石川不二子
こうやってブログに駄文を綴っていると、我ながらつくづく、言葉、いや、言葉を弄ぶのが 好きだなあと感心する。寡黙を標榜している俺だけれど、ほんとはやっぱり、喋りだしたら止まらないのであろう。困ったものだ。
ところで、「言葉は世界の可能性の全体だ」という意味のことを説いた哲学者がいた。例えば、「本が机の上にある」状態を想像しよう。この事実を「本が机の上にある」と言語表現するということは、その否定形「本が机の上にない」ということを可能性としてはあり得るということを示していることになる。
つまり、言語を持たない動物たちにとっては、世界は常にありのまま、時間も空間も無く可能性も無いのであるが、言語を弄ぶ人間にとっては、過去・現在・未来があり、ここ・そこ・あちらがあり、可能性とか希望とか絶望が生まれるのである。
こんなの下らぬ。虚妄だ。世間皆虚仮と主張するのが仏教である。だから、色即是空という。もっとも、仏教はちゃっかりしていて空即是色と反対側の可能性にも言及している。
さて、今日は石川不二子。広く、深く、おのがじしにの心の花に属する歌人である。中城ふみ子と同時に、かつ、中城の激しい情念と対照的な、健康的で清新な作風として歌壇デビューしている。
われと同じ名をもつ林檎も薔薇もありこの世たのしとしばしは思へ
言葉フェチの俺はこの歌の下の句「この世たのしとしばしは思へ」に惹きつけられてしまう。仮令(この字をいっぺん使うてみたかった)世間虚仮であろうと、遊びをせむとや生まれけむ、だから、この世たのしとしばしは思へ、である。しかし、作者は開拓酪農の厳しい生活に自ら入った人だけに重みが違う。安易に惹きつけられたなどとほざくな、極楽トンボ。
とはいえ、言葉は世界の可能性だから、何を言ってもいい。どんな事態でも表現可能である。しかし、言葉と世界を結びつけることだけは絶対に必要だ。これが無ければ本当に世間虚仮になってしまう。
そして、言葉と世界とを結びつけるのは各人の人生しか無い。人生という現実において人は言葉を語り言葉と現実はリンクされる。だから、言葉で約束し裏切り裏切られ希望し絶望するのである。これを称して「私の言語の限界が,私の限界を意味する」とウィトゲンシュタインは語ったのであろう、多分。この世たのしとしばしは思へ。
※画像はバラ 紀伊國屋書店BookWebから勝手拝借/感謝です。
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