているのだが。この点は次回最終回に乞うご期待。

※写真はフレーゲとは - はてなダイアリーから勝手拝借/感謝です。

ブログランキング前回よりちょっとはオモロイのんとちゃいますか?

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師走の句

お相撲が終わった。朝青龍全勝優勝、強すぎるよ。来年は誰か負けさせよ朝青龍。でも、あのスピードと利発とやんちゃにはなかなか勝てぬわなあ。Photo_339
そこで、今朝の句は「お相撲の浮いて沈んで師走の来」。
若の里が十両で相撲を取っていたんだ。頑張れとビデオ観て拍手して喜ぶ大相撲なり。

さて、師走の句をいくつか引く。
 師走くる靴屋に靴をはきながら     秋山巳之流
 炭売に日のくれかゝる師走かな     蕪村
 病む師走わが道或はあやまつや    石田波郷
 極月の不況あざむく蘭の束       殿村菟絲子

殿村菟絲子がどんな俳人か知らなかったのでネット検索。明治四十一年生まれ。柴田白葉女や加藤知世子らと「女性俳句会」を興し、「女性俳句」を創刊しました。「万蕾」創刊・主宰。秋桜子、波郷に師事。(現代俳句辞典参考)を見つけた。
また、こんなカッコイイ句もある。「枯るるなら一糸纏はぬ曼寿沙華」。

人生に繰り返し無し。日帰り温泉でいつも、俺は裸の猿なりと思ひけり。

※写真はSANSPO.COM  スポーツから若の里を勝手拝借/感謝です。

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2006年11月26日 (日)

冬の虫の句

何かで読んだのだけれど、ベートーベンのピアノソナタは日記、弦楽四重奏曲は手紙だそうな。
俺にとってはどうかなあ。俳句は日記、短歌は手紙(宛先の無い)か。ともかくもまあ、毎日、句歌を得ることは仕合せなり。そこで手紙を一首。

 ユニクロにチラシを持ちて買ひに来るオジサンのありクリスマスセールPhoto_338

さて、今日の二句目は「哲学と俳句に没頭冬の虫」。
歳時記には「冬に残り、枯れきった草叢の中で細々と鳴く声には、哀れなものがある。虫の最期の声でもある」とある。
 冬の虫ところさだめて鳴きにけり      松村蒼石
 冬の虫言はぬ一言とはに生く        加藤楸邨
 鳴く力たまれば鳴きぬ冬の虫        竹内武城

楸邨絶唱は「鰯雲人に告ぐべきことならず」である。これが俳句というもののある本質を語っている作品と言われている。楸邨の写真も左のリンクから勝手拝借/感謝です。

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記事作成に大苦労

三回、入力し直した。投稿すると内容が真っ白になっちゃうんだもん。

どうも、ネット歳時記から例句をコピペすることに関係しているみたいだ。HTMLのコピーになるからなのかなあ。要注意。
ブログ/HPからコピペする前に一旦更新するといいけど、徹底できないだろうなあ。

見苦しいところをご覧になったお客様、申し訳ありませんでした。

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寒鴉の句

昨日は憂国忌であることを俺の句にコメントをつけてくれた方のブログで知った。
三島事件は1970年(昭和45年)。もう遠い過去である。70年安保で騒然とした空気があった時代だ。「あの頃も貧しき心三島の忌」と即席俳句でレスさせてもらった。憂国忌を使わなかったのは愛国心から愛国心へと願うからである。Photo_337

さて、今朝の句は「一日中仕事中毒寒鴉」。
期せずして漢字俳句になってしまったが、飄逸な味があると思うので気に入っている。ナルちゃん俺は自分の句は皆気に入るのだけれど。

そこで、寒鴉の句をいくつか。
 寒鴉ふりむいて連なかりけり     上田五千石
 千代田区を大胆に飛ぶ寒鴉     町垣鳴海
 寒鴉啼きて沖には国もなし      中村草田男

草田男は「降る雪や明治は遠くなりにけり」の作者である。昭和も霞みつつある。サヨナラだけが人生なり。

※写真は愛媛の偉人・賢人の紹介から草田男。勝手拝借/感謝です。

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2006年11月25日 (土)

聡明で健気な貴女に捧げる哲学史(3)認識論的転回

ギリシア以来、哲学の主要問題は存在論(ほんとうに存在するものは何か)であった。Photo_334
ものごとを神(心)の側から見るべきとする中世キリスト教神学は、ものごとを実在の側から眺めて、ほんとうの存在は物質であるとする自然主義的存在論(唯物論)を抑圧し続けてきた。つまり、心と物質の対立に心は勝利していたということである。そりゃそうだよね、心と物質とどっちが大事?と訊かれたら素朴に心と答えるもんね。

ところが、ここにデカルト登場。彼は主戦場を存在論から認識論(我々は何を知り得、またいかにして知り得たと言うことを正当化するか)にシフトすることにより教会に対抗しようとしたのではないかと俺は思う。どっちが大事と訊かれて物質と答えることは憚りがあるので、存在論は棚上げにして認識論で戦ったのである。それが彼の方法的懐疑「我思う、故に我あり」(方法的懐疑により、自分を含めた世界の全てが虚偽だとしても、まさにそのように疑っている自分自身の意識作用そのものだけは、その存在を疑いえない)である。

しかし、ここで気をつけないといけないのは「すべてを疑うことによってデカルトが到達した精神としての私の存在ということにおいては、私とか我とかいうのは、結構中身がリッチなんだ」(ネタ本から引用)ということである。つまり、デカルトは全てを疑うのだけれど、到達点としての精神は空っぽの精神ではない。疑いの過程で出てくる世界、人、存在といったものに対する様々な観念を持ったままの精神が到達点なのである。
言い換えると、デカルトの命題は自我の存在を証明する推論ではない。デカルトは、「全て考えるものは存在する」とは主張しておらず、物質や世界の存在は、意識作用の直接性から「直観として」(神の存在証明から)導かれたものである。
だから、デカルトは直観主義であり、これに対して真理基準の論理的分析を強く主張するライプニッツは形式主義と言われるのである。

それはともかく、デカルトは認識論の土俵の上で戦うことにより、イデアから物質を切り離し主客二元論=物心二元論(延長<大きさ・長さ>を本質とする物質、思惟を本質とする精神の二元論)を確立することに成功した。プラトンのイデアを主観に封じ込めて、客観=物質の数学的モデル化・分析への道を開いたのである(端的な例が学校で習ったデカルト座標)。
ここに、ギリシア以来の西洋主観主義哲学は今日の物質文明の基礎を築くことができた。主観主義(心=主観の側から世界を眺める)の伝統とキリスト教の抑圧が二元論偽装に止まらざるを得なかった唯物論者デカルトを生み、デカルトの数学的モデル化・分析手法は科学技術の飛躍的発展をもたらしやがて西洋は東洋を圧倒侵略するのである。

画像はスウェーデン女王クリスティーナ(左)とデカルト。デカルトは女王に招かれたスウェーデンで病没する。享年54歳。
さて、次回はいよいよ言語論的転回、乞うご期待。

ブログランキングデカルトのコギトがリッチだということに納得したらクリックしてね。

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懐手の句

今日の二句目は「ドン・ファンと呼ばれて久し懐手」。
歳時記の懐手の項には「手の冷えを防ぐ意味があるが、多くは無精者のすることであまり見てくれのよいものではないが、和服特有の季節感はある」とある。歳老いて行く二枚目の哀愁と嫌味を拙句に感じて貰えれば、と誘導引用であった。Photo_333

そこで、例句をいくつか引く。

 懐手して説くなかれ三島の死      阿波野青畝
 夫と子をふつつり忘れ懐手       中村汀女
 懐手あたまを刈つて来たばかり    久保田万太郎
 出獄のけふきて午後のふところ手   秋元不死男

秋元が検挙されたのは昭和16年、京大俳句事件といわれる一連の俳人弾圧の一環だった。検索したら、きっこの日記で詳しく触れられている。歴史を繰り返させるな。
※写真は秋元不死男。日日光進  1月25日 獄から勝手拝借/感謝です。

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上原ひろみファンに捧ぐ

BS2東京ジャズ・フェスにひろみ出演。チック・コリア、ナベサダなどとのコラボ熱演、まさPhoto_332 に神がかり巫女の技であった。
そこで、ブログ検索したらインタビュー、You Tubeへのリンク記事発見。
ひろみファンはとっくにご存知かもしれないけど、これからファンになる人に捧げる。

※写真はNick's Jazz&Golf Cafe Golden Girl ! 上原ひろみから勝手拝借/感謝です。

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蜜柑の句

なんとか節酒を続けられている。缶ビール一缶。Photo_331
夕食を始める前は焼酎水割り一杯ぐらいはと我が欲に誘惑されつつも、缶ビールを飲み干したら、ご飯をよそおい食べることにより誘惑から逃れているのである。そして、夕食後冷たい麦茶を啜り、蜜柑を食してエンディングというパターンが定着した。蜜柑を食みつつ子供の頃を思い出したりして。

さて、今朝の俳句は「涙そうそうこぼす女に蜜柑剥く」。
実景ではないが、心境句に近い。初案「よく涙こぼす女」の方がよかったかなあ、と少し疑問含みで投句した。あざとさがちょっと気になる。あ、俺の句の大部分は皆あざとい(小りこうだ。思慮が浅い。とネット辞書にあり)か。

そこで、歳時記から例句をいくつか引く。
 死後も日向たのしむ墓か蜜柑山    篠田悌二郎
 あまたの街角街娼争い蜜柑乾く     金子兜太
 をとめ今たべし蜜柑の香をまとひ    日野草城
 海峡の雨来て蜜柑しづく垂る      西東三鬼

あざとさを抜け出るためには句をつくることの必然性ということかなあ、と思ったりもする。芸道一代、まだ始めたばかりなり。「酒やめようかどの本能と遊ぼうか」金子兜太。

※写真は金子兜太。有鄰 No.436 P3 座談会「外国人が詠む日本語俳句」(2)から勝手拝借/感謝です。

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2006年11月24日 (金)

綿虫の句

今日の二句目は「綿虫を吐き出して日々ブログ書く」。
中七を「吐き出して日々」としたのが(「日々吐き出して」ではなく)多少の工夫である。
在庫でだいぶ暖めていたのだが、賞味してもらえるだろうか。あ、ブログの最大の読み手は書き手自身であった。Photo_330

そこで、波郷の絶唱(白鳥の歌という意味ではない)を引く。

 綿虫やそこは屍の出でゆく門    石田波郷

1969年11月11日、肺結核で病没。享年56歳。

※写真は昭和41年11月の石田波郷から勝手拝借/感謝です。

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聡明で健気な貴女に捧げる哲学史(2)認識論的転回前史

前回はギリシャ哲学の話だったけれど、要するに存在論(何がほんとうに存在するのか)が問題だった。
すなわち、万物流転の世界の中で感性からすると全ては流転生成消滅する。しかし、理性からすると固定的に存在してくれるものが無ければ困る、捉えようがない。そこで感性と理性の統一の要請から出て来たのが原子論。表層の変化の底に変化しない原子が存在するとして調和を図ったのである。

ところがプラトン登場。プラトンは、生成変化する物質界の背後には、永遠普遍のイデアという理想的な雛型があり、イデアこそが真の実在であるとした。 不完全である人間の感覚ではイデアを捉える事が出来ず、理性によってのみ捉える事が出来るとした。
つまり、原子のような具体的物質的存在を設定したくなかったのだろう。物質よりも理性に優位性を認めたいという反自然主義(反唯物論)の表れだったと俺は考える。

そして、プラトンの立場をアリストテレスが変形強化する。アリストテレスにとって存在するもの(実体)は個別的なものであって、イデアのような普遍的なものではないのである。善のイデアというものがあると考えてみよう。善というのはより善いとかより悪いとかいった「関係」にも関わるものではないか。そして、関係というのは実体の後から出てくるものなのだから、善は実体ではない。だから善はイデアではない、と。

おお、そうか。ここで既に普遍(プラトン)と個別(アリストテレス)の関係が問題になっているのだ。ほんとうに存在するものを求めるとしてそれを普遍に求めるべきか、個別なのかが問題となったのだ。また、実体(対象)と関係の先後をアリストテレスは問題にしたことも覚えておこう。

さて、アリストテレスは天体の運動と地上の運動とを完全に区別する宇宙論を構築した。すなわち宇宙は、同心円状の階層構造として論じられている。世界の中心に地球があり、その外側に月、水星、金星、太陽、その他の惑星などが、それぞれ各層を構成している。これらの天体は、前述の4元素とは異なる完全元素である第5元素「アイテール(エーテル)」からなる。そして、「アイテール」からなる故に、これらの天体は天球上を永遠に円運動をしているとした。さらに、最外層には「不動の動者」である世界全体の「第一動者」が存在し、すべての運動の究極の原因であるとした。 トマス・アクィナスら、中世のキリスト教神学者は、この「第一動者」こそが「神」であるとした。Photo_329

これがコペルニクス、ガリレオの地動説を弾圧したキリスト教神学である。要するに、キリスト教を広めるためには理屈っぽい教義が必要になり
頭でっかちになりすぎたんだなあ。いうならば、理性の暴走である。
そして、天上と地上の物理学の区別は、ニュートンが万有引力の法則を提唱するまで揺るがなかったのである。ニュートンは天体の運動とリンゴが木から落ちる運動とを統一的に説明するのに初めて成功したのである。ただし、万有引力の発生原因は未だに判明していない。自然界に存在する四つの力統一場理論として構築途上である。

話が横道にそれた。本筋に戻すと要するに、古代唯物論は中世キリスト教神学に制圧されたのである。ほんとうに存在するものは物質ではなく非物質(イデア?。トマス・アクィナスのわかりやすい入門書ないかいな、ないやろな)とされたのである。

こうして存在論において、反自然主義者と闘うことはキリスト教権力・暴力によって封殺されていたのが17世紀までの西洋事情であった。そこに近代哲学の祖、デカルトが登場し(俺の見るところ)唯物論=自然主義の本格反撃が開始されるのである。

