春日井建
句歌において、いったい「詩になる瞬間」とはどのようなものか。
音楽の三要素(リズム、旋律、ハーモニー)になぞらえて、句歌の三要素(韻律、主題・思想、言葉の響き合い)を俺は主張しているのだが、これに沿って考えてみよう。
まず韻律(リズム)。これは定型に即して句歌をつくれば自ずと(語感の問題は別にして)備わる。
次に(主題・思想は置いて)言葉の響き合い(ハーモニー)。俳句においては取り合わせ(二物衝撃・二章一句)という技法が確立されているので、これを勉強・修得すればよい。例を挙げると、「菜の花や月は東に日は西に」蕪村では「菜の花」と「月」が取り合わせの妙である。
他方、短歌には季語が無いので取り合わせという技法のありようが無い。そこで、言葉の貯蔵庫をどれだけ具備しているか、比喩(アナロジー)の発見力が決め手となる。俳句においてもこれらは必要な能力である。
さて、残る問題は主題・思想(旋律)である。これが難問。端的に言うと、対象(風景、心象その他対象となる事実の全て)からどう旋律を紡ぎ出すかということである。
例を挙げよう。「月天心貧しき町を通りけり」蕪村である。
このとき蕪村が町を月光を浴びて歩いていたかどうか知らないが、蕪村は「月天心」「貧しき町」という旋律を紡ぎ出したのである。ここには比喩「貧しき」とか語彙「天心」の力も多少は預かっているが、月が町の上にあったという事実から旋律(論理といってもいいだろう)を抽出する瞬間こそが「詩になる瞬間」である。
つまり、事実空間から論理空間を抽出する瞬間が「詩になる瞬間」なのである。
すなわち、これが「自己の発見」とか「生活から歌う」ということである。理屈・観念で歌うな、物事(事実)に即けということである。
さあ、問題(what)は分かった。あとは習練(how)である。句歌研究、事実探求そして練習しかない。道は遠い、しかし、寿命もたぶん少しは余裕あるであろう。
さて、今日は春日井建。三島由紀夫が「われわれは1人の若い定家を持ったのである」と絶賛してデビューした歌人である。
童貞のするどき指に房もげば葡萄のみどりしたたるばかり
韻律よし。言葉の響きあいもよし(「童貞」と「葡萄」と「したたる」の響き合い、「するどき指」という比喩)。しかし、主題・思想がこの歌だけでは(俺には)よくわからない。
そこで、他の歌を見ると「男囚のはげしき胸に抱かれて鳩はしたたる泥汗を吸ふ」などがある。微かに♭の匂いがする。ハ長調はあまりにも単純だけれど俺はやっぱり♯だなあ。そういう眼で掲出歌を読み直すと、ああやっぱり♭だ。ヘテロに限ると俺は固定観念を抱いてしまったのである。
つまりは、旋律は趣味の問題に帰する部分がある。悪趣味だと切って捨てるのは悪趣味だけれど。
※画像は小松繁敬『葡萄と落葉』から勝手拝借/感謝です。小松さんはALSという病気を患い、入院生活を続けておられる方である。是非、クリックを。
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