句切れ@句をひねる
句作に勤しむようになり思うことあり。その一は「切れ」なり。
句をひねるに、切れ無くば句に非ず。すなわち、切れは句のアルファにしてオメガなり。
どういうことかと言うと、俳句は5・7・5の言葉の連なりだが、もともと切れているものを助詞助動詞動詞更には形容詞でつなぐもの。だから、意識的に切れを入れないと、いわゆる三段切れ(禁じ手)となってしまう。実例を示す。
冬銀河月はうるわしオリオン座
あのなあ、あんたの言いたいことはわかる。わかるけれども、銀河と月とオリオン座を並べただけやんか。そんなん俳句とちゃう。俳句は世界で最も短い詩なのだから、余韻を読ませるようにしないと詩にならへんのや。だから、切れ。切れにより余韻を残す。それが俳句なんやで。
つまり、俳句は短いだけに形(理)における制約が短歌よりきつくなる。短歌においても切れはあるけれど、それは意味上の切れ(単なる呼吸の切れと言ってもいいだろう)。これに対して、俳句の切れは詩型を成立させる理としての切れなのだ。理に情(内容)をいかに盛り込むかが句作の勝負となるのである。では、切れを入れればそれでいいか。
理と情の合はせ妙味や句をひねる
この句は確かに「や」という切れ字が入っている。しかし、切れで余韻が残らぬ。なぜなら、切れの前後で意味が対立していない、すなわち、どちらも俳句のことを詠んでいるからである。こういう句は無理に切れを入れようとせず、一句全体で切れ(余韻)をつくればいい。たとえば、「かな」を使うのだ。
理と情の合はせ妙味の俳句かな
更に喩のスパイスをふりかけるとこうなる。
理と情のカクテルひねる俳句かな
かくして、短歌はおのがじしに詠うもの、句は理を踏まえてひねるべしとなるのである。
あ、上の俳句、季語が無かった。川柳なりき。
詩の女神我が枕辺に来てのたまふは歌は詠むもの句はひねるべし
※画像は巣鴨・真性寺にある「芭蕉の句碑」から勝手拝借/感謝です。
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