俳句と短歌
俳句は以前パソコン通信時代に句会に参加していた。だから、今回復活(動機はブログ の味付け)したこととなる。
とはいえ、大した句を得たわけではない。どんな句をひねったか、忘れてしまったし記録も手元には無い。
さてそこで思うのだが、短歌は詠嘆、俳句は宇宙である。つまり、短歌はどこまで行っても徹底的に私歌(私を離れては歌はないのが原則)であるのに対して、俳句の原理は無私に帰依して(ないしフリをして)私以外(即宇宙)を歌う詩にある。
そして、俺の主張する短詩型文学三原理(韻律、思想、比喩)に即して言うと、短歌の重点は比喩にあり、俳句は思想に重きを置くということになる。
すなわち、短歌では思想(歌の中味)よりも詠むことに意味があり(白秋「君かへす」を想起せよ)、季語が骨格となる俳句では、これと関係(付かず離れず)させての主張(思想)が大事になるのである。そして、歌を詠むためにはまず根拠を現実に置くことが妥当であり、句をひねるためには(歌と発想を変えて)現実から離れての思想が必要ということになると思う。
とすれば、歌は真実(まこと)から出る詩、句は虚構から入る詩ということになる。屁理屈が先に立たねば手が付かぬ我の性分どうにかしてよ。
虚構から入るは俳句真実より出づるは短歌 終点何処?
ちなみに、短歌と俳句の両刀使いで浮かぶのは寺山修司だ。ネット検索して嘘つき修司の骨頂。父は死んでも母は生きていたが、その母と別れ、さらに殺して句が出来上がる。と遭遇して、修司の詩句を味わうことができた。俺も一首、引いておこう。
アカハタ売るわれを夏蝶越えゆけり母は故郷の田を打ちていむ
※画像はしんぶん赤旗から勝手拝借/感謝です。
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コメント
TRありがとうございました。小生は株をまったく知らないのですが、株と短歌と俳句というのは凄い組み合わせですね。
投稿: mizumakura | 2006年11月 5日 (日) 午後 01時16分
わざわざお越し頂き、こちらこそありがとうございました。株は現在訳あって取引自粛しております。だから、凄くもなんともないです。
更なるご健勝をお祈り申し上げます。
投稿: 土曜日の各駅停車 | 2006年11月 6日 (月) 午前 03時55分
小生のブログで紹介させて頂きました。http://ootsuru.cocolog-nifty.com/blog/2008/04/post_1602.html
今後ともよろしくお願いします。
投稿: 大津留公彦 | 2008年4月13日 (日) 午後 06時40分
大津留公彦さん
ご紹介頂きありがとうございました。哲学方程式まで引いて頂いているので喜んでいます。だいぶ以前の記事にこうしてコメントをつけて頂くのは有難いです。世界中の人の今日が昨日より少しでも幸せであればいいですね。
投稿: 土曜日 | 2008年4月14日 (月) 午前 05時06分