大悟一番
姑85歳との会話。
「このごろぼけてきたわ」
「なんや、どういうこっちゃ、言うてみ」
「朝起きるやろ。昔やったら今日はこれしよう、というのがあったけど今はないねん」
「ふーん、それは何かのためになにかしようと思てたんか」
「そや、それが今はないねん」
「あかん。何かのためにいうのが間違いや」
「どういうこと?」
「つまりなあ、何かのために何かをするいうのはなあ、目的と手段や。ところがこんな風に考えると、目的がなくなってしまうとみーんな無しや。そやから手段という考え方自体が間違いやねん。玉葱と一緒や、手段という皮を剥いていったら全部無くなってしまうねん」
「ほおおぉぉ」
「そやから、あんたの人生みんな間違い。息することも目的やと思うてみ。それが大悟一番ということや」
「ふうーん、ふうふうふはああ」と息をする姑であった。
思いつきで言ってしまった大悟一番。ネット検索すると使われてはいる。よかった。しかし出典判明せず。
それはともかく、言葉はいつも天唾でわが身に降り降りてくる。
全ては目的。大悟一番せよ、只管打坐→追記:ネット検索したら、観念がんじがらめに自分を縛る、閉塞社会そのものです、仏とは何か、ほとけはほどけだと云った人がいます。自縄自縛する縄をほどくんです、ほどき終わればもと仏。とあった。読んで、意味はわかる。わかるけれどもなかなかほどけぬこの煩悩。
※写真は道元、道元禅師様から勝手拝借しようとしたけれど転載禁止としてあるのでカン トで代替する。東海大学公開講座より勝手拝借/感謝です。
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