以上、今回は、ネタ本を離れてネタ本の影響下に、ウィキペディアその他ネットのお世話になった。ネットが無ければこんなエラソーなこと、よう書かんぞなもし。

※画像はガリレオの肖像画。イタリア 科学とテクノロジーの世界から勝手拝借/感謝です。

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根深汁の句

先日、俺って親友いないよなあと気づいた(ご近所の方の葬儀参列が影響しての思いPhoto_328 だったかもしれない)。会社を辞めてから会社関係とは年賀状の付き合いしかなくなったし、中学高校の友は関西にいるけれどこれは旧友というべきだろう。近くにありて気のおけない友、それを親友というならば、無い。
狷介な(この言葉、いっぺん使ってみたかった。心が狭く、自分の考えに固執し、人の考えを素直に聞こうとしない・こと(さま)。ネット国語辞典にあり)性格の上に、今後リアルの付き合いを広げる可能性もほとんど無いだろうから、親友と呼べる人との出会いはまず無いであろう。

さて、今日の句は「近き友一人もなくて根深汁」。
初案「親友」だったけれど投句に際して「近き友」に変えた。「親友」は少し手垢にまみれているように感じたからだ。
「根深汁」は葱汁のこと。手元の歳時記には「葱は冬がいちばん美味で、熱い舌を焼くような汁、実は半煮え加減がうまい」とある。新鮮な葱は生でもいけそうだから、半煮えでいいのだろう。いつか使ってみたかった季語である。
 老夫婦いたはり合ひて根深汁     高浜虚子
 根深汁老いてうなづくことばかり    大石白夢
 うとましく冷えてしまひぬ根深汁     日野草城
 一人づつ起きる子供や根深汁     本田あふひ
この季語は字面が馴染みにくいので、虚構句心境句では狷介で使いづらい。次に使うときは、素直に写生してみたい。あ、俺の性格を素直にするのが先か。

写真は日野草城。上のリンク(特別展「日野草城生誕100年」)から勝手拝借した。
ウィキペディアにはモダニズム俳句の嚆矢(こうし)とされる。新興俳句の一翼をになった。「俳句を変えた男」と高く評価されるが、風俗俳句のはしりとみる向きもある。とある。
俺好みの句が多い。たとえば「をみなとはかかるものかも春の闇」ミヤコホテル十句より。

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2006年11月23日 (木)

枯菊の句

今日の二句目は「枯菊や恋脱ぎすてて街を行く」。Zassouen
短編小説の香りあり(自画自讃)。

そこで、歳時記よりいくつかを引く。

 枯菊に尚ほ色といふもの存す       高浜虚子
 菊枯れて枯れてあとかたなかりけり   久保田万太郎
 モナリザはいつもの如し菊枯るる     山口青邨

枯淡なる色気ありける枯菊に恋を恋して早や三年、と折角の佳句を台無しにしてしもうた。※写真は俳人・山口青邨宅三艸書屋から勝手拝借/感謝です。
   

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小野茂樹

投句してコメント読み書き、さらには名句鑑賞して俳句脳はいったん終了。
一息ついて、来し方行く末を思えば短歌脳となり一首を得し。

 失ひしもの少なくて得しものの多しと思ふ冬の夜明けに

先物の傷は未だに残れども、代わりに俳句を得たと思えば釣り合いがとれたと思う浅墓さ。一歩後退、二歩前進。おお、陳腐な言葉ばかりなり。

つまり、我が句歌に親しむ由縁はと、これもまた自分探しなのか、いや、ボケ防止と立派客観理由あり。そうそう、我れ青春に非ず。自分探しとは言えぬ。なんでや、なんで自分探しと言うたらあかんねん、責任者出て来いコイコイ池の鯉。Photo_327

さて、今日は小野茂樹。悲運の夭折歌人なり。

 あの夏の数かぎりなきそしてまたたつた一つの表情をせよ

二句から三句へたたみかけるリズムの気迫に加えて、下の句の命令形で読者は粛然とする。そして、作者の夭折を思うと、「表情」は永遠と化して記憶に固定される。
青春相聞歌の傑作である。俺にはこんな青春は無かったなあとちょっぴり口惜しく妬ましく思ってしまう傑作である。紆余曲折を経て果たした雅子との再会を背景にした歌とのことであるが、そんなことを知らなくても、この歌の透明で衝撃的な叙情を十分に感じることができる。

歌は叙情、句は叙景。情と景、すなわち心のうちそとを友とできる俺は(とにかくもまあ)仕合せなのだ。

 珈琲とジャズが青春秋扇

昨日、プールで得た句である。来年の秋、もし生きていたらハイクブログに投句しよう。

※写真は花物語  「羊雲離散」から無断拝借/感謝です。転載禁止ならば即削除いたします。

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小春の句

今朝の句は先ほどの反省をちょっぴり受けて「小春日や芸道一代売れもせず」→心境句のつもりだけれど、客観的には虚構句だろうなあ。小春といえば女房の小春(王将@坂田三吉)を踏まえているのだというのは駄句の言い訳にもならぬ。Photo_326

そこで、名句。 

  小春日や潮より青き蟹の甲    水原秋櫻子

見よ、初冬好天の海が眼前に広がり、蟹の甲に神が宿っておられるではないか。これが俳句だ。まず、実相を写せ。 

※写真は俳人協会の歩みから勝手拝借/感謝です。 

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寒雀の句

昨日は二句投げた。二句目は「それぞれに浮名流して寒雀」。有名タレント夫妻を想定しPhoto_325 て読んで欲しいというフィクション句である。ちょっと虚構句に傾きすぎだなあと反省しつつあるのだけれど、575をひねれば小説家気分になれる味をしめてしまったので止められぬ。
しかしまあ、虚構句→心境句→写生句と俺の俳句は進化するのだ、長生きしなくちゃと自己納得するのであった。

そこで、歳時記から名句をいくつか引く。
 寒雀身を細うして闘へり      前田普羅
 天の国いよいよ遠し寒雀     西東三鬼
 寒雀雲にぎやかに浮びたる   飯田龍太

龍太の句が典型的な写生と思う。せめて、いつかは実相観入を心がけたい→子規の写生を発展させたものに虚子の「客観写生」と斎藤茂吉の「実相観入」がある参照。

※画像は株式会社 角川学芸出版から勝手拝借/感謝です。
 

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2006年11月22日 (水)

聡明で健気な貴女に捧げる哲学史(1)古代原子論

古代原子論→近世認識論的転回(デカルト・ロック・カント)→言語論的転回→その批判@ローティ自然主義主張という流れで哲学史を語ってみたいという予告編を書いたが、本編を開始する。ネタ本はこのところお気に入りの冨田恭彦「科学哲学者 柏木達彦の冬学期(ウィンター・ターム)―原子論と認識論と言語論的転回の不思議な関係、の巻」である。また、ギリシア哲学については猿でもわかる哲学史を大変参考にさせて頂くと共に適時リンクさせて頂いた/感謝です。Photo_324

さて、今日は古代原子論。何もない空間で、原子が運動し、結合・分離を繰り返すことで、世界が成り立っている@デモクリトスという現代科学を先取りした考え方である。

では、このような驚異的な考え方がなぜ古代ギリシアで成立したか。、これにはヘラクレイトス(変化と闘争を万物の根源とし、火は始原ロゴス)vsエレア派(事物の真の説明は存在の普遍的な統一性という概念にある)という前史があるのである。

万物流転を説くヘラクレイトスに対して、エレア派(パルメニデス)は
万物は変化しない。永遠不変の存在であると主張した。
感覚・知覚によって世界を眺めると、確かに万物は変化しているように見える。
しかし、感覚・知覚は人をだます。物は生成・消滅するように見えるけれど、それは感覚・知覚だけで判断しようとするからだ。思考・理性に従えば、現象の奥にある存在が見えてくる。存在するものは存在を続け、存在しないものはいつまでも存在しない。存在と非存在の区別を不明確にする万物流転論は間違っている。こう、パルメニデスは主張するのである。
そしてまた、パルメニデスは運動も否定する。運動が成り立つためには、あるものがそこへと動いていくための、なにもないところがないといけない。つまり、無が存在しないといけなくなり矛盾であるというのである。

なるほどなあ、理屈である。こうした理屈からすると世界の全ては固定化する。生成・消滅・変化・運動・多は否定され、不生・不滅・不変・不動・一となるのである。

しかし、これではいくらなんでも固すぎる。運動の否定(ゼノンのパラドクス)などは常識に全く反しているからである。
そこで、
理性的には、「存在は変化しない」ように思えても、感覚的には、「存在は変化している」ように見えるこの二つを統合しようとしたのが元素論@エンペドクレスである。
そして、デモクリトスの原子論はこの元素論の上に築かれた。

世界は物質(原子)と虚無で構成されている。表面を見れば、万物流転のように見えるけれど、存在するものは存在し、存在しないものは存在しない。有はいつまでも有であり、無から有は生まれない。かくして原子論は、感性の世界(現象)と理性の世界(原理)とを統合し、世界の唯物論的観方を確立したのであった。

ところが、やがてプラトン/アリストテレス/キリスト教登場。唯物論(自然主義)は唯神論(反自然主義)に制圧されたのであった。次回に続く。

ちなみに、近代原子論は20世紀初にプラウン運動の研究により原子の実在が確認され、実証されたことになったのである。また、長岡半太郎が我々にお馴染みの土星型原子核モデルを提唱したのが1904年、これをボーアが量子化したのが1913年である。

※画像は原子から勝手拝借/感謝です。

ブログランキング少々わかりにくい記述だけれど、おまけして自信ボタンなり。

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寒椿の句

今日の季語は「寒椿(冬椿)」。まず、句を引こう。Photo_323
 海の日に少し焦げたる冬椿       高浜虚子
 寒椿赤し一揆の血が流れ        関口ふさの
 冬つばき世をしのぶとにあらねども  久保田万太郎
 ふるさとの町に坂無し冬椿       鈴木真砂女
 父も夫も師もあらぬ世の寒椿      桂信子

虚子の句は「焦げたる」が凄い。また、「海の日」との配合も常人では思いつかないだろう。まさに巨人である。
ひっそりと、しかし、自己主張しつつ咲く寒椿。以前から使ってみたい季語であった。

そこで、俺の句は「二枚目の頬に切り傷寒椿」。上五中七にいささか格調が欠けるが(切られの与三を想起するので)、立派に季語の注釈になっていると(例によって)自讃している。

 俳句とは季語の注釈歳時記をひねもすのたり眺めたり

※写真は有鄰 No.455 P2 座談会「文学都市としての鎌倉」 (2)から勝手拝借/感謝です。

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2006年11月21日 (火)

暮らしに役立つ哲学入門

面白い本を図書館で見つけて読んだ、伊藤笏康「人間に何が分かるか―知識の哲学」Photo_322

まず、知識を三つに分類・ネーミング(概念化)している。俺流に表現すると下のようになる。

生活知:普通の生活をこなす上で必要な知識。仕事の手順(マクドナルドのマニュアル知)、行儀作法エチケット等TPOで何をすべきかすべきでないかの知識、謂わばknow what、そして不明な場合に誰に訊けばよいかのknow whoである。
遂行知:課題・問題を解決するための知識。仕事の能力では一般にこれが問われる。つまりknow howである。技術・技能の知である。
説明知:学問・科学の知。問題解決より、なぜそうなっているかを説明することの方が重要となる。すなわち、know whyだ。

そして、上の分類を統一的に説明するために著者は次の方程式を導入する。
 
 現実=原理+個別事情

生活知では、原理より個別事情が優先される。現実にそぐわないknow what、know whoは捨てられて、代替のwhatまたはwhoが選択されるのだ。「現実が原理を一方的に裁く」と著者はうまいことを言う。
一方、遂行知では、原理は「知の補助手段だが、積極的意味を持ち」「現実に合わなくても原理の理解が現実理解を助ける」。原理を知らない技術者はつぶしが効かないということだ。
そして、説明知では、「説明自体が目的となり」「現実は原理を直接裁けない」。「原理は理想として現実を測る基準となる」のである。原理なくして改革なしなのだ!(小泉→安倍政権に原理なし!)

そして、更に面白いのは上の方程式をひとひねり(移項)すれば

 原理=現実-個別事情

すなわち、現実を抽象化して概念モデル化することにより原理が分かるという式になることである。説明知(科学及び哲学)、遂行知(技術)における原理の重要性をこの式は語っているのである。

そして、著者は哲学を分類する。

形而上学(第一哲学):説明知、従って原理を最重要視する考え方。走る前に走るとは何か、走ることの本質(イデア)を考え、それを見極めてから走れということだ。
実用主義(プラグマティズム):原理より効用を重視する。謂わば、走ってから、または走りをシュミレートした後で効用を測定し、走ることの価値を決めようという考え方だ。
批判哲学:原理自体の「限界と射程を見極め」(批判)ることにより、現実に対する有効性を考える哲学である。俺が尊敬するカントの立場であり、これが哲学本来のあり方だと思う。有限な人間は、船(哲学・科学・技術及び全ての知)を修理しつつ航海せざるを得ないのだ。

以上、知識の分類(生活知・遂行知・説明知)を覚えておくだけで、暮らし・仕事の様々な局面でwhy・what・who・howを区分して考えたりする役に立つ。なのに、俺たちは、こんなことも学校では習わなかった。
技術立国日本、知は永遠の円環運動(価値⇔概念⇔事実)であり、平和と繁栄の礎となるのである。だから、頑張れ日教組、教育基本法改悪にめげるな。

※画像はCOLLECTOR'S EDITION 学校から勝手拝借/感謝です。

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先生たちにエール・ボタンのつもりです。

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仏は愚者を愛す、されど

寅第40作は「寅次郎物語」→題名は次郎物語をパロってる、絶対に。なぜなら、人はなんのためPhoto_21に生きるのかが重要なテーマとなっている哲学的作品であるからだ。

そしてこれに対する寅の答えは、満男 「人間って何の為に生きているのかな?」
寅さん 「んなぁー、お前、難しい事聞くな。なんていうのかな、あー、生まれてきて良かったなぁ、と思う事が、何べんかあるじゃない、ねぇ。その為に人間生きているんじゃないのか。」といつものセリフ収録ブログ
(ご苦労様です。徹夜なんて無理はしないで)を参照されたく。

