即物有情@句をひねる
メモ帳をデスクトップに貼り付けて、そこで俳句の在庫管理(平均在庫4首、及び不良品も 後々の参考にするべく残してある)をしている。そして、PCを立ち上げると随時ここを眺めている。音楽を聴きながら眺めたりもしている。それ故、これが結果的に推敲メモの役割を果たしてくれているから面白い。
さて今日の句は「すこやかな脳で死にゆく冬の蠅」。姑のショートステイを迎えに行くため特別養護老人ホームに定期的にお邪魔しているが、重度の認知症の人を見かけたりする。ここでその様子に触れるつもりはないが、機会があれば皆さんも見学に行かれるといい。「いのち」を感じられると思う。この句はこんな体験が背景にある。
それはさておきこの句の初案は「死にたし」だった。昨日、音楽を聴きながらメモ帳を見ていたら突然にひらめいた。
「死にたし」は短歌的詠嘆だ。俳句では詠嘆はなるべく避けるべきだ。とすれば「死にゆく」に直そう。冬の蠅に己の情を託して詠む、すなわち、即物有情(物に情を織り込む@俺の造語)が俳句の基本なのだ。
従って、情を直截に言葉にすることをなるべく避けること。具体的には、悲しい、切ないなどという言葉を使わないことである(どうしても使いたければ短歌にすること)。われ、私も原則的に禁句である(使って効果的な場合もあるけど)。
短歌はコト(関係)を詠う詩、俳句はモノ(対象)に情を託し間接的にコトを詠う詩である。だから、俳句は即物有情、と覚えておこう。
ここまで書いて、天地有情という言葉を思い出した。そうか、俺はここから潜在意識でヒントを得たのだなと得心した。ネット検索すると安岡正篤「天地有情」などという本があるようなので、漢籍に典拠があるのではないだろうか。おお、中曽根元総理の対談とも遭遇した。彼の俳句は有名だし、対談を読むと読書的教養もあるようだけれど、市民というのは、反権力のイデオロギー的虚像と言っている。このあたりが中曽根大勲位だろうなあ。
ちなみに、天地有情とは、人間は天地の風情に感情を投影するのではなく、天地そのものがすでに情をもっていて、人はその一部を分け与えられているに過ぎない、というような意味らしい。大森荘蔵もこの言葉を使っているとのことである。「流れとよどみ」近々読書予定。
※写真は::東京日和 早稲田::から勝手拝借/感謝です。早稲田付近に漱石「則天去私」の碑があるようだ。
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