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2006年12月 8日 (金)

俳句の天才―久保田万太郎

図書館で見つけた小島政二郎「俳句の天才―久保田万太郎」から記録すべきフレーズを引いておく。

要するに、写生は方法―手段であって―、目的ではない。目的は「詩になる瞬間」を会得することである。
写生はやさしいから、我も我もと写生ばかりして、目的を達したと思っている。それがあなた方の俳句である。


写生でさえも会得していない俺だけれど(俺だから)、我が意を得たりと拍手した。しかし、「詩になる瞬間」会得への道は遠い。更に、次の箇所は我が肝に銘ずべきである。

本当の俳句を作ろうと思ったら、まず自己を発見することが必要だ。

俳句は抒情詩だと云ったのは、芭蕉の前にも、芭蕉のあとにも、一人もいない。芭蕉が始めて樹立した俳句の詩学なのである。
では、どうしたら俳句が抒情詩になれるのか。自己の生活を歌えと芭蕉は云っている。


写生は手段。目的は詩をつくることである。そして、詩にするためには自己の生活を歌うこと。万太郎は自己の生活から詩を生み出すことにおいて天才であった。虚構句も自己Photo_375 の生活から出てこなくては、川柳に止まるのみだ。
例を引こう。1945年、敗戦の日を万太郎は次の句にした。

 何もかもあつけらかんと西日中

「あつけらかん」も「西日中」も(当時、万太郎がどんな生活をしていたか知らないけれど)生活と敗戦の実感から生まれた言葉だと思う。万太郎は、自己をみつめた俳句の天才(詩人)である。さて、俺はどれだけ自分を見つめているのやら。

※写真は東京裁判から勝手拝借/感謝です。

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