二物衝撃+写生@句をひねる
俳句の妙味の最大は取り合わせと以前から思っている。そして、取り合わせを作り出す技法のことを二句一章または二物衝撃という(このリンクはわかりやすく解説してくれている)。
しかし、二句一章または二物衝撃は、これにもたれすぎると安易な句になってしまう。
愚作から例を挙げよう。
小春日や芸道一代売れもせず
確かに「小春日」と「売れもしない芸道一代」とは対立構造にある。しかし、まあちょっとオモロイなあというだけの句である。作者の安易な性分が透けてみえるような句である。
なぜか。
季語「小春」の必然性が無いのである。別に「小春」でなくてもいいのであって、「冬紅葉」でも「柿若葉」でも配合の妙味がありそうな季語ならなんでもいいからである。そして、そうなるのはこの句に写生が無いのが決定的な要因となっているのである。
だから、二物衝撃は写生を伴わないとよくならない。例を挙げよう。
閑さや岩にしみ入蝉の声 芭蕉
「岩にしみ入」という写生があるからこそ、「閑さや」と「蝉の声」との二章一句が生きていて、句に必然性が生まれる。俳句に写生が欠かすことのできない重要性を拳拳服膺すべし。
※写真は坂田三吉(女房は小春)。事の真相から勝手拝借/感謝です。
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