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2006年12月 1日 (金)

聡明で健気な貴女に捧げる哲学史(5)自然に帰れ

哲学は、自然主義(古代原子論)→反自然主義(プラトンのイデア一元論)→反プラトン主Photo_354 義(認識論的転回:デカルトの物心二元論、そしてニーチェ)→言語論的転回(反観念論フレーゲ)という流れをたどってきた。実在するものは物質であるという素朴な唯物論がプラトンによって否定され(イデアという抽象的実在が真の実在)、反自然主義が自然主義(唯物論)を抑圧し続けてきたのが西洋哲学の歴史といってよいであろう。

そして、かかる反自然主義が物質文明を築く上で大きな力を発揮したのも否定できない。
だが、反自然主義が生んだ自然科学の発展(地動説・天文学、ニュートン力学、電磁気学、進化論・生物学など)が地球は数ある惑星の一つにすぎず、人間も生物の一種という認識をもたらし反自然主義の基盤を崩し始めた。また、哲学内部においても、デカルトが確立した物心二元論の不自然さ(心の中の観念がいかにして実在に結びつくのか)が指摘され、観念を哲学から追放しようと言語論的転回がなされた。

しかし、言語論的転回といえども広い意味での認識論的展開の範疇の中での哲学であった。つまり、存在論を回避して認識・信念の正当性を言語の観点から考えようとした哲学にすぎない(「哲学に固有の認識論的問題は存在しない」と論理実証主義をノックアウトしたクワインは言う)。
そしてクワインを一歩進めて、ローティは哲学の終焉を宣言する。人間の心を実在を正確に表象する「自然の鏡」であると考える、プラトンに由来する、あらゆる知識に根本的基礎づけを与えようとする西洋の認識論的哲学(=「哲学」)を批判した。

と、ここまでエラソーに書いたけれども、もちっと自分の言葉で考えてみよう。そこで、心の見取り図登場。

価値世界      概念世界     事実世界
客観(間主観) ⇔   心   ⇔     実在

   信念    意志 思考(理性)     経験(知覚現象)
   規範        認識(意味の他者と言語による社会的認識:悟性)
              知覚(五感)
          感情 感覚(体性感覚。例えば痛み)
              記憶

上の図でいう概念世界(心)と事実世界(物)とをデカルトは峻別した(物心二元論)。しかし、人間も自然の存在である以上、経験(知覚現象)も自然内の事象として捉えるべきではないか。知覚という働きこそ脳内の機能であるが、知覚という現象は自然的及び社会的現象なのである。
また、思考・記憶にせよ更には意思・感情でさえも社会的思考・記憶・意思・感情として把握すべき部分が大きいのではないか(社会的大衆ヒステリー、世論操作を思え)。

つまり、心は哲学者のいうような主観的なものではないのである。それは公共的な言語によって支えられた社会的なコト(対象・関係でいうところの関係)なのである。例えば、西田幾多郎の言う「場所」というものも、こうした心の社会的関係性のことなのだ。(場所とは、「~に於いてある」ということ。人間は、完全に、存在している場所からはなれることはできない。「日本に於いてある」、あるいは「アメリカに於いてある」、あるいは、「中国に於いてある」。ということです。「場所」というものが、「主体」と「客体」を融合する、一つの全体的な枠組みを提供する。「世界」というのも、ひとつの「場所」ですね。

こうした心の自然的社会的還元(心の場所化と呼ぼう)がひとつ。
もうひとつはローティのいうところの「自然の鏡」であることを止めること、すなわち、真理の基礎づけ主義・反映主義から構成主義への転換である。人間とは独立に存在する真理を人間が鏡として反映するのではなく、現実・実在をモデル化・理論化することにより客観(真理に替えて客観=間主観)を構成するのである(人間原理的モデル論的転回と呼ぼう)。

かくして、人間は自然に帰るべきである。心の場所化とモデル論的転回が哲学の脱構築(唯物論への回帰)をもたらすと思うのである。<心は自然主義、理論は構成主義というごく当たり前のことを主張しているのにすぎないのです>

※写真は「自然に帰れ」を主張したジャン=ジャック・ルソー - Wikipedia

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