西田幾多郎×永井均
西田哲学との出会いは上田閑照「西田幾多郎を読む」だった。純粋経験「色を見、音を聞く刹那」=主客未分の知覚経験そのものから出発して全てを説明したいという西田哲学に感じてしまった。思えば、俺の世界三層構造(価値世界⇔論理世界⇔事実世界)の出発点になる概念が純粋経験である。
原典難解嫌い入門書好きという俺が「善の研究」「西田哲学論集」を読んだのだから驚きである。もっともどこまで理解したかは不明で今はほとんど読んでいない。それでも俺にとっては思い出深く大切な哲学者である。
そんな西田幾多郎をあの永井均が語るという本「西田幾多郎―「絶対無」とは何か」を読んだ。ここのところ途中放棄することが多い永井の著書だけれどこの本は読了した。しかし、これまた理解が行き届いているか疑問である。
そこでこんなときは人様のブログに頼ろうと検索したら、言語と体験を何の問題もなく相即させたデカルトに対して、ウィトゲンシュタインも西田も両者を切り離し、ウィトゲンシュタインは言語の側から、西田は体験の側から、問題を出発させるに出会った。
うまく表現されているなあ。俺流にこれをもう少し噛み砕くと下のようになる。
デカルトは「われ思う、ゆえに、われ在り」と方法論的懐疑体験から言語抜きに「私」を基礎づける。
これに対して西田は、主客未分の純粋経験から出発するので主体以前で「思う、ゆえに、思いあり」と「経験」を基礎づけた後に私、汝、世界、神へと展開させる。そして、永井は「純粋経験それ自体が言語を可能ならしめる内部構造を内に宿していた」(これが永井の独創→しかし、内部構造がどんなものか俺には読み取れなかった)として西田を言語哲学者として位置づける。西田哲学は神秘的宗教的でもなんでもなく、論理的に「卑近で自明な事実を語る」哲学だと言うのである。
同じく言語を問題とする論理的な哲学でもウィトゲンシュタインは、私的言語を否定するので純粋経験から言語を抽出することは出来ず、「言葉が体験とは独立に意味を持ちうる」とする。
やっぱりムツカシイなあ。要するにデカルトは「私」の基礎づけにおいて言語分析をサボった。これに対して、ウィトゲンシュタインが「主体は世界に属さない。それは世界の限界」であるとした「私」の成立という問題を西田は純粋経験から基礎づけようとしたのである(これでもまだムツカシイ)。つまり、「私」をウィト(ウィトゲンシュタイン。以下ウィトと略称)は言語から、西田は経験から考えているのである。
これを俺のモノコト・モデルで考えてみよう。ここに、モノ=実体(主語)、コト=関係(述語)とする。ああ、主語述語使い分けモデルと呼んだ方がわかりやすい。
とすると、ウィトは言語=主語/経験=述語モデルを採用し、西田はその逆モデルを採用したと言えるのである。
そして、俺の心の見取り図が示すように、心とか経験において公共性が優位を占めることを考えると、言語=主語/経験=述語モデルで理解した場合が妥当であろう。ウィトの勝ち!
ところがここにひとつだけ西田モデルでないと説明できそうにない問題がある。それが永井がずっと問題にしている開闢の奇跡(「私」ではなくこの<私>。いまここに生きている私と私の生をどう説明するかという問題)である。
言語は「私」(一人称)を世界(論理世界)の限界として位置づける。だが、<私>(具体的実存と呼んで差し支えないでしょう、永井教授)を言語は説明できない。だから、<私>を説明するためには、経験を主語、言語を述語にして世界を語ることが必要となる。このモデル転換を西田は「自覚」と呼んだ。そしてこの事態を、永井はこう表現する。
言語において無は有化されるのだが、「自覚」において有は再び無化されうる。
私は言語によって有化され、経験によって無化される。だから、「人が経験するのではない。経験が人をつくるのである」と西田も言うのである。色(主語)即是空(述語)、空(述語)即是色(主語)。絶対無とは「自覚」され無化された有なり。←神の贈り物
※写真は永井均。GOOD PROFESSOR(グッドプロフェッサー) 早稲田塾が選ぶ一生モノの大学恩師を紹介! 千葉大学br[文学部]br永井 均 教授から勝手拝借/感謝です。「――僕はどうして存在するのか―― すべては、そこから始まった」が永井均の出発点とする分かりやすいページです。
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コメント
ぼくは西田幾多郎はなんか素通りしてしまった感じですが、永井氏が書いたというのはとても興味をそそられます。それにしても「言語哲学者」とは。意表をつかれました。檜垣氏はベルクソンにひきよせて「生命哲学」と呼んでいるようです。読んでいないくせにヘンな言い方ですが、西田がいまだに人気があるのがなんかうれしいです。
投稿: 鏡像 | 2006年12月17日 (日) 午前 01時48分
永井均=西田幾多郎といって差し支えないと思うぐらいです。NHK哲学ブックスの最終巻だそうです。薄いし、是非お薦め。
投稿: 土曜日の各駅停車 | 2006年12月17日 (日) 午前 03時57分