奥村晃作
このところ(正直に言って)俳句に夢中である。なぜ、こんなに夢中になったかという理由についてはウィトゲンシュタインとの出会いにありという自分なりの自己分析があるが、これはいつかまた書きたい。
それはさておき、俳句である。俳句の魅力のひとつは省略にある。簡潔なのである。
生きがたきこの生のはてに桃植ゑて死も明かうせむその花ざかり 岡井隆
夢の世に葱を作りて寂しさよ 永田耕衣
短歌と俳句を並べてみた。岡井隆が冗長に(申し訳ない)語っていることを、耕衣はぽんと放り出してお終いである。耕衣が「グダグタ言いなさんよ」と言っているかのようだ。
しかし、短歌には短歌の言い分がある。言葉を連ねて言いたいことがある。映像として読み手の脳に伝えたいことがある。
つまりは、短歌は具象画、俳句は抽象画ということかもしれない。この両者の世界で独りよがりに遊べる吾は幸せなりき。
さて、今日は奥村晃作。奥村晃作短歌ワールドを開設運営して元気いっぱいな歌人70歳 である。
次々に走りすぎ行く自動車の運転する人みな前を向く
一読、面白い歌だ。なにが面白いといって当たり前だから面白いのだ。言われてみればなるほどなのである。後ろを向いて運転する人なんてこの地球上に一人も(自信無くなってきた、ミラー使いが一人ぐらいいるかもしれぬ)いない(たぶん)。
作者にはこの手の歌が多い。いわゆる、ただごと歌である。
では、なぜ、ただごと歌を作者は好んで作るのか。
さきほど、俳句と比較して短歌は具象画と書いたけれど、この論理を延長すると具象画はただごと歌に到達するという理屈がひとつである。
もうひとつの推測は、作者の自己紹介にあるように思う。ここで作者はこう書いている。
少年の日と同じく、あいも変わらず、本当にやりたいことが何であるのか分らない。何のために生まれてきて、どういう使命を帯びていまなお生かされているのかよく分らない。
そして「わたくしはここにゐますと叫ばねばずるずるずるずるおち行くおもひ」他の叙情歌が引かれている。
短歌には、俳句では汲み尽くせない叙情がある。この叙情を俳句は切り捨てることによって成立する。ものにつけ、ということである。ウィトゲンシュタインの言葉を借りれば「語りえぬものについては、沈黙せねばならない」のが俳句なのである。
これに対して、奥村は叙情を切り捨てない。叙情を切り捨てるのではなく、裏側から歌いたい、それが奥村のこの歌ではないだろうか。前を向かねばならぬ運転者の切ない感情がここにはある。
※写真はクレスタ ユーザー評価 【carview】 トヨタ クレスタ - ユーザーレポートから勝手拝借/感謝です。
| 固定リンク
「短歌」カテゴリの記事
- 眼に相撲耳に音楽夏の夕聖徳太子にあやかりて我(2012.07.13)
- 身の始末きちんとつけて死にたしとテレビ見ながら定量を超す(2011.12.11)
- 藤川も寄る年波となりにけり諸行無常の夜は更け行く(2011.10.12)
- 勝ち負けが野球判然さて政治最悪避ければよしとはせむか(2011.08.27)
- プレモルで些細贅沢体重を考慮我慢の最後一杯(2011.08.26)
この記事へのコメントは終了しました。
コメント
お説の核心が充分に理解できたとはいえませんが、興味深く読ませて頂きました。
有難うございました。
投稿: 奥村晃作 | 2006年12月 1日 (金) 午後 03時42分
つたないひとりよがりの素人の文章にまで目を通して頂き、更にコメントまで感謝です。更なるご健勝をお祈り申し上げます。
投稿: 土曜日の各駅停車 | 2006年12月 1日 (金) 午後 04時04分