さてマドンナは秋吉久美子。色っぽいのである(もう少しぽっちゃりしてると俺のタイプ)。で、落とせる場面もあったのに肉欲を忌避する寅はいつものようにびくついてしまう。それでいて、彼女との生活を夢見てアリアを歌うのだが。

そんな愚者(賢者?)を仏は愛しておられる。されど愚者はそれに気がつかない。アホやなあ、でもそれを言っちゃあ、人生おしめえよ。愛の交差に人生の真実ありき。

ところで、昨日のプール体重:85.2→84.6。光微かに射しつつありや。

 一缶のビールの味を確かめて飲み居るわれに救ひはありや

昨日は月曜日故節酒再開。無事進行中。

※写真は東スポ 写真コラム 色っぽすぎるよ 秋吉久美子から勝手拝借/感謝です。

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冬夕焼の句

冬夕焼の句といえばこの名句。Photo_321
 むつかしき辭表の辭の字冬夕焼    富安風生
「辭」は旧字の「辞」(ほんと、むつかしい。昔の人でも矢張り難しかったのだ)。こんな側面から辞表提出という世俗の出来事に光を当てることもできると知らしめた句である。ちなみに辭の字はネット検索で現代俳句アンソロジーに出会って、コピペさせて頂いた。

歳時記を見ると他には
 路地染めて何をもたらす寒夕焼     菖蒲あや
 卵黄を掻き解き掻き解く冬夕焼      中村草田男
 寒夕焼じやんけんぽんの石と紙     鷹羽狩行
などがある。郷愁と哀歓の季語である。

そこで、今朝の俺の句は「観自在菩薩悦楽冬夕焼」。なんで観自在を思いついたのかなあとネット検索したら般若心経であった。菩薩悦楽だけが工夫の句である。

※写真は冨安 風生(とみやすふうせい)―ホトトギス派の代表的俳人―から勝手拝借/感謝です。 

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2006年11月20日 (月)

寺山修司

昨日、ご近所の方の告別式で調布のセレモニーホールまで行ってきた。享年63歳。数年前に喉頭癌の手術をされて、金曜日の未明に自宅トイレで吐血し寝床に戻ってそのままだったようである。お酒の好きな方だったようで、親しく会話したことはないけれど朝ウォークの途次で毎日のようにご挨拶したお付き合いであった。

遺影の代わりに大型ディスプレーが中央に配置され、読経・焼香等伝統的儀式が済んだPhoto_320 後で故人紹介のナレーション、バイオリン演奏(裕次郎「わが生涯に悔いはなし」)がなされる現代風告別式だった。献花させて頂き出棺まで見送った。人の生涯を思う一日であった。

さて、今日はスーパースター寺山修司。三沢に記念館があるようで、今でも熱烈なファンが多い句歌演劇マルチタレントである。私は肝硬変で死ぬだろう。そのことだけは、はっきりしている。だが、だからと言って墓は建てて欲しくない。私の墓は、私のことばではあれば、十分。という言葉を残して47歳で逝ってしまった。

 きみが歌うクロッカスの歌も新しき家具の一つに数えむとする

寺山の歌は多様性に富み、どれが現か夢かわからぬところがあり、諧謔風刺おちょくりさえも感じられることもある。有名な「マッチ擦るつかのま海に霧ふかし身捨つるほどの祖国はありや」にしても額面通りに受け取っていいかどうか、「いや、単に裕ちゃんを気取っただけさ」と言われそうな気もする。
そんな寺山の歌の中で恋愛歌謡を選んでみた。みずみずしく鮮烈な歌であり、句跨り前衛手法を取り入れてモダンを感じさせ、それでいて歌謡性を失わないところがこの歌のいのちだ。

単独でこの歌のみを鑑賞すると、彼女と一緒の暮らしを始める青年の喜びの歌のように見えるかもしれない。しかし、寺山ワールドの中にこの歌を置くと(現代の短歌に掲載されたいくつかの歌を見渡すだけで)別の風貌が見えてくる。青春とは純粋さではない、偽悪と偽善のないまぜのような気がしてくる。ウソもマコトも全てがホントウなのだ。

だから、葬式で故人紹介なんかやってほしくない。片付けてほしくないと思う。
もっとも、死んだらなんにもないのだからどうでもいいことなのだけれど。葬式は生者のための儀式なのだから。

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冬蝶の句

朝、起きて自分の句にコメントがついているかどうか確認する。ついていれば返信コメントPhoto_319 を書く。そして、今日の投句を在庫の中から選び、投句と背景説明・句を得た経緯等トッピングをハイクブログに書く。自分のブログには更なる詳細トッピング、同じ季語の名句引用等の記事を書く。こんなパターンが定着した。俺の朝の愉悦である。

さて、今日はちょっと迷いながら「冬蝶や汝を愛する理由はいらず」。迷った理由は、この句が「サキサキとセロリ噛みいてあどけなき汝を愛する理由はいらず」佐佐木幸綱の本歌取りだからであり、しかも「サキサキとセロリ噛みいてあどけなき汝を」を「冬蝶や」に置き換えただけの何の技巧も弄していない本歌取りであるからである。果たして鑑賞にたえ得る句かどうか、と考え込んだからである。

しかし、結局、投句した。俳句は短歌がぐちゃぐちゃ言うこと(幸綱さん、ごめん)を一言、冬蝶で済ませてしまう。そこにこの句の凄さ(自句自讃)があるのである。
そこで、お口直しにもっと凄い句、感銘深い句をいくつか手元の歳時記から。

 冬蝶を股間に物を思へる人        永田耕衣
 冬の蝶汽車の下腹部湯をこぼす     磯貝碧蹄館
 冬の蝶人に見られてあがりけり      富安風生
 冬の蝶カリエスの腰日浴びをり      石田波郷

ちょっぴりシュールなあはれを感じる冬の蝶。それを自ら味わってみたかったのが本歌取りの動機である。

※画像は部長の大晩年:異端の俳人永田耕衣 840から勝手拝借/感謝です。この本、読んでなかった。図書館にリクエストしよう。

 

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2006年11月19日 (日)

句集「妾宅の木戸」ボタン設置

もう少しためてからと思っていたのに、ほんに俺はこらえ性がない。

それはともかく、左サイド「思い出だけが人生だ」に設置しました。
縦書きで読めます。ご愛顧のほどよろしくお願い申し上げます。

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な、なんとランキング1位

しばらく見ないでいたら、哲学ブログランキングでトップになっていた。Photo_2
ちなみに、昨日のアクセス数:114、訪問者数:58である。

こんなんでトップとはおこがましいけど、哲学は嫌われ者少数派ということであろう。
名誉なことである。

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時雨の句

今日の句は「しぐるヽやパチンコ屋出て大欠伸」。Photo_318
なんとかして、名句「しぐるゝや駅に西口東口」安住敦の向こうを張りたいとひねった句だ。しかし、名句が即物的客観的叙情(即物有情)を醸し出しているのに対し、我が句はやはり落ちる。主観についている分、落ちているのである。

 死ぬまでにいつかひねらむ名句をと駄句を毎日ブログに載せる

駄句を読まされる方が迷惑だとの声に少しでも応えるべく、ネット歳時記から時雨の名句をコピペするので口直しに鑑賞して頂きたい。
 

 しぐるるや堀江の茶屋に客ひとり     芥川龍之介
 もてあそぶ火のうつくしき時雨かな    日野草城
 うしろすがたのしぐれてゆくか       種田山頭火

手元の歳時記からも

 小夜時雨上野を虚子の来つつあらん   正岡子規
 うつくしきあぎととあへり能登時雨     飴山実

最後の句の「あぎと」とは顎のこと(ネット国語辞典で確認)。おとがいのきれいな美人という言葉を連想したが、「あぎと」とは字面もきれいだ。

このように時雨には美しい句が多い。そんな季語につまらぬ句をリンクさせて、俳句とは、まさに鑑賞と創作が一体の共同文芸なりと駄句の言い訳としたい。

※写真は早稲田と文学(種田山頭火)から勝手拝借/感謝です。 

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2006年11月18日 (土)

オヤジ短歌とアマデウス

上原彩子のピアノをテレビで観ていたら歌が浮かんだ。Photo_317

 美醜にて判断するなと思へども美人のピアノ美麗に聞こゆ

日経歌壇にときどき掲載されるオヤジ短歌だなあと自省したけど、性懲りもなくまたオヤジ歌を読めり。 

 オヤジよりチョイ悪オヤジと呼ばれたしどちらも同じくクソが付けども

ところで、12/4遂に「アマデウス」BS2放映。冥土土産DVDにせむ。

※画像はアマデウス  象のロケット≪宅配DVDレンタル&前売券≫から勝手拝借/感謝です。

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冬薔薇の句

ネット上に「わたしの俳句歳時記」があるのを昨日、発見した。
そこから、冬薔薇の句で気に入ったのを引く。
 冬薔薇や賞与劣りし一詩人    草間時彦
 逢うてまた別れを思ふ冬薔薇   木村敏男

また、清水哲男『新・増殖する俳句歳時記』は毎日楽しく読めて、勉強になる。 

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小野興二郎

最近、人生観より死生観と思うようになった。ゴールを見据えつつ生きるということであPhoto_316 る。
そしてまた、「すこやかな脳で死にゆく冬の蝿」なる句に見られるように、恙なく生を全うしたい(はっきり言うと寝たきりになりたくない)という気持ちを強く持つようにもなっている(おかげで節酒三夜を恙なく過ごせたが。おお、今日は週末だ。焼酎、飲むぞお)。

ともかくもまあ、生を恙なく全うするというのも一つの事業である。そしてまた、意に反して病気になるのも人生である。生老病死、まさに生まれたこと自体が四苦八苦の苦であると仏教はのたまいにけり。

さて、今日は小野興二郎。「肝生検を受けショックを起こしその後遺症のため市川学園を退職し長期療養に入る」と歌人紹介にある。

 妻が望みわがあくがれしをみな子はかくうつくしきほとを持ちたり

「妻が望みわがあくがれし」とそれぞれ字余りの初句二句を受けて、この歌の核は「かくうつくしき・ほとを持ちたり」と句跨りで詠われる四句結句にある。
思わぬ病を得てそれと闘う作者にようやく生まれた女児。その女児の生殖器外貌を見つめて作者は美を感じる。いのちの連鎖である。

人は死するために生まれて来る。生の過程で様々なことを起こしたり起こされたりしつつも、いつかは確実に死ぬ。そしてまた、死の前段階たる老いも避けられぬ。それどころか、老いを経ずして亡くなったり、若くして病を得て苦しむ人もある。
だから、恙なく死を迎えることがどれだけ幸運なことか。

俺はイタイの、苦しいのが大嫌い。だからこそ、節酒を必死で続けよう。呆けたり中風で寝たきりになって人の世話になることを思えば、節酒ぐらいなんていうことはない。

さて、公開の場でここまで書いたのだから、節酒完遂できなくてはならぬぞと我とわが身にプレッシャーをかけたのであった。

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本歌取り並びに引用について

今日の句は「句歌一輪いちりんごとの冬薔薇」。「梅一輪いちりんほどの暖かさ」服部嵐雪の本歌取りである。
この句、初案は「一輪ごとの」だったけれど、本歌(句)が「いちりん」となっているので、それに合わせた。

ところで、この先結構、本歌取り(荒っぽく言えばパクリ)をやりそうなので、この機会に検索してみた。すると、「モトネタがちゃんとわかるように」「モトネタそのままではなく、独自のアレンジを加える」のがミソに出会った。
裏返して言うと、他人様の業績を自分のもののように偽ってそのまま流用するのがパクリということだ。そして、この基準で行くと今回の俺の句の場合は、本歌を明示していなくてもセーフになるだろう。嵐雪の句は(作者を忘却または知らなくても@俺もそうだった)概ね誰もが知っているはずだと言えるからである。

上のブログ@他の記事に、「引用」とは、要件を適法に満たすことで他人の著作物を無料かつ無断で利用できる著作権法の規定とあった。適法適正な引用の要件についても教示してくれているので、引用・画像転載好きな俺は肝に銘じておこう。

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2006年11月17日 (金)

柏木達彦シリーズのお薦め

このところお気に入りの柏木達彦<小説仕立ての対話型読みやすい分析哲学入門>シリーズ@冨田恭彦を集中的に読んでいる。刊行順に並べると
(1)科学哲学者 柏木達彦の多忙な夏―科学ってホントはすっごくソフトなんだ、の巻
パラダイム論@クーンから始めて概念相対主義批判@デイヴィドソン、論理実証主義、クワインそして著者お気に入りの鏡的人間観批判@ローティに至る科学哲学入門編。
(2)科学哲学者 柏木達彦の冬学期(ウィンター・ターム)―原子論と認識論と言語論的転回の不思議な関係、の巻
これが一番面白い→後述。
(3)科学哲学者 柏木達彦の秋物語―事実・対象・言葉をめぐる四つの話、の巻
知識と事実の関係(理論負荷性)、指示理論、オースティン言語行為論、そしてアトランティス大陸の話。これが一番非お薦め、でも読んで損した気はしない。
(4)科学哲学者柏木達彦の春麗ら―心の哲学、言語哲学、そして、生きるということ、の巻
以前に読了→反表象主義を理解してもうた参照。
(5)科学哲学者・柏木達彦の番外編―翔と詩織、あるいは、自然主義と基礎づけ主義をめぐって、の巻
これから読みます。Photo_315

で、(4)なのだけど、古代原子論→近世認識論的転回(デカルト・ロック・カント)→言語論的転回→その批判@ローティ自然主義主張という流れでそのまま「聡明で健気な貴女に捧げる哲学史」となっている。近々レポーティングの所存なり。

とにかく読みやすくわかりやすいのが何よりだ。ムツカシイ人は俺、キライ。
ちなみに、ウィトゲンシュタインはこのシリーズを通じて全く出て来ない。東にウィト@野矢茂樹、西に反ウィト@冨田恭彦かもしれぬ。

※画像は学園だよりから勝手拝借したプラトン(左)とアリストテレス(右)。近世哲学は反自然主義@プラトンに対する反逆@自然主義viaデカルトの歴史と思う今日この頃である。

