佐佐木幸綱
長嶋茂雄 野村克也
大江健三郎 井上ひさし
曾野綾子 田辺聖子
さて、上の三人の対比はいったいなんだろうか。
答えは、左側が短歌型人間、右側が俳句型人間。坪内稔典「俳句的人間・短歌的人間」から頂戴した。
短歌型人間とは「主観的、情熱的、自己陶酔的、真面目」な人間で、俳句型人間は「客観的で冷静、そして自己をも茶化す道化的な精神を発揮」するとのことである。ちなみに著者ネンテン自身は俳人である。
そこで、なぜこうした対比になるかという根拠だが、短歌型人間の自己陶酔・自己主張は「五七五七七音の短歌形式の性格、ことに下句の七七音の働きから生じていると思われる」と主張して、次の歌を例証にする。
人皆の箱根伊香保と遊ぶ日を庵にこもりて蠅殺すわれは 正岡子規
やは肌のあつき血汐にふれも見でさびしからずや道を説く君 与謝野晶子
われ男の子意気の子名の子つるぎの子詩の子恋の子あゝもだえの子 与謝野鉄幹
つまり、短歌は俳句より下句七七の分、音数が多いため、つい饒舌となり上の三首(特に鉄幹の歌)のように自己陶酔的ホットになるというのだ。確かに俳句は「語り得ぬものについては沈黙しなければならない」と自制客観となるのだが、短歌は歯止めがないなあ。
しかし、ものごとは皆バランス。左が無ければ右も無い。心は左にお財布は右ポケットに、とか、熱いハートと冷たい頭脳とか言うではないか。短歌あっての俳句、俳句あっての短歌である。だから、多数派の右傾斜はやっぱりキモイぞ。
さて、今日は佐佐木幸綱。男歌の代表的歌人であり、俵万智のお師匠さんである。
ゆく水の飛沫き渦巻き裂けて鳴る一本の川、お前を抱く
「ゆく水の飛沫き渦巻き裂けて鳴る一本の」は「川」を引き出すための万葉調枕詞であろう。これが現代的前衛的技巧であり、歌の中身は「お前を抱く」だけである。
しかし、このような饒舌冗長な形容が新鮮な喩を歌にもたらし、しかも、硬い措辞が男っぽい雰囲気を醸し出すのである。女ならこんな男に惚れてみよ、と言っているのである。
幸綱はラガー・マンで「ハイパントあげ走りゆく吾の前青きジャージーの敵いるばかり」というラグビーを題材にした歌もある。むせるような男臭さ。この味は俳句ではちょっと音数が足らぬなあ。おセイさん(田辺聖子)の好みではないと勝手に思うのだが、いかがなものか。
※写真は早稲田ウィークリーから勝手拝借/感謝です。
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