小中英之
句作を始めるようになってあらためて叙情を思う。短歌は徹底的に私歌だから、自分の思 い(メロディ)を韻律(リズム)に乗せて適当な措辞で響かせれば(ハーモニー)、なんとか歌にはなる。
しかし、17音と土俵が狭い俳句ではメロディを歌わせる余裕が極端に少なくなる。だから、「ものにつけ」ということになり主観よりは客観でメロディを歌わざるを得ない(即物有情)。
つまり、詩句の結晶度がより高く要求される(ごめん、短歌を見下しているのではない。俳句に現在バイアスがかかっているので許せ)ことになるのである。まして、季語という核がある分、写生が要求されるから尚更である。
こうして、思想をいかに旋律に転換するかという技(詩そのもの)が俳句では殊更に必要となるのである。また、中途半端な思想ではそもそも詩にはできないから、思想自体もやわではお話にならない。要するに、考え抜け、言葉を鍛えよ、である。
さて、今日は小中英之。若い頃から不治の病に冒されていて、2001年に他界した歌人である。
今しばし死までの時間あるごとくこの世にあはれ花の咲く駅
平明で透明な叙情をたたえた歌だ。上の句「今しばし死までの時間あるごとく」が前奏を奏で、下の句「この世にあはれ花の咲く駅」が主題旋律を美しく歌う。
時間が止まったような風景であるが、しかし、いつか死は確実にやって来る。病を得ている歌人はそれだけに切々と歌い、詠うことにより時間を着実に刻みたいのではなかったろうか。
短歌においても俳句においても最後の主題は死だと思う。死を凝視することにより生は豊かになる。それを信じて鍛えよ言葉を。
※画像は雪舟から勝手拝借/感謝です。
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コメント
土曜日さん こんにちは
私は昨日句会でした。
先生も「句作とは自分を耕して行く」ことと
よくおっしゃっています。
まだまだ我が言葉の修行はこれからです。
東京はやっと銀杏の色が美しくなりましたね。
投稿: みなこ | 2006年12月 3日 (日) 午前 10時41分
あ、間違えて自分のコメント消してしもうた。ほんと、なんとかしてえな、このスパムコメント。
それはさておき、コメント復元。
「ほどほどの不幸さかなに日向ぼこ」、いい句でした。飄々軽々としています。
多摩の銀杏はもう落葉しきりです。
投稿: 土曜日の各駅停車 | 2006年12月 4日 (月) 午前 06時00分