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季語との距離@句をひねる

今日の句は「冬日和嘘のつけない歳となり」。この句の季語は、在庫中、変遷動揺した。Photo_314

初案「根深汁」→歳時記を読むと「根深汁」とは「葱を実にした味噌汁。葱は冬がいちばん美味で、熱い汁を焼くような汁、実は半煮え加減がうまい」とあり、「根深汁老いてうなづくことばかり」大石白夢の句が引かれている。しかし、嘘と根深の字面の取り合わせが近すぎるのではないかと危惧が拭えなかった。

そこに、ある朝「短日や」が登場。歳時記には「日の暮れるのが早いと人の気持ちや生活もあわただしくなりがちである」とある。よしよし、こっちの方がいいと、こちらに変えてはみたものの、「短日」は「残年短し」を想起しやすいのでこちらも季語につきすぎの不安が残ったままであった。

そうしてるうちに、ハイクブログで他人様の句「携帯を変へて気分は冬うらら」に遭遇。そうか、「うらら」は「春うらら」だけではないんだと歳時記読めば「冬晴れ 冬日和 冬うらら」は同一の季語として扱われていて、「小春というと、冬の初めのころだが、冬日和はそれから後の日和をさす」とある。これを読んで「冬うらら」ではなく「冬日和」とした次第である。

俳句は季語を核とした(時空を超えた)共同文芸<季語を核としたWorld Wide Webのごとき世界>である。そして、季語との距離を適切に保つところに味わい・趣(意味)が生まれる。語の意味は言語におけるその使用形態なり、を実感しつつ今日も俺はひとり悦に入って句をひねくり回しているのである。

※写真はウィトゲンシュタインの『論理哲学論考』から勝手拝借/感謝です。

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2006年11月16日 (木)

自歌自讃、復活

縦書き文庫のサーバーがトラブルで落ちているのではありませんでした。
そのような誤解を与えたことを縦書き文庫さんはじめ皆様にお詫びして、謹んで訂正いたします。
なお、ロード時間遅延の経緯の詳細は縦書き文庫の開発日誌ブログパーツを更新(営業時間対応) - livedoor Blog(ブログ)を参照して下さい。

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愛国心から愛個心へ

クローズアップ現代で愛国心教育の現場を採り上げていた。
その中で、どうかなあと思ったのは、他国の子供から「日本という国は四季があって美しくて良いね、うらやましい」という感嘆の言葉に、「日本の子供達は、もっと自国の美しさを自覚しなければいけない」という導入で始めて愛国心へつなぐスタイルでなされる授業(小学生が対象)である。

戦前軍国主義逆行を懸念して反対するのではない。また、国家が個人の考え方に介入するのは思想良心の自由を侵す憲法違反(その通りであるが)と言い募るものでもない。
これらのことを棚に上げて愛国心教育を仮に是認したとしても、このスタイルはオカシイと言いたいのだ。

というのは、では、富士山も四季も桜ももし仮に無ければ日本を愛せないのかということである。そんなことはないだろう。富士が無くても日本は日本。この国を愛せと言いたいのだろう。だったら、こんな姑息な遠回りの愛国心導入は止せと言いたいのだ。

愛国心を教えるとして、愛国心が必要な理由がオカシイのである。素晴らしい国でなくても愛するのがまことの愛であろう。愛とは理由にかかわらずとにかく好きということなのだから。サキサキとセロリ噛みいてあどけなき汝を愛する理由はいらず@佐佐木幸綱こそ愛である。

思うに、国を愛する理由があるとすればただひとつ。それは、自分を愛するから国を愛するということである。自分が大切だから、自分にとって家族、友人がかけがえのないものだから、この国を文化を社会を地域を守りたい。それが愛国心の根っこだと俺は思う(自Photo_313殺するこどもたちは<そして校長も>自己を愛せなかったのではないか)。
そして、人類皆兄弟。だから、俺の愛国心も金正日の愛国心(仮に彼に愛国心があるとして)も原理的に対等である。よって、愛国心と愛国心はぶつかり合う。そのときにいかに平和を守るかという問題が発生するのである。

愛国心を教えるなら(教育基本法改正案が通れば教師には教える義務が生じる)、その理由を生徒・児童に考えさせ、愛国心が衝突した時にどうすればよいかを議論させよ。それがこの社会(国と呼んでもいい)と平和を守ることにつながるのだ。日教組、頑張れ(アカンやろなあと思いつつ)。

※写真は青年よ再び銃をとるなから勝手拝借/感謝です。

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一時退避

縦書き文庫のサーバーが落ちているようなので、自歌自讃へのリンクを一時退避としました。

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節酒試行開始

一昨日、血圧降下剤が切れたのでかかりつけの女医さんに処方を貰いに行った。Photo_312
世間話のつもりで「先生、朝起きぬけに測ると高いんですよ、測り方のせいかなあ」と言ったら「それが問題ですよ」とこの日に限っておっしゃる(前も同様のことを俺は話したんだけどなあ)。起きぬけに血圧が高いのは脳卒中発作等につながる可能性ありというのだ。そして、朝飲んでいる降下剤に加えて、翌朝の血圧を下げるべく就寝前に飲むタイプの薬も必要だというのである。

ところが、夜飲酒すると飲酒により血圧が下がるので薬の効果が無くなるとのことである。「どのぐらいお飲みになるんですか」と訊かれて嘘を言ってもしようがないので「缶ビール一本、焼酎水割り4ないし5杯」と正直に答えた。

以下、人生観やりとり等は省略するが結局、缶ビール一本限定、週末のみ焼酎可で折り合いがついた。
できるかなあ、と昨夜は第一日目→結果上々。無事寝つくこともできた。

我がいのちは我が所有物に非ず、と己れに言い聞かせながら缶ビールをゆっくり飲むように努めている。下は牧水本歌取り。

  かんがへて飲み始めたる一本の二本とならぬ冬のゆふぐれ

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即物有情@句をひねる

メモ帳をデスクトップに貼り付けて、そこで俳句の在庫管理(平均在庫4首、及び不良品もPhoto_311 後々の参考にするべく残してある)をしている。そして、PCを立ち上げると随時ここを眺めている。音楽を聴きながら眺めたりもしている。それ故、これが結果的に推敲メモの役割を果たしてくれているから面白い。

さて今日の句は「すこやかな脳で死にゆく冬の蠅」。姑のショートステイを迎えに行くため特別養護老人ホームに定期的にお邪魔しているが、重度の認知症の人を見かけたりする。ここでその様子に触れるつもりはないが、機会があれば皆さんも見学に行かれるといい。「いのち」を感じられると思う。この句はこんな体験が背景にある。

それはさておきこの句の初案は「死にたし」だった。昨日、音楽を聴きながらメモ帳を見ていたら突然にひらめいた。

「死にたし」は短歌的詠嘆だ。俳句では詠嘆はなるべく避けるべきだ。とすれば「死にゆく」に直そう。冬の蠅に己の情を託して詠む、すなわち、即物有情(物に情を織り込む@俺の造語)が俳句の基本なのだ。
従って、情を直截に言葉にすることをなるべく避けること。具体的には、悲しい、切ないなどという言葉を使わないことである(どうしても使いたければ短歌にすること)。われ、私も原則的に禁句である(使って効果的な場合もあるけど)。

短歌はコト(関係)を詠う詩、俳句はモノ(対象)に情を託し間接的にコトを詠う詩である。だから、俳句は即物有情、と覚えておこう。

ここまで書いて、天地有情という言葉を思い出した。そうか、俺はここから潜在意識でヒントを得たのだなと得心した。ネット検索すると安岡正篤「天地有情」などという本があるようなので、漢籍に典拠があるのではないだろうか。おお、中曽根元総理の対談とも遭遇した。彼の俳句は有名だし、対談を読むと読書的教養もあるようだけれど、市民というのは、反権力のイデオロギー的虚像と言っている。このあたりが中曽根大勲位だろうなあ。

ちなみに、天地有情とは、人間は天地の風情に感情を投影するのではなく、天地そのものがすでに情をもっていて、人はその一部を分け与えられているに過ぎない、というような意味らしい大森荘蔵もこの言葉を使っているとのことである。「流れとよどみ」近々読書予定。

※写真は::東京日和 早稲田::から勝手拝借/感謝です。早稲田付近に漱石「則天去私」の碑があるようだ。

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2006年11月15日 (水)

俳句入門

見よう見まねで短歌を始め、歌の泉も涸れたかと思いきや、また最近、はじめしばかりのPhoto_310 俳句に作歌の筋肉が刺激され、あはれなる歌綴りをり。
そこでつらつら思ふらく、短歌は詠嘆(あはれ)、俳句は宇宙(をかし)なり。汲めど尽くせぬ言の葉を、広く深くおのがじしに綴るは共に同じなれど、俳句には作句の理あり、形あり。されば、理に情を織り込みてこそ俳句と言はむ。

さてここに、俳句の理に三つあり。一は切れ、切れこそ俳句のいのちなりけり。そして二は、動詞を使ふことなりき。動詞使えば俳句には具体個別にいのち出づるなり。そして最後に控えしは季語という大物なり。季語こそ俳(人に非ず)の核なり。季語に添ひ寝の覚悟せよ。
そしてまた、俳句は即物有情と心得て季語との距離を常に量れよ。更には二物衝撃のみで得意にならず写生を忘るるなかれ

以上、自戒をこめて俳句入門である。最後に、俺が人生ではじめて感動した句(国語教科書で読んだ)を引く。

     月天心貧しき町を通りけり      蕪村 

※画像は歴史街道@京都・与謝野町から勝手拝借/感謝です。

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心の哲学(4)円環運動

前回で最終回のつもりだったけれど、忘れ物「記憶」があったのでこれを心の見取り図に追加する。そしてまた、北川東子「ハイデガー」を読んで、「信念」「規範」も見取り図に追加するべきと思い至った。
心は最広義では価値世界と概念世界の全てであり、広義では概念世界を指し、最も狭義では赤字の部分を意味すると考える。

価値世界      概念世界     事実世界
客観(間主観) ⇔   心   ⇔     実在

   信念    意志 思考(理性)     経験(知覚現象)
   規範        認識(意味の他者と言語による社会的認識:悟性)
              知覚(五感)
          感情 感覚(体性感覚。例えば痛み)
              記憶

さて、「ハイデガー」よりハイデガー(事実とか本質とかではなく存在そのものを問え)自身の言葉を孫引く。

私たちは円環の道を行かなくてはならない。それは非常手段でもなければ欠陥でもない。この道に足を踏み入れることは強みであり、この道にとどまりつづけることは思考の祝祭である。

これだけでは意味不明だから、北川東子の解説を付加引用する。

たとえば、ハイデガーが考えた問題、「芸術の本質とはなにか」という問いを立てるとする。これを考えるためには、真の芸術作品をよく見ることが必要となる。けれども、ある作品が本当に真の芸術作品であるかどうかを決めるためには、「芸術の本質がなにか」をわかっていなければならない、という具合です。「芸術の本質」という問題をめぐって、議論が堂々巡りをするだけです。

「芸術の本質」などという形而上学(上の見取り図の価値世界に属する事柄)を振り回すPhoto_20 のは鬱陶しいけれども、いつか、本質・価値・信念・規範などを考え込む時がある。その時のために哲学(上の見取り図の概念世界に属する事柄)は必要であり、また実は、価値観抜きで概念世界は成立しないということも否定できない。
だから、上の見取り図は終わることのない円環運動。それを恐れるな、それこそが思考の祝祭なり、とハイデガーは言っていると理解した。結構、この見取り図は役に立つんですよ、と最後はやっぱり自己PRなり。

ちなみに、北川東子「ハイデガー」は今までに俺が読んだハイデガー入門書の中で一番、読みやすかった。大切なのは個人かそれとも社会か。私にとっては社会よりも私自身の存在と私自身の幸福の方が遥かに重大な問題という読後感ブログ(大賛成)もあり、結構読まれているようだ。

※写真はアーレント=ハイデガー往復書簡の表紙。ハイデガーは相当のワルなり。

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季語に添う@句をひねる

短歌になくて俳句にあるのは季語。季語の力は圧倒的だとヘボアマ歌人は思う。そして、Photo_309 毎日、句をひねるようになって、季語中心に句作するようにつとめている。措辞を思いついて、さて、季語をどうしようかと考えたり、逆に、ある季語を使ってみたくてそれに合う言い回しをひねるなどである。

さて、今日の句は「山茶花や妾宅の木戸開けて入る」。散歩の途中で山茶花を見かけて家に帰って歳時記を引き、これは木戸を合わせてみたいなあ、おお、妾宅の木戸なんか粋やんかあとなって句にした次第である。
下七「開けて入る」に若干の工夫を要した。開けなければ入れない、その当たり前の妙(をかし)を感じてもらえるだろうか。

俺にとって短歌は本宅、俳句は別宅。この句は俳句入門の句なりと後講釈をつけてみる。
ともあれ、俳句は季語を核とした時空を超えた共同文芸であることを実感している。「山茶花に日当たれば恋得しごとし」轡田進。

 言語フェチ季語に添ひ寝の俳句して脳すこやかに死にてゆきたし

Holi's best 10 shots in 2004山茶花とカワセミ(初冬)が素敵な写真です。クリック→拡大すると、より楽しめます。また、掲載写真は「御宿かわせみ」 NHK金曜時代劇から勝手拝借/感謝です(高島礼子って、いいですねえ)。

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2006年11月14日 (火)

心の哲学(3)意味の他者

これまでの要約。
要するに、感覚と知覚は区別されるべき概念である。感覚は体性感覚(痛みとかの体内で生ずる感覚)であって主観的なものであるのに対し、知覚は五感(外界の眺望)でありPhoto_308 客観的実在としてモデル化するべきものであった。

ところが、ここにウサアヒル登場。右の図は何に見えるだろうか。見る人によりウサギに見えたりアヒルに見えたりするのではないだろうか。すなわち、ゲシュタルト心理学に言うところの、知覚は単に対象となる物事に由来する個別的な感覚刺激によって形成されるのではなく、それら個別的な刺激には還元出来ない全体的な枠組みによって大きく規定されるということである(図と地の関係)。
そして、図と地は対等、つまり、ウサギかアヒルかはどちらが正しいとは言えないのである。そしてまた、どちらを選ぶかは価値観による選択となることも往々にしてあるのである。
ここに意味の他者<気づき>が現れることになる。俺にはウサギに見えるけれどお前にはアヒルに見えるのか、そうかそういう見方もあるなあ、と我々は他者によって気づきを与えられるということだ。だから認識は既に社会化されていると言ってもいいだろう。すなわち、我々は意味の他者に囲まれて育ち、言語を習得し、言語情報によって生まれる前の歴史を知り、行ったことのない他国の文化に触れるのである。

以上に、意志と感情を加えれば、心は次のように概念モデル化できることになる。

価値世界     概念世界     事実世界
客観(間主観)⇔   心   ⇔     実在

         意志 思考(理性)     経験(知覚現象)
             認識(意味の他者と言語による社会的認識:悟性)
             知覚五感
         感情 感覚(体性感覚。例えば痛み)

意志と感情を価値世界寄りに配置したのは、意志が価値の実現を目指すものであり、感情が意志という力の源であるからである。

かくして、心は内界に閉ざされているものに非ず。心の中には既に意味の他者が侵入し、心のコンテンツは主として言語情報で埋められているのである。だから、我々は他者の心を言語と五感・感情の構造的共通性に基づいて知ることができる。
もっとも、最も知り難きものは他人の意志であろう。こいつ、いったい何を目論んでいるんだなどと。いや、そもそも自分の意志も知り難いのかもしれぬ。わて、どないしたらええかわかりまへんねん、と。

以上で心の哲学をとりあえず終了(まだ続きあり)とする。以下は竹内薫「物質をめぐる冒険」から若干のオマケである。

宇宙定数は真空が持っているエネルギーのことである。もちろん、世界一有名なE=mcという公式により、質量はエネルギーと等価なのだから、物質の存在もエネルギーに換算することができる。

とあって、宇宙が持っている全エネルギーのうち、通常の物質は4%、残りの96%は正体不明だそうだ。そして96%のうち23%が暗黒物質、残りの73%が宇宙定数暗黒エネルギー)と予測されているらしい。
なんやあ、ほとんどが正体不明やんかあ。そやのに量子トランスポーテーションとか超ヒモ理論とかスピネット理論とかを振り回すなと思いつつ理解不十分のまま読み流した。
しかしながら、質量とエネルギーの等価性はモノからコトへのパラダイムシフトをもたらした。要するに実体(モノ)から関係(コト)ということだろう。
また、色即是空の物理学(客観から間主観へ)という言葉も出てくる。これは賛成。客観とは実在に非ず、間主観で構成するものなり。ほら、俺の心の概念モデル図は始めからそうなっているだろう。

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竹下景子、フツー

男はつらいよ38作は「知床旅情」。加藤登紀子ではなくて森繁の歌が流れるのはなぜかPhoto_307 とか、三船敏郎はやっぱり好みではないな(俺はホモではないから勘違いしないよう)とか、淡路恵子もちょっと敬遠とか思ったりして鑑賞した。いつものごとく名セリフ再現ブログにリンクする。

ところでこの当時、竹下景子はうちのお嫁さんナンバー1人気だった(多分)。だから、結婚に失敗した相手も映画末尾で再婚報告する相手も画面には出てこない。変なヤツが相手だとイメージ崩れるもんね。聡明で健気なフツーの女優なり。

※写真はEarth Dreaming~ガラスの地球を救え~から勝手拝借/感謝です。

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動詞を使う@句をひねる

切れを造る@句をひねるの次は、動詞を使う。どういうことかというと、まず実例。Photo_306
 歳時記にコーヒーの染み枇杷の花
この自作、悪くはないと思うけれど、なんか三句切れ(禁じ手)が臭うような気がするので没に決めた。なぜ臭うかということをつらつら考えて、そうか、動きがないからだと発見した。
だから、韻律を無視して手直しすれば
 歳時記にコーヒーの染み見つけたり枇杷の花
とでもするしかない。

また、三句切れが臭う理由は「歳時記、コーヒー、季語」の三項対立になっているからだとも思う。俳句の基本は季語と自分の言葉との二項対立→配合の妙味にあるからだ。

季語に附き、動きを与え具体的に句をひねる。そんな教訓を得たのである。だから、形容詞を使うのも要注意。形容詞を使うと動詞を入れる場所が無くなる惧れがあるからである。ああ、こうして俺は一歩一歩、句聖の足下に近づいて行くなり。

※写真はランちゃん 枇杷の花から勝手拝借/感謝です。 

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侘助

今日の句は「侘助に詫びる一夜の恋ありき」。根が無責任なものだから、どんな花か知りもしないで言葉面だけで句をひねってしまう。
そこで反省、検索すると、豊臣秀吉の家来である侘助という男性が朝鮮から持ち帰った椿の一種ということが判明した(歳時記にも「唐椿」とある)。

また、侘助の素敵な写真と俳句にも遭遇した。まだ、咲くにはちょっと早い時期かもしれない。

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2006年11月13日 (月)

稲葉京子

テレビを見ていたら「いじめをなくそう」キャンペーンを実施中とか言う。何を笑止千万。そPhoto_305 んなもん無くなるものか、無菌社会を作ろうなんてと思う。どうせやるんだったら「いじめに負けるな」とか「負けても死ぬな」とか「いじめをちくろう」キャンペーンをやったらと思う。

しかし、これは当事者でない人間の言うことかもしれぬと反省もする。足を踏まれた人間の痛みは踏まれた人間でなくてはわからぬのだから。
とはいえ、痛みはいつかは消える。いや、忘れねばならぬ。死んだらおしまいなのだから何も無いのだから、絶対に死ぬな。死ぬぐらいなら相手をちくれ。ちくってちくってちくりまくってやれ。

だから、「いじめに負けても死ぬな」キャンペーンぐらいが妥当なところかもしれぬ。ピンチはチャンス。死ぬほどに追い詰められてあらためて知るいのちなり愛せよ我が身

さて、今日は稲葉京子。「婦人朝日」の投稿から歌を始めたそうである。

 風よりも静かに過ぎてゆくものを指さすやうに歳月といふ

おだやかな歌だ。このおだやかさは何処から来るか。
人間はひとひらの風。そのときは大変だけれども過ぎてみれば風。風の過ぎにしばかりなり。

しかしながら、もし我が子がいていじめられたらなんとしよう。ひとひらの風よ、と言ってもわからぬだろうなあ。

※画像はいづつやの文化記号 神奈川県近美葉山館の山口蓬春展から勝手拝借/感謝です。

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句切れ@句をひねる

句作に勤しむようになり思うことあり。その一は「切れ」なり。Photo_304
句をひねるに、切れ無くば句に非ず。すなわち、切れは句のアルファにしてオメガなり。

どういうことかと言うと、俳句は5・7・5の言葉の連なりだが、もともと切れているものを助詞助動詞動詞更には形容詞でつなぐもの。だから、意識的に切れを入れないと、いわゆる三段切れ(禁じ手)となってしまう。実例を示す。

 冬銀河月はうるわしオリオン座

あのなあ、あんたの言いたいことはわかる。わかるけれども、銀河と月とオリオン座を並べただけやんか。そんなん俳句とちゃう。俳句は世界で最も短い詩なのだから、余韻を読ませるようにしないと詩にならへんのや。だから、切れ。切れにより余韻を残す。それが俳句なんやで。

つまり、俳句は短いだけに形(理)における制約が短歌よりきつくなる。短歌においても切れはあるけれど、それは意味上の切れ(単なる呼吸の切れと言ってもいいだろう)。これに対して、俳句の切れは詩型を成立させる理としての切れなのだ。理に情(内容)をいかに盛り込むかが句作の勝負となるのである。では、切れを入れればそれでいいか。

 理と情の合はせ妙味や句をひねる

この句は確かに「や」という切れ字が入っている。しかし、切れで余韻が残らぬ。なぜなら、切れの前後で意味が対立していない、すなわち、どちらも俳句のことを詠んでいるからである。こういう句は無理に切れを入れようとせず、一句全体で切れ(余韻)をつくればいい。たとえば、「かな」を使うのだ。

 理と情の合はせ妙味の俳句かな

更に喩のスパイスをふりかけるとこうなる。

 理と情のカクテルひねる俳句かな

かくして、短歌はおのがじしに詠うもの、句は理を踏まえてひねるべしとなるのである。
あ、上の俳句、季語が無かった。川柳なりき。

 詩の女神我が枕辺に来てのたまふは歌は詠むもの句はひねるべし

※画像は巣鴨・真性寺にある「芭蕉の句碑」から勝手拝借/感謝です。

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ロード時間所要

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縦書き文庫(自歌自讃:私の歌を縦書きで表示して頂いています)サーバーが落ちていることが原因と思われます。
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いのちのはてのうすあかり

今日の俳句は「湯豆腐や筋の通らぬ恋をして」@恋シリーズ第二弾である。Photo_303
これは絶唱「湯豆腐やいのちのはてのうすあかり」久保田万太郎を意識して、ひねった。俳句というものは季語を中心とした惑星系。万太郎絶唱の惑星系の冥王星の衛星のそのまた衛星の塵のつもりである。それにしても、いい句である(もちろん、万太郎の句のことだ。誤解なきように)。

ところで今回この記事を書くために「久保田万太郎」で検索したら、万太郎は「自分の人生は逸話の連続」と自ら語っているが、なんとも余人には理解しがたい複雑な人生を送っている。ことにその女性関係たるや奇怪至極なことったら。に出会った。前にもリンクさせて頂いた詩人正津勉さんの恋 唄 拾 遺の中のページだ。

これを読むと「いのちのはてのうすあかり」に万太郎が到った境地がわかるような気がする(おこがましいけど)。句歌は作者の人生とは独立して読まれるべきものなれども、他方、作者の人となりを知れば理解がおのがじしに広く深まることを実感した。人間、この切なく愛すべき存在よ。ちなみに、宮沢元総理もこの句を愛してらっしゃると何かで読んだ記憶あり。

※写真は【屋形舟今昔】 船場新香(ふなばしんこ)から勝手拝借/感謝です。万太郎の句もいくつかあり。

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2006年11月12日 (日)

偶数は縁起悪し

先ほどの記事を送信した後に思いついた。
そうか、婚礼の祝儀と一緒やんか。偶数は泣き別れにつながるという理由で嫌われているんだ。

 2万円で済ましたいけど偶数は泣き別れなり3万となる

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ちょっぴり歌舞伎

今朝の俳句は「初時雨大和往還恋飛脚」。漢字ばかりの句を狙って「恋飛脚大和往来」Photo_302 (歌舞伎演目の外題)から頂戴したものだ。なかなかいけてると自分では(いつものように)思うのであるが。

ところで、歌舞伎の外題、なんで漢字ばかりの難しいのが多いのだろうか。下に馴染み深いのを挙げてみる(出典は歌舞伎演目TOP)。

天衣粉上野初花<河内山>     くもにまごううえののはつはな
与話情浮名横櫛(切られ与三)  よわなさけうきなのよこぐし
青砥稿花紅彩画(白浪五人男)  あおとぞうしはなのにしきえ
於染久松色読販(お染の七役)  おそめひさまつうきなのよみうり
新皿屋敷月雨暈(魚屋宗五郎)  しんさらやしきつきのあまがさ

そこで、ウィキペデァを見ると、

歌舞伎の演目のタイトルを外題と呼ぶ(「芸題」からきたとする説が有力)。奇数が好まれ、たとえば「娘道成寺」には奇数とするため、「京鹿子」を付して「京鹿子娘道成寺」とする。ただし外題のほかに通称名があることが多く、外題は正式名のように扱われる。「都鳥廓白波(みやこどりながれのしらなみ)」が「忍ぶの惣太」と呼ばれたり、「八幡祭小望月賑(はちまんまつりよみやのにぎわい)」を「縮屋新助」と呼ぶなど。外題は奇数文字にするために、当て字などを用いるので、読み方が難解になっているものも多い。

とあった。なぜ、奇数文字にするのかの理由には触れていない。奇数の方が縁起がいいからだろうか。

ともあれ、俺は、歌舞伎座に一回、国立劇場に一回行っただけでテレビ中継も(こらえ性なきため)途中放棄することが多い。でも、見得を切ったりたたらを踏むのを見るのは面白く、いつか、こらえ性が出来たらじっくり鑑賞したいと思ってはいるけれど。

※画像は写楽、讃岐人説-四国新聞社から勝手拝借/感謝です。

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2006年11月11日 (土)

石川不二子

こうやってブログに駄文を綴っていると、我ながらつくづく、言葉、いや、言葉を弄ぶのがPhoto_301  好きだなあと感心する。寡黙を標榜している俺だけれど、ほんとはやっぱり、喋りだしたら止まらないのであろう。困ったものだ。

ところで、「言葉は世界の可能性の全体だ」という意味のことを説いた哲学者がいた。例えば、「本が机の上にある」状態を想像しよう。この事実を「本が机の上にある」と言語表現するということは、その否定形「本が机の上にない」ということを可能性としてはあり得るということを示していることになる。
つまり、言語を持たない動物たちにとっては、世界は常にありのまま、時間も空間も無く可能性も無いのであるが、言語を弄ぶ人間にとっては、過去・現在・未来があり、ここ・そこ・あちらがあり、可能性とか希望とか絶望が生まれるのである。

こんなの下らぬ。虚妄だ。世間皆虚仮と主張するのが仏教である。だから、色即是空という。もっとも、仏教はちゃっかりしていて空即是色と反対側の可能性にも言及している。

さて、今日は石川不二子。広く、深く、おのがじしにの心の花に属する歌人である。中城ふみ子と同時に、かつ、中城の激しい情念と対照的な、健康的で清新な作風として歌壇デビューしている。

 われと同じ名をもつ林檎も薔薇もありこの世たのしとしばしは思へ

言葉フェチの俺はこの歌の下の句「この世たのしとしばしは思へ」に惹きつけられてしまう。仮令(この字をいっぺん使うてみたかった)世間虚仮であろうと、遊びをせむとや生まれけむ、だから、この世たのしとしばしは思へ、である。しかし、作者は開拓酪農の厳しい生活に自ら入った人だけに重みが違う。安易に惹きつけられたなどとほざくな、極楽トンボ。

とはいえ、言葉は世界の可能性だから、何を言ってもいい。どんな事態でも表現可能である。しかし、言葉と世界を結びつけることだけは絶対に必要だ。これが無ければ本当に世間虚仮になってしまう。
そして、言葉と世界とを結びつけるのは各人の人生しか無い。人生という現実において人は言葉を語り言葉と現実はリンクされる。だから、言葉で約束し裏切り裏切られ希望し絶望するのである。これを称して「
私の言語の限界が,私の限界を意味する」とウィトゲンシュタインは語ったのであろう、多分。この世たのしとしばしは思へ。

※画像はバラ 紀伊國屋書店BookWebから勝手拝借/感謝です。

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杉村春子

「杉村春子」を織り込んだ句を得た(左サイド下方の短冊を参照。明日になれば別の句にPhoto_299 変えます→でも安心、短冊をクリックすれば私の過去句が出てきます)。
そこで、ウィキペディア→遊女の私生児として色街に出生。酒もたばこもたしなまず、ひたすら仕事と恋に生きたとあった。享年91歳。

新藤兼人「午後の遺言状」がずっと記憶に残っている。乙羽信子の遺作でもあった。人間、いかに老いて行くかを考えるきっかけになった映画だ。そうそう筒井康隆「敵」も老いを考えるヒントをくれたなあ。

 老いて行く我が人生の終末を些事と思はば神も微笑む

※画像は万里の道をゆく  11月26日-杉村春子を観るから勝手拝借/感謝です。

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2006年11月10日 (金)

存在感薄き我が総理

米共和党惨敗。理由はイラクと格差拡大及びスキャンダルにあるようだ。Photo_298
これで日本の民主党にも追い風か(特に格差問題)とも考え得るが、先日の党首討論を観てもいまひとつ元気がない。もっとガツーンと行かんか、どアホ。

では我が総理はというと、これも存在感が薄い。前総理だと「アメリカはアメリカ、日本は日本。人生いろいろ」と発言したろうにと思えば残念だ。

いったい、どうしたのだろう総理。なんか悩み事でもあるのんとちゃう?

※写真はAmeba News|安倍総理の「音楽祭」スピーチのテープ起こし公開から勝手拝借/感謝です。

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俳句の出来損ない短歌

我がPCデスクトップに俳句メモを置いて在庫管理しているが、そのうちの一句。Photo_297

 悦に入るひとりよがりの冬の蝶

よさそうでよくない。ぴったり来ない。という訳で投句せずにいたところ、さきほど朝ウォークで「冬蝶の」に直したらどうかと思いついた。
しかし、やっぱりよくない。「冬蝶の」にするのならいっそ短歌にしよう。そこで、

 悦に入るひとりよがりの冬蝶の句歌の世界に遊ばむか我

おお、でけた。これはいいと、まさにひとりよがった。
要するに、俳句にするには思想が凝縮されていなかったということなのだ。

※画像は関西生活情報サイト フルルKansai - ゆんぴょの日記から勝手拝借/感謝です。

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歳時記の悦楽、俳句の宇宙

今朝の定例行為、一段落した。
そこで、今朝の一句は

 咳すれど 四百四病の外にあり   多路十

この句の意味・背景等については上のブログを見て頂くとして、ここで言いたいことは歳時記の効用である。
すなわち、このように感じる句に遭遇すると、歳時記を引く。するとそこには、その季語に関してプロの句が並んでいる。「咳」の場合、たとえば次のような句である。

 ふるさとはひとりの咳のあとの闇       飯田龍太
 妻の留守ひとりの咳をしつくしぬ       日野草城
 咳の子のなぞなぞあそびきりもなや     中村汀女

他の句も眺めて、「咳」という言葉の意味(言語におけるその使用形態)が広がる。つまHousai り、俺の世界が広がるのである。

季語を核としたWorld Wide Webのごとき世界、それが俳句である。短歌(徹底的に私歌)と異なり、まさに宇宙である。そうそう、歳時記には載せてもらってない句でこんなのもある。

 咳をしても一人                 尾崎放哉

句表記を確認(「ひとり」ではなく「一人」が正しいようだ)するべくネット検索したら、俳句を作る。それは読み手がいることを前提としているように思えるのです。虚無に消える独り言ではなく、それを受け止める人がいると。に出会った。咳でこんなに悦楽できるなんて、俳句でビョーキ(しばらく)になりそうである。

※画像は放哉 孤高の詩(うた)から勝手拝借/感謝です。

  

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2006年11月 9日 (木)

角田健一ビッグバンド

ええよお、スイングしてまっせ。詳細はF.J.O.の Big Bandな日々 角田健一ビッグバンド Photo_296 2006定期公演をどうぞ。

BS2放送からオハナシ部分を割愛して冥土の土産DVDに収録した。

※写真はJazz Pageから勝手拝借/感謝です。

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残年の読書

丹治信春「言語と認識のダイナミズム」飯田隆「言語哲学大全2」を読書中なのだか、いPhoto_295 ずれも途中から渋滞している。いくら台所の言葉で語られても、やっぱ俺は入門書リーダーなのかなあ、学識不足なんだよ、と理由を考える。
いや、「……における……は」などと訓詁学(古籍に対する注釈)及び抽象的概念分析にはついていけなくて当然であるとの思いもする。
この点、野矢茂樹「哲学・航海日誌」は違う。しっかり具体的に書かれている。それゆえ、読むことが考えることにつながるのだ。

という訳で「航海日誌」再読検討中→となれば「心の哲学(3)意味の他者」までには今しばらくの時を要するかもしれぬ。残年の少なくなりし歳ゆゑに本は本気で味はふがよし

※画像はフェルメール全35作品紹介から勝手拝借/感謝です。

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ケビン・コスナー、好演

BS2放映「パーフェクト・ワールド」観了。どんな映画かは、静かな感動で幕を閉じる美しKevin_costner い物語に概略あり。

ケビン・コスナーは(チェロキー族、ドイツ、アイルランドの混血なんだ)ダンス・ウィズ・ウルブズ、ロビン・フッド、フィールド・オブ・ドリームスを観ているなあとウィキペディアで確認した。近頃、低迷とあるが、この作品では、イーストウッド監督の手腕もあってオーラをふりまいている。
まず、顔がいいんだよね。そして、犯罪者でありながら一途を感じさせ、それでいながら嫌味のない演技。要するに素直セクシーということか。

映画自体は、この映画の隠れテーマが「教育」って事なんですねに同感。そして、教育というよりは父の不在というべきかもしれない。これには俺にもいささかの体験あり。ああ、こどもがないから逆スペクトルは永遠の課題なり。

※写真はケビン・コスナーから勝手拝借/感謝です。

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ひろく、深く、おのがじしに

一人一首次回(石川不二子)の準備作業としてネット検索していたら「心の花」(俵万智もPhoto_294 同人である短歌結社)に遭遇し、タイトルの言葉に出会った。
この言葉、以前にも目にしているのだけれど、今日はなぜか、心に沁みた。

 言葉との出会ひは音楽聴くごとく心に響くときのありけり

「おのがじし」って今ではほとんど死語のように思うのだけれど、ネット検索すると、校歌などにはいまだ使われているようだ。たとえば佐賀県立小城高校「おのがじし進む道あり」などと。生徒は判って歌ってはいないやろうなあ。

※写真は北陸中日新聞 ふるさとよ!から勝手拝借/感謝です。

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毎朝の定例行為

ハイクブログを始めてから、毎朝の定例行為が変化した。Photo_293
起床→PC電源投入→着替え→血圧測定→ブラウザ立ち上げ→昨日のアクセス統計確認までは変わらないが、その後が変化したのである。

自分の句及びコメントに対するコメント確認→在庫から今日の句を取り出して投入→同じ季語の句を拝読/コメント→新規投句拝読/コメントという流れが加わったのである。
コメントは老若男女を問わず、コメントしたい句につけるように心がけている。拝読していて、若い人たちの気分が伝わってくるのもちょっと嬉しい。

さて、そんな中で今日はわが句に記念すべき初めてのコメントがついていた。「秋もせず男や女炬燵酒」の作者からである。改めて、ありがとうございました。

一日一句。昨日もプールで一首二句を得た有り難さかな。

 しようもなき俳句なれどもこれだけが俺の取り柄とさめざめひねる

ちなみに昨日のプール体重:85.6→85.2。85が厚い壁なり。

※画像は一豊の妻から勝手拝借/感謝です。

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2006年11月 8日 (水)

いずれイク みんなイク道 ロージンロード

Photo_292 面白い老人に出会った。写真にも長けている。
タイトルはこの老人のブログから頂戴した。
うちの老人(姑)は今日も元気にデイサービスに行った。いつも学習させてもらっている。

※写真はお勧め演出から勝手拝借/感謝です。

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認識論の社会化

しまうまさんから頂戴したコメントにコメントした後で、そうや「認識論の社会化」というアプローチもあったなあ、と思い出して検索したら、伊勢田哲治「認識論を社会化する」を発見した。俺は入門書専門なんだけどと思いつつ図書館にリクエストしよう。

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田井安曇

(正直言うと)コメントを頂くと(チョー)嬉しい。しかし他方、他人嫌いを標榜する俺としては、正面からコメント大歓迎プロポーズも出来ぬ。要するに、「春宵の酒場にひとりPhoto_291酒啜る誰か来んかなあ誰あれも来るな」石田比呂志@気分である(←あ、この歌、ヘッダーに貼ってやろ)。
人間ひとりが一番、というのは粛然たる真実と信じるが、一方で、意味の他者との出会いは存在論的経験をもたらし論理空間を豊かにしてくれるのだ。

ええい、コムツカシイ理屈をこくな。一期一会、花に嵐の喩えもあるぞ、さよならだけが人生だ。と言えばオシマイの話である。人といふ文字を分解してみればもちつもたれつ支え合ふなり

さて、今日は田井安曇。歌人紹介には<敗戦後、靴屋(元海軍下士官)の高橋さんにより歌をつくりはじめ、「花実」に入会。岡崎高等師範学校時代「アララギ」を経て「未来」創刊に加わる>とある。

 闇にまぎれて帰りゆくこのよるべなきぼろぼろをわれは詩人と呼ぶ

破調である。指折り数えると、7・5・7・7・7=33となる。二句のみが5音で、後は全て7音で韻律を形成している。
詩句の核は「このよるべなきぼろぼろを」であろう。この核に「詩人」がかぶさり自嘲と自負のないまぜが「闇にまぎれて帰りゆく」思想(主題)となる。

でもね。みーんな誰しも、よるべなきぼろぼろなんよ、あんた。実存が本質に先行するなどという小ざかしい屁言葉もあるけれど、気がついてみたらみーんな生まれて生きとったんよ。だから、あんたひとりのものではないのよ、よるべなき実存は。

ところでこの歌人は、憲法九条を守る歌人の会(九条歌人の会)で講演活動をされているようである。それを「サヨ」と蔑称して批判する人もいる。人といふ文字を分解してみれば左と右の二画に分かる。おお、もう一首。

 左右より美醜を語れ観念は親の仇と哲学書読む

※画像は♪お玉つれづれ日記♪ ~沖縄★美人画報~   女の「ひとり花見」マニュアルから勝手拝借/感謝です。

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俳味(ハイミーとちゃいます)について

ココログメンテ中で記事カキコできず、ハイクブログじっくり逍遥。昨日見つけてお気に入りに登録Photo_290したこの句を読み返してみて、ひよっとして歴史に残る名句ではなかろうかと思い、トラバする。

 秋風やいのちある身の鼻毛抜く      馬蹄螺

俳句の俳は「人に非ず」と書く。だから、俳味とは、「人に非ぬ味」ということか。人を食った味も、人に非ぬ味かもしれぬ。そこで得意の検索をすると、俳味(俳趣)のある画とは、わび、さびを根幹として、生活の中で体験しているユーモアを加味した日本人独特の思想、枯淡、脱俗、こっけいを含む画をいいますとあった。

かくして、洒脱という言葉に思い至れり。

 毎晩の酒を飲みつつ思ふなりいのちなりけり洒脱に生きむ

※画像は富山県水墨美術館 出光美術館所蔵 華麗なる日本美術の巨匠展から勝手拝借/感謝です。

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2006年11月 7日 (火)

心の哲学(2)知覚因果説(内外二元論)の否定

前回の続き→課題は他我問題「いったい、私たちは他人の心をどうやって知るか」であっPhoto_289 た。そこで、心とは何かを究明しなければならないが、まず、心の下層の部分である感覚と知覚を問題にした。すなわち、感覚と知覚とは違う(ぎょっ、としたけど)、更にはどのように区別するかが問題となった。

ここで著者は知覚因果説「実在が原因となって知覚が生じる」(←我々の常識的な見方)は誤りであると主張する。ほんとうにそうなの?
では、その論理を追ってみよう。

知覚因果説は実在の世界と知覚の世界の二元論をとる。しかも、私が生きているのはその一方の知覚の世界だけでしかない。

こんな、心の内外二元論(対象=外、働き=内)はオカシイと著者は主張する。

リンゴを見て、手にとり、かじる。そこに現れるのは視覚的、聴覚的、触覚的、味覚的に知覚されたリンゴである。見回しても、指先をはわせても、すべては知覚でしかないのである。

心の内外二元論は、ロック以来の伝統的考え方(経験論+観念のベール)に由来している。すなわち、
ロックは,それゆえ,「自然(物体)」が存在しないと考えたわけではなく,「自然そのもの」をわれわれが認識できるわけではないということをいおうとした.われわれ(精神)が客体(物体)を認識するとき,その物体そのものを認識するのではなく,経験を通じて得られた感覚,もしくは,感覚によって得られた観念によって認識するのである
われわれは対象(自然)を経験を通じて認識するのだが、対象(自然)と観念(心)の間には観念のベールが存在するので自然そのものを認識するのではない、とする。

これを著者は否定する(大森先生譲りである)。
否定の根拠の第一は上に引用した言わば開き直り→人間原理「この世界がこのような姿をしているのは人間がいるからだという考え方」(→すべては知覚でしかないと言うのは言い過ぎで、知覚からしか出発不可能ということ)である。
そして、第二に(これが面白い)「因果関係を言い立てることには原理的な困難がある」ことを挙げるのである。

一般に、因果関係を認識するとき、それは原因と結果の相関関係の観察に基づいている。例えば、喫煙と肺癌の因果関係を知るには、喫煙者と肺癌患者をそれぞれ調べ、その相関を確認するわけである。しかし、知覚因果の場合にはこのような可能性は完全に断ち切られている。私は知覚の原因に出会ったことなどないし、その可能性もない。このような場合、そこに因果関係を言い立てることには原理的な困難がある。

まあ、これも知覚における人間原理だろうなあ。知覚においては原因と結果とを別々独立に観察不可能やんかあ、だから、観念のベールなんかあらへんぞ。例えば色彩、人間に見える色が色彩そのものやんか、それ以外に色なんか無い。と、デカルト原理(物体の本質は延長、心の本質は精神=観念)の修正を迫るのである。

さて、この理屈に納得できるか。
いくら時代遅れの二元論などと言われても、われわれは机や本のような「対象」と、それを見ている「人の状態」を区別して理解しているという反対意見もあるが、対象・状態の区別は認識論の問題、ここでは認識以前の知覚(五感)を問題にしていると限定すればよかろう(野矢教授の言葉遣いが不適切なのだ!)。
すなわち、心の構造を次のように概念モデル化するのである。

価値世界    概念世界   事実世界
客観(間主観)⇔  心   ⇔  外界
          思考(理性)    経験知覚という現象を含む)
          認識悟性←知覚を意味づける(概念化)
          知覚の働き(五感)
          感覚(体性感覚。例えば痛み)←外界に働きの対象は無い。

前回述べたように、知覚を働きと現象に区分して、知覚現象は経験の一部として外界に実在し、知覚働きは心の機能と考えるのである。
かくすれば、観念を心から追放でき(知覚現象として外化)、更には、認識論の自然化プロジェクトにもつながるのではないか。

ところで、上の心の概念モデルには重要な要素が欠落している。それは、意志と感情である。これについては、次回(たぶん最終回)に回すとしよう。

ブログランキング(前回よりは出来がいいでしょう)

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言語ゲームの卓抜な説明

丹治信春「言語と認識のダイナミズム」より、言語ゲーム(はてなダイアリー←うまくリンクPhoto_288 できているかな?)の卓抜、わかりやすい説明を引く。

チェスの駒は、チェスというゲームの中で「意味をもっている」(生命をもっている)と言うことができよう。しかし、それが有意味なのは、駒が、何かある<もの>と結び付けられているからではない。そうではなく、チェスというゲームを規定している規則の体系が、一つ一つの駒を有意味にしている(それに生命を与えている)と言うべきであろう。

駒が「何か」を意味しているのではないのと同様に、言葉(語、さらには文)も「何か」を意味してはいない。言葉の意味とは言語におけるその使用形態(体系)である。ああ、完璧に理解してもた。着実に吾は賢くなりて行く寿命残年減ると比例し

※画像は【楽天ダウンロード】本格的シリーズ チェス チャンピオンシップトーナメント:無料・体験版ダウンロード、ダウンロード販売から勝手拝借/感謝です。

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台所の言葉

我が市の図書館が蔵書していない本もネットでISBNコード等を入力すれば、リクエストでPhoto_19 きるようになった。便利である。重宝している。
これでリクエストした本、丹治信春「言語と認識のダイナミズム」(都立多摩図書館蔵書)を昨日から読み始めた。難解な専門書ではないかと危惧したが、そんなことはなくて、序でも一般向けも意識していると書かれている。そしてまた、序にはこんな言葉があったので引いておく。

「哲学は台所のことばで語られなければいけない」というのが、私の恩師である大森荘蔵先生の一貫した姿勢であり、私もそれに全く賛成なのである。

さて、この本からウィトゲンシュタイン「哲学探究」の一文を孫引く。後日、「心の哲学」でリンク・パーツとする予定。

もし、「私には彼の与える記号しか見えないのに、彼が何を意味しているのかをどうやって知るのだ」と言う人がいるならば、私は、「彼もまた、自分の与える記号しかもっていないのに、自分が何を意味しているのかをどうやって知るのだ」と言おう。

記号=言語は誰にとっても思考の道具。だから、他人の心のうち思考については原理的には、知ることが不可能なことはない。原理的に不可能なのは、彼の痛みと語られぬ感情と意志である。

※画像は戦後の農村住宅から勝手拝借/感謝です。

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今日は立冬

こよみのページで確認しました。でも、今日の句の季語は「秋惜しむ」にしました。Photo_287
明日からは冬の季題に切り替えます。

ネット俳句、はまってしまいました。実際の句会(行ったことないけど)なんかよりよっぽどいいです。なぜなら、私、他人嫌いだからです。

※画像は男嫌い〈石坂啓の「女男カンケー」スーパーエッセー〉(石坂 啓・著)○第三書館●版元ドットコムから勝手拝借/感謝です。

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2006年11月 6日 (月)

心の哲学(1)感覚と知覚

野矢茂樹「哲学・航海日誌」(1 他我問題 2 規範の他者 3 行為の意味 4 他者の言葉)Photo_286 了。3,4はついていきかねる所もあったが、1,2は読み応えがあった。要するに、著者は心の内外二元論を打破しようとしている。すなわち、著者は

「内」と「外」とはたんなる比喩でしかない。心臓は確かに皮膚の内側にあるが、「心が意識の皮膜の内側にある」というのは意味不明でしかない。

何を指し示しているのかは一致するのだが、見てとっている相貌が異なる場合に、その差異を吸収しようとしてわれわれが言語の内に用意してきた仕掛けこそが、「心」という概念だと思うのである。


とする。「(コミュニケーションにおいて)指示を共有しつつ、それを異なる相貌のもとに捉えている場面」に心が存在するというのである。なぜ、そんなことが言えるのか。俺なりに再構成してみよう。まずは、感覚と知覚について、である。

著者によると、感覚と知覚って別物だそうだ。えっ、と思って感覚@ウィキペディアすると、感覚は、アリストテレスなどによって古来から5種類(視覚、聴覚、触覚、味覚、臭覚)に分類されて五感と呼ばれてきたとある。
これ対して知覚は、動物が外界からの刺激を感じ取り、意味づけすることである。 視覚、聴覚、臭覚、味覚、体性感覚、平衡感覚などの感覚情報をもとに、「熱い」「重い」「固い」などという自覚的な体験として再構成する処理であると言えるとある。
そうか、刺激を感じ取るのは感覚、意味づけして再構成するのが知覚ということか。知覚は感覚の上位の働きという理解でいいんだな、と理解した。

そこで、まず最初の問題は他我問題「一体私たちは他人の心をどうやって知るのか」である(他我問題は独我論の裏返し「他人に心はあるか」というのは間違い)。ここで、知覚と感覚に著者は分けて論じる。
まず、知覚。知覚については、世界は非人称的構造をなしていると著者は言う。つまり、「世界の眺望」という概念を導入して、外界は心とは独立に実在しているのだから、外界の眺めは眺望点(眺める場所)ごとに異なるけれども、眺める人による違いは無いと言い切るのである(アスペクト問題「~として見る」は後で述べる)。
他方、感覚(たとえば痛み)。感覚は一人称的構造しかあり得ない。なぜなら、知覚は対象を持つ(複眼的構造)が、感覚は対象を持たない(単眼的構造)からである。すなわち、
知覚「見る」場合には(対象が存在するので、対象を)「よく見る」という言い方ができるが、感覚「痛む」場合には(対象が無いので、対象を)「よく痛む」という言い方はできないのである。

ほほう。とすれば、既に知覚において心は内に閉じ込められてはいない(知覚は非人称的。視覚不良等で眺望が歪められることはあっても原理的に非人称)。これに対して感覚(感情は?)は一人称すなわち心の内に生じるものとなる。

ちょっと理解しにくいな。だって心は脳の働きだろ、そして脳は「皮膚の内側」にあるじゃん。やっぱりオカシイんとちゃう?という疑問が発生する。
これに対して俺は働きと現象を区別するという理屈で対抗しよう。つまり、働きとしての心(いまの場合、知覚)は「皮膚の内側」にあるけれど、現象としての心(いまの場合、知覚という概念)は「皮膚の内側」にない、とするのである。

ここで予定紙数が尽きた。次回予告→心の概念モデル。ちょびっとだけ予告編。

価値世界    概念世界   事実世界
客観(間主観)⇔  心   ⇔  外界
          思考(理性)
          知覚(悟性)←心の内に非ず
          感覚(感性)

※写真は科学哲学 - 講義紹介 - 東大の学び - UT-Lifeから勝手拝借/感謝です。

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一日一句

実は(何を隠そう)一日一句を心がけている。Photo_285
今のところ(明日は立冬、たぶん)冬の句の在庫もひとつあるのでなんとか継続できそうだ。
投句→同じ季語の人様の句を鑑賞→コメントまたは返句(左サイド下の句はその一例←短冊をクリックすると過去作が読めます、念のため)→投句した句を一日反芻/明日の句を思う、という愉しみ方をしている。

ちょっと残念なのは、短歌より俳句の方が出来がいいように思うことである、くっすん。

※写真は松尾芭蕉から勝手拝借/感謝です。←芭蕉は51歳で没したんですねエ。

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じゃじゃ馬ならし

リチャード・バートン、エリザベス・テーラーの共演かあ、という興味だけで録画予約した映画だったけど、こらえ性の無い俺が最後まで観てしまった。例によってブログ検索すると今時のフェミニストが見たら卒倒するような「男尊女卑」テーマだが、じっくり「深読み(深観)」すると「結局、女の方が強い」というメッセージになっているのが分かるというコメントあり。なるほどと思う。所詮オトコはお釈迦様(オンナ)の手の平が遊び場所に過ぎないのPhoto_284 だ。

エリザベス・テーラーはタイプにあらず。なんちゅうか濃すぎるんだよね。
醤油とオンナは同じカラダには塩分控え目薄味がよし←あ、歌になってもた。ウェブ歌集にとりあえず入れておこう。

※画像は素敵な女性から勝手拝借/感謝です。

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長渕剛、サイコー

男はつらいよ「第37作 幸福の青い鳥」(あらすじ及び寅アリア紹介はいつものごとくこちらPhoto_18にお世話になります)の長渕剛がよかった。覇気と挫折の青春を見事に演じていた。
監督の力(「吹けば飛ぶよな男だが」という青春映画の傑作を思い出す)もあるだろうけど、役者(人間)の持つオーラだろうなア。ランキング付けするとベスト10以内には確実に入れたい傑作である。

と思って寅さん観客動員数リストを見ると30位だった。商売は時の運なり。

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2006年11月 5日 (日)

関西ソウルと浪花節

しもた。こんなんあったんやんかア→わが心の大阪メロディー。いつものクローズアップ現Photo_282 代定刻録画しかしてへんかったから、30分しか録画してへん。再放送せんかなあ。

録画できたうちでベストは「天王寺」木村充揮大西ユカリ。和田アキ子以来の関西伝統ソウルを堪能した。

ところで、浪花節+ソウル=関西ソウルとちゃうやろか。

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日めくりを設置しました

俳句を始めたから、二十四節気がわかるカレンダーが欲しくなり、ブログパーツを探したけれど見つからなかった。
そこで止むを得ず今日は何の日?で代替する。
これに伴い役立たず(前月表示が出来ないんだもん)ココログカレンダーは廃棄。
それはそうと、なんとかせえココログ、コメントスパム。

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俳句と短歌

俳句は以前パソコン通信時代に句会に参加していた。だから、今回復活(動機はブログPhoto_17 の味付け)したこととなる。
とはいえ、大した句を得たわけではない。どんな句をひねったか、忘れてしまったし記録も手元には無い。

さてそこで思うのだが、短歌は詠嘆、俳句は宇宙である。つまり、短歌はどこまで行っても徹底的に私歌(私を離れては歌はないのが原則)であるのに対して、俳句の原理は無私に帰依して(ないしフリをして)私以外(即宇宙)を歌う詩にある。
そして、俺の主張する短詩型文学三原理(韻律、思想、比喩)に即して言うと、短歌の重点は比喩にあり、俳句は思想に重きを置くということになる。
すなわち、短歌では思想(歌の中味)よりも詠むことに意味があり(白秋「君かへす」を想起せよ)、季語が骨格となる俳句では、これと関係(付かず離れず)させての主張(思想)が大事になるのである。そして、歌を詠むためにはまず根拠を現実に置くことが妥当であり、句をひねるためには(歌と発想を変えて)現実から離れての思想が必要ということになると思う。
とすれば、歌は真実(まこと)から出る詩、句は虚構から入る詩ということになる。屁理屈が先に立たねば手が付かぬ我の性分どうにかしてよ。

 虚構から入るは俳句真実より出づるは短歌 終点何処?

ちなみに、短歌と俳句の両刀使いで浮かぶのは寺山修司だ。ネット検索して嘘つき修司の骨頂。父は死んでも母は生きていたが、その母と別れ、さらに殺して句が出来上がる。と遭遇して、修司の詩句を味わうことができた。俺も一首、引いておこう。

 アカハタ売るわれを夏蝶越えゆけり母は故郷の田を打ちていむ

※画像はしんぶん赤旗から勝手拝借/感謝です。

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2006年11月 4日 (土)

俳句はじめました

前々からこのパーツを貼りたいなと思っていて、今日探索したらサイト発見。
livedoor ハイクブログにユーザ登録して二首ひねってサイドバーに貼りました。

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モーツァルトをおちょくるグールド

ちょっとお疲れ。Photo_281
野矢茂樹「哲学・航海日誌」に触発されて「心の哲学」(心は本来間主観的)構想中だが、お疲れなのでアタマと手が動かない。
そこで、昨日BS2放送「ホフマン物語」を漠然鑑賞中。謎の多い作品とされているとウィキペティアにはあり、意味不明作品は漠然鑑賞に適するなどと勝手思考せり。

ところで、図書館でモーツァルト@グールドを発見し、昨日、鑑賞した。ブログ検索すると、グールドはモーツァルトを毛嫌いしていたという話があるけど、このアルバムでの小馬鹿にしたようなやりたい放題の演奏を聴けば、それも頷ける。とか、グレン・グールドは、記号的な音楽家モーツァルトを嫌うが、とかのコメントがある。
確かに、こいつ、おちょっくっとるな(おちょくる」という言葉にも、「からかう」や「ひやかす」では訳しきれないニュアンスがある。「からかう」ではしつこさが足りない感じだし、「ひやかす」ではひやかす方がむしろ劣位に立っている感じがすると思わざるを得ないような演奏である。ではあるが、面白い。それどころか、美も感じる局面もある。
おかげで、ラッキー、俺の人生広がった。ユーミン、森進一との複合配合CDを作成済みである。

※画像はチケットぴあ/新国立劇場オペラ「ホフマン物語」/クラシックから勝手拝借感謝です。


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2006年11月 3日 (金)

石田比呂志

人生に意味はあるか(エロスより出でてエロスに環り来む意味を求めてめぐりし後に)?Photo_280

そんな難しい問題わかれへんわ、と投げてもいいがウィキペディアだけはしてみよう。
言葉(単語・用語など)が持っている概念の事。とある←ちゃうなあ。もっとも、別の意味にも触れていて、ある物(物体やシステムなど)が存在するする必要性や理由の事とある。
そうそう、これこれ、すなわち、価値や、と今度は価値をウィキペディアすると、「価値」は「良いという性質」のこと とある。
なるほど。では、良いとはなんやねん、とまた疑問が湧く。

かくして、辞書めくりは循環する。言い換えれば辞書(規則)は意味(行動)を定め得ない。つまり、規則は行為の仕方を決定することはできないとなり、これが規則のパラドクスと言われているものである。語の意味とは言語におけるその使用であるとも言う(→リンクを拝読して使用方法(形態)に訂正)。

つまり、人生に価値があるかどうかは辞書をめくってもわからん、人生は人生してみないと意味不明という健全な常識人の理解に到達するのである(ここで冒頭の俺の歌を読み返すこと)。

さて、今日は石田比呂志。現代の短歌の歌人紹介に「昭和5年生まれ、旧制中学中退後、21年、16歳で一握の砂を読んで歌人を志す」とある。

 酒飲みてひとりしがなく食うししゃも尻から食われて痛いかししゃも

韻律(リズム)は出来てるけれど、いったいこの歌は何(思想=メロディ)が言いたいねん。「尻から食われて痛いかししゃも」が人を食った比喩(ハーモニー)ではあるが。
と、疑問に思えば得意の検索→居酒屋にて石田の酒を啜っている傍で、「鯛焼きは頭から食べるのか」「それとも尻尾から食べるのか」を論じ合っていた事から、生まれた歌であると遭遇→なるほど、嘘の中に大輪の真実の花を咲かせるのが歌であり、読み(意味)の探索は読者に任せられているのである。

と、ここで終わってもいいのだが、まだ、続きあり。しばし休憩。

ところで、「石田比呂志」でネット検索していたら20歳も年の違う、妻のある人と、いわゆる不倫の恋をしたのですもの、両親は泣きました。に遭遇した。石田の現在の連れ合いである阿木津英(フェミニズム歌人の先駆け)の文章である。他人の私事を云々するのは趣味ではないが、本人が新聞に発表した文章だから、ここでリンクしても差し支えはないだろう。

石田も阿木津もそして誰もが、真実の生を生きている(なぜなら人生は一回こっきりだから)。そして、人生の意味は、生きること自体・その瞬間において主体的に判断するしかない。意味・価値を決定する規則はない。仮にあったとしても、規則は行為を決定することができない。だから、多元的価値観こそが健全な価値観であると俺は思う。

ちなみに、阿木津英は現代の短歌に入れてもらっていない。そこで、彼女の歌を一首、引いておく。

 産むならば世界を産めよものの芽の湧き立つ森のさみどりのなか

※画像はINSPIRED BY...ISHIDA HIROSHIから勝手拝借/感謝です。

ブログランキング(我ながらよくできました)

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特急対応、感謝です

縦書き文庫さんにブログパーツの出来ましたらの改良を昨日お願いしたら、なんと、もうPhoto_16 出来ていた。
Wonderful!感謝です。詳しくはこちらをどうぞ。

※画像は楽天フォトより勝手拝借/感謝です。

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2006年11月 2日 (木)

サイドバー歌集(一応)完成

おいおい作るつもりが結局、今日のうちに作ってしまった。 Photo_15
こらえ性がないのだよ、おまえは。
とはいえ、歌の編集(配列)が楽しかった。
そしてまた、やっぱり縦書きは格好がいいことを再認識した。

さて、これで(いつかまた)歌が浮かんだら、ここに追加していけばいいな。これぞウェブ歌集なり。

※画像はゴールインマークの歴史から勝手拝借/感謝です。

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TANKA

アクセス解析を見ていたら、このチンケな俺のブログに「短歌」をキーワードに検索してくTanka れる人がいる。
どうしたんだろ、と俺もブログ検索したらやっぱり邦画好き…  『 TANNKA 短歌 』に遭遇(画像はここから勝手拝借/感謝です)。そうか、こんな映画が封切りされるんだ、万智ちゃんの原作か、と感慨を持つ。

というのも万智ちゃんとはパソコン通信で会話経験あり、リアルでも一度だけ、ご挨拶したことがある。
仕事を後半休にして観に行ったシンポジウムで「土曜日です。こんにちは」に「ああ、土曜日さん」と反応してくれた。もう遠い記憶の底にも無いだろうなあ。

 十三夜月は傾き星うすれパソコンいじる中年ひとり

このシンポジウムで万智ちゃんが採ってくれた歌である。

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サイドバー歌集作成中

ブログパーツに凝ってしまった。昨日は「名言集」を更に追加、そして今日は歌集を自歌Photo_279 自讃してサイドバーに載せる始末だ(このビョーキ治らぬわ)。

おいおい、歌を追加していこう。ツールは縦書き文庫&ブログパーツを利用させて頂いている。

※画像は★★TAMIYA SHOPから勝手拝借/感謝です。

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クロ現に応援エール

クローズアップ現代を毎日録画している。プールから帰って風呂、晩飯を摂りはじめるのPhoto_278 が8時過ぎで、そこからビデオ再生しながらビール・焼酎と続くのである。

で、今週は10/30、10/31放送のシリーズ 雇用“いざなぎ超え”とはいうけれど第1回 新卒採用ラッシュの陰で第2回 オレたちにも“景気”(リンクが張れない?)が中味が濃かった。
そこで思うのだが、雇用の多様化(非正規労働の増大)は(とりあえず)大企業の再生(偽装請負を想起せよ)を実現したけれど、現場の混乱をもたらしたりしてはいないだろうか。例えば、ソニーの電池不良問題なども雇用多様化と全く無関係ではないのではないか、と思ったりもする。

ところで、この放送に対する世間の反応を知りたく思ってブログ検索したら、私は団塊ジュニアの世代なんですが、堀江さんやイチローさん、新庄さんなんかも同じ世代です。個人的に思っていることですが、この世代は競争に駆り立てられているとするブログに遭遇した。俺には子供が無いけれど、子供がいたらいろいろ具体的切実に考えるだろうなあ。
また、マクドナルドの労働組合等についてはまっちゃんの狂人日記 - メモ-中野麻美さん新刊にリンクがある。労働ダンピングについてもこちらで知って、早速図書館にリクエストした。

ワーキング・プアの件といい、最近のNHKは頑張っている。社会活性化(内需回復)・日本経済競争力強化(←労働多様化の行き過ぎ是正)のために頑張れ、国営放送。安倍ちゃんは気に入らないだろうけれど。

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雨宮雅子

ビデオに録っておいた亡国のイージスを観始めたけれど、冒頭の佐藤浩市の重々しい感慨(守るべき国とは何か)から既に嫌気がさしはじめて、アクションが始まり出した頃に途中放棄してしまった。晩飯の酔いのせいもあるかもしれないが、どうも俺はこらえ性がない。一生懸命作られたスタッフ・キャストに申し訳ないではないか。

しかしながら、老境に近くなると重々しい映画にはついていけなくなるようである。実は(何を隠そう)戦争映画は嫌いではない。眼下の敵ナバロンの要塞など(古いナア)理屈抜きのアクション(物理・心理)、スリルは楽しめた。日本映画はなんで形而上学(存在とは何か等)を中途半端にまぶして映画をつくるのだろう。Why、What、Howの問いのうち、Whyは最も重い問いである。重い問いに答えるためには相当の覚悟と準備が必要になPhoto_277るはずだ、と理屈好き老人候補は思うのである。

さて、今日は雨宮雅子。「女人短歌」「林間」創刊に参加し、のち「地中海」でも活躍を経 て、現在「雅歌」を発行、キリスト教の洗礼を受け、聖と俗に身をおきながら神を求め続け、歳月への思いを深くする清浄なる祈りと歌集の惹句にある。

 国の忌も個の忌もひとつ夏花の夾竹桃のいろににじみて

二句で切れて、「夏花の」が「夾竹桃の」につなぎ、ひらがなの「いろににじみて」とやさしくかなしい余韻で終える。作者は昭和4年生まれ(ちなみに俺の亡母は3年生まれ、亡父は元年生まれで敗戦の日に即日除隊となったそうだ)、思春期を戦争で過した世代である。
死者について語ることはあっても、死者は何も語らない。他方、国敗れて山河あり、どころか国敗れて国は再生したけれど、死者は還らない。
映画ならば戦闘のスリルを楽しむけれど、実戦では(俺なんか一番に)小便ちびり糞を垂れるかもしれない。怖いこと痛いことは絶対に厭だ。

だから、我らはWhyの問いを忘れてはならない。なんであんなあほな戦争をしたんや。

※画像は三岸節子・赤い花から勝手拝借/感謝です。

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2006年11月 1日 (水)

アクセサリー充実させました

まず、「クリックで救える命がある」をバナーに変更(←左サイド参照)しました。Photo_1
次に、(右サイド参照→)「窓を開ければ…」コーナーを新設し、そこにニュース速報、ただいま放送中、今夜の月齢時計を設けました。
そして、画面に現れませんがアクセス分析ツールも設置しました。いつかこのブログが大ブレークするのに備えての処置です(私の目の黒いうちはありえませんが)。 ご参考までに分析画面の一例を貼り付けました。すぐれものです。

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我が現前の二つの画面

ひとつは、テレビ画面@熱帯ジャズ楽団(BS2放送)を映し出している。もうひとつは、パソPhoto_11コン画面@ネット検索。おお、そうかオルケスタ・デ・ラ・ルス→カルロス菅野→熱帯ジャズ楽団という流れかと認識した。

こうして、音楽鑑賞しながら関連キーワード検索というスタイルを覚えつつあり。先日もタコハチ、タコテンなるジャーゴンを仕入れた。ショスタコーヴィチ交響曲8番、10番のことなあんだって。今後、愛用しよう。タコちゃんは我がクラシック傾聴の導きの星なりき。

※画像は反形式主義的ショスタコーヴィチ研究会から勝手拝借/感謝です。

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他我問題(予習論証)

野矢茂樹「哲学航海日誌」再読中。その第一章が「他我問題」←発見に満ちている(前にPhoto_276 読んだときはどのように読んだのだろう。記憶が外化されていないので今となっては探りようがない)。
まだ第一章読了していないので駄文考察は後日として、今日のところはネットで「他我問題」を予習してみた。

まず、「他我」@ウィキペディア→「哲学的には他者の持つ我は必ずしも自明のこととは言えない。 他者の持っている我=他我を体験することは不可能である。これは独我論の裏返しである」とある。

独我論の裏返し?と思って「独我論」@ウィキペディアする→なんやあ、こっちには他我なんか全然触れとらへんやんかあ、何が独我論の裏返しやねん。と思いつつ、ウィトゲンシュタインにおいては「私に見えるもの(あるいは今見えるもの)だけが真に見えるものである」ということで表現されるというフレーズに引っかかって寄り道。

そこで俺のブックマーク@ウィトゲンシュタインから→ウィトゲンシュタインにおいては,「世界を満たす」論理(形式)があって,これに存在を付与し,限界を引くのが主観なのである. とある。すなわち、「世界と生とはひとつ」(5.621)であり,「私は私の世界」(5.63)であり,「思考し表象する主体は存在」(5.631)せず,「主体は世界には属さない.それは世界の限界である」(5.632)といえる.従って、独我論を徹底することによって,世界を成り立たせているもの,世界を存在させているものこそが「私」であり,それゆえに純然たる実在論となる。これがウィトゲンシュタイン独特の独我論=実在論(私が存在を付与する。眼は眼を見ることができない)である。これで完璧に理解したぞ。
だから、ウィトゲンシュタイン独我論では他我問題は発生し得ない。私(主体)は世界に属さないから、この世界は他者で満たされているのである。つまり、「他我」@ウィキペディアが独我論の裏返しというのは、ウィトゲンシュタイン独我論においては論理的に間違いであることが判明した。

従って、他我問題というのは純粋独我論における「他我は存在するか」という問題に絞られることになる。しかし、純粋独我論は一切の世界は「私」の意識内の現象と考えるのだから「他我は存在するか」という問題がそもそもあり得ない。だから、「他我」@ウィキペディアが独我論の裏返しというのは全くの間違いである。

かくして、他我問題とは「一体私たちは他人の心をどうやって知るのか」(「他我問題」ではてなダイアリー - キーワード検索せよ←検索結果リンクが消えてしまうので手間がかかった)という問題であることとなる。以上、予習論証終了。

※写真はSPGヨット(交差法)から勝手拝借/感謝です。

ブログランキング←ひとりよがり自信マークなり。

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寅をウィキペディアする

寅コメントを書こうとして「木の実ナナ」が浮かばなかったので(なにせ毎日脳細胞が死滅Photo_10 するのだ)ウィキペディアしたところ、こんな豆知識を入手した。

2006年8月4日の北日本新聞のコラム「天地人」によると、山田洋次監督は寅さんの最期を決めていたという。晩年は幼稚園の用務員になり、子供達と遊んでいるうちに死に、町の人が思い出のために地蔵を作るというものだ。最後のマドンナには黒柳徹子を考えていたらしい。

画像は車寅次郎業績集から勝手拝借/感謝です。ところで、この地蔵さんはどこにいらっしゃるのだろうか